(旧)十億分の一の魔女 ~ナノウィッチ~

田所舎人

6

 翌朝。ナノとセイはゼプトの手料理に箸を伸ばしながら今日という休日の日程を簡単に決めていた。
「まず、俺とセイは学園長のところに行ってセイがここで住む許可をもらってくる」
「そうだな。それぐらいならエクサも許可を出すだろうし、出さなかったら俺が出させる」
『私からも学園長にお願いしてみます』
 ナノは初めに根野菜と牛肉の油炒めに箸を伸ばした。ごまの風味が朝から活力を与え、ボリボリと厚くスライスされた牛蒡とやや濃い味付けされた牛肉が奥深い風味を醸し出している。
「そのあとは街に行くつもりだ。目的はもちろん、街を回ってセイの服を買う。俺も欲しいものがあったら買う」
「街に行くんだったら二時間後に街に向かう馬車が学園に来るからそれに乗るといいぞ。歩いて行けない距離じゃないが、使えるもんは使っとけ」
『それは私も乗れるんですか?』
 次は五穀米に箸を伸ばす。素朴な甘味がナノの実家を懐かしくさせる。この米ももしかしたらナノとアンが育てた米かもしれない。独特の香りともちもちと食感がこの上なく美味しい。
「エクサが認めればセイちゃんもこの学園の客になるんだから使えるはずだぜ」
『それは良かったです』
「セイが乗れなきゃ走ればいいさ。俺もセイも足は早いからな」
 その次は長ネギが入った味噌汁に手を伸ばす。長ネギの甘味とシャキシャキとした歯応えが堪らない。味噌汁を一気に飲み下せば爽やかな後味、毎日飲んでも飽きない魔法のような飲み物。
「そういえば、昨日の夜やりあったんだってな。セイちゃんから見てナノは強いか?」
『マスターは強いです。躊躇いのない手刀に精確な短剣の投擲、そして短剣で負傷した腕も短時間に治癒していました。それに、カンデラ・マイを守ろうとした姿勢は戦士そのものでした。事前の情報では男性の魔女だと聞いていたので戸惑っていました』
「俺には戸惑っているようには見えなかったけどな」
 最後に手をつけたのはメインディッシュのアジの揚げ物。カリカリの衣がサクサクという音を立て、その身はホクホクとしつつ脂が乗っており、小さな見た目とは裏腹に食べ応えのある物だった。頭から尻尾まで食べられる一品。
『私だって戸惑うことぐらいあります』
「セイちゃんはもっと表情豊かになるといいぞ。女の武器は笑顔だからな。街に行ってたくさん楽しんでこい。ナノも女性には優しく接するんだぞ」
「分かってるって。ごちそうさまでした。セイ、行くぞ」
 料理を全て平らげ、セイを連れ出す。戸惑うセイの腕をナノは掴み学園長の所に向かった。
「おっと……折角弁当を作ってやったのに忙しない奴だな。……一個は俺が処分するとして……エクサにでも恵んでやるか」
 ナノがセイとデートするなら俺もデートをしてやろうと張り切るゼプトだった。






「良かったな。学園長が二つ返事でセイが住むことを許してくれて」
『はい。学園長はとても良い人です』
 ナノは学園長のエクサにセイが男子寮に滞在することを許可するように頼んだ。するとエクサはセイのジロジロと見ると何か面白そうな物を見たような表情を浮かべ、許可しようと一言だけ口にした。
「そういえば、本当にあの狭い隠し部屋で良かったのか? 部屋ならまだあるんだぞ?」
『私はあの狭く暗い場所が落ち着きますので、気にしないでください』
 ナノにはよく分からない感覚かもしれない。周りに壁があるということは外敵から身を守るということだ。開放的なナノと閉鎖的なセイの顕著な感覚のズレの一つだろう。
 馬車の停留所には数台の幌馬車が並んでいた。馬車に乗るには一人につき一○○エルグ必要だと書いてあり、セイが読み方を教えてくれた。セイがいなければ街中の感字も読めないのだと改めて気付かされた。
『マスターの所持金はいくらですか?』
「えーっと、三七三○エルグだな。二○○エルグ払って残りが三五三○エルグか」
『私の分まで出してもらって申し訳ありません』
「いや、いいんだよ。セイのおかげで感字も読めるし、会話をするだけでも勉強になってるんだから」
 御者に二○○エルグを支払い馬車に乗り込む。既に先客が四人おり、ナノとセイが乗り込んで六人。それでこの馬車は満員である。
(搭載人数が六人で一人につき一○〇エルグ。片道で六○○エルグ。往復で一二○○エルグ。馬二頭を飼育しながらこの日当はまずまずだな。街から学園に来るまでに何かを輸送して更なる利益を生んでいるのかもしれない)
 ナノが数字遊びをしていると、こちらをチラチラと見ている銀髪の少女と目があった。少し吊り上がった赤い瞳を持つ褐色肌の少女。ソーン・テラだ。ナノと目が合った途端に前を向く。
『マスター、ソーン・テラがどうかしましたか?』
「セイ、テラのことを知ってるのか?」
『はい、マスターの身辺を調べる時に同期の方は全員調べました』
「へぇー、セイは仕事熱心なんだな。偉いぞ。盗賊の頭領が言ってたぜ。『仕事は隅から隅までやるもんだ。仕事で手を抜く奴は信用ならないぞ』ってな」
 あなたを殺すために調べていたとはセイが言えるはずもなかった。
『ありがとうございます』
「どういたしまして。それにしても、テラも街に行くのか」
 ナノは立ち上がり、テラに近づく。銀髪から覗く褐色肌が綺麗な色合いだとナノは思った。
「おっす。テラ」
 テラはその赤い瞳でナノを睨みつけた。
「なにかしら?」
 テラは人を突き放すような物言いでナノに応える。
「テラも街に行くんだろ? 何しに行くんだよ」
「テラ様」
「?」
「私の事はテラ様とお呼びなさい。農家の生まれでこの高貴な私と対等に接するだなんて無礼にも程があるわ」
「でも、様って尊敬する相手に付けるんだろ? 俺にテラの何を尊敬しろっていうのさ」
「なッ!?」
「ん? 何かおかしなこと言ったか?」
「私はレスリックの国王、ソーン・ガイの娘であるこの私に向かってなんて口を聞くのかしら!」
「国王だろうが国王の娘だろうが俺には関係ないよ。だって俺はレスリックの国民じゃないし。それでも、俺に様付けで呼べって言うなら俺より美味い米を作るか俺より大きい熊を仕留めて俺に尊敬させてみせろよ」
 いつになく挑発的な言い方をするナノ。
「私に農耕や狩猟をしろと言っているの!?」
「おう」
「話にならないわ! 私に近づかないで! この無礼者!」
 激昂したテラがナノに向かって怒声を上げる。周りの乗客は触らぬ神に祟りなしと背景に徹している。
「ほいほい」
 ナノは大人しく引き下がり、席に付く。馬車内の雰囲気は穏やかではない。テラはピリピリと神経を尖らせており、対するナノは街にはどんなものがあるのか、どんな美味しいものがあるのか、どんな楽しいものがあるのか等と想像を膨らませてはセイとああでもないこうでもないと雑談に興じていた。
 御者が馬の手綱を握り、馬車は進みだす。馬車もそれなりの作りをしており、特別尻が痛くなることもなく街にたどり着くことができた。休日ということもあり活気に溢れ、目まぐるしく人々が蠢いていた。テラは馬車が停留すると同時にさっさと下車し、すぐに人混みの中に消えた。
『マスター。まずはどこに行きますか?』
「そうなだ……。街を回るんだったら、それ相応の服があった方がいいよな。やっぱり当初の目的通り、服を買いに行こうか」
『分かりました。私に付いてきてください』
 人混みで迷わないようセイはナノの手を取る。その手は女の子であると同時に戦士としての手だった。人混みを掻き分けるセイは不思議と注目されていた。一体どのように見られていたのだろう。
 セイに案内された店は古着屋だった。品数は多く、老若男女問わずそれなりの物が手に入りそうな店である。木造の作りでそれなりに年季の入った店構え。
『ここはいかがでしょうか?』
「悪くなさそうだな。少し寄ってみよう」
 店に入る。手入れはされつつも古くからこの店を支えた柱は老舗の匂いを漂わせていた。
「いらっしゃいませ」
 入口のすぐ傍のカウンターに座る女性が歓迎の挨拶を二人に送る。見た目は若そうであるが、女性にしては身体が大きい。座っているため正確なことは分からないが、ナノと同じ背丈ぐらいだろう。焦げ茶色の髪が額を強調するように分けられている。ナノは店員に会釈をして中に入る。服は男性物と女性物に分けられており、真っ直ぐ女性物の区画へとナノは向かう。
『マスター。どれがよろしいでしょう?』
「……そうだな。こういうのは俺にはよく分からんからセイの気に入ったものでいいと思うぞ」
 この店の服の相場は二○○から四○○エルグ程。生地の出来や染色の具合、消耗の具合から見ても悪くない。アンはナノに文字を教えなかったが品物の善し悪しが分かるようには教育している。そしてお金の大事さと怖さを十分に説いていた。
『私はこれがいいと思います』
 セイがそういって指定したものは渋柿色に染められた木綿のハイネックのセーターだった。ナノはセイがこの服を指定する理由がなんとなく想像できた。価格は三七八エルグ。厚めの生地は防寒に優れており、極端な摩耗も無いが、セイの背丈からすれば少し大きい。少し手を加える必要があることに目を瞑れば妥当な額だろう。
「じゃあ、それを買おうか。あとは内側に着るものと下に履く物も見繕おうか」
 ナノは更に奥へと歩を進める。セイは自分が見繕ったセーターを手に取り、ナノの後ろをとことこと付いていく。
「肌着はこの辺か。とりあえず二枚買っていこうか。セイの体格に合うのはこれかな」
 箱の中に畳まれ置かれていた物の中から一着を取り出し、セイのサイズ似合うか確かめる。
「んー……」
 セイの身体をジロジロと見るナノ。
『どうかしましたか?』
「いや……セイの胸が大きいからサイズを一つ大きめにするべきか悩んでた」
 顔を赤らめ恥ずかしそうに胸元をセーターで隠すセイ。ナノの見立てでは一サイズで足りるかどうか迷いどころだった。
「サイズが気になるなら試着しますか?」
 そう言って声を掛けてきたのはカウンターで座っていた女性だった。やはりナノと同じぐらいには背が高く、女性らしいスマートな体系をしており、一般人の視点から見れば十人中六人は美女と評価する容姿だ。そんな女性に背後から声をかけられたセイは咄嗟にナノを庇う立ち位置に移動し、腰に装着している刺殺用の短剣に手をかけようとしていた。そして、その目は『マスター。殺す?』と物騒な物だった。職業病だろう。
「セイ、落ち着け。それよりも試着してみろよ。たぶん、こっちかこっちのどっちかがセイにちょうどいいと思うから」
 そう言って萌葱色に染色された二つの木綿の肌着をセイに持たせ、セーターはナノが預かり持つ。
『マスターがそう言うならそうしましょう』
 セイが店員に勧められるがまま試着室に入れられる。カーテンを閉め、店員とナノの二人だけとなった。
「可愛らしい彼女さんですね」
 彼女。概念は知ってる。恋人のことだったはず。恋人がなんなのかは良く分からない。
「いや、違う」
「じゃあ、スレイブですか?」
 スレイブ。奴隷のことだったはず。
「いや、それも違う」
「あら、それも違いましたか? 彼女、お客様のことをマスターって呼んでいましたが」
「なんか、俺に命を救われたから仕えるとか言ってたかな。御恩と奉公ってゼプトは言ってたっけ」
「あら、古めかしい関係ですね。だとするとスレイブというよりサーヴァントというほうが正しいのかしら」
 サーヴァント。広義的には召使だが、意味は様々に別れる。
「そんなもんかな」
「あんな可愛らしい子がサーヴァントなんて、お客様は何者ですか?」
 店員が瞳に宿す光は好奇心によるものだろう。
「ただの農家の息子です」
「冗談言っちゃって」
 楽しそうに笑みを浮かべる店員。よく見ると右目に泣き黒子がある。
カーテンがゆらゆらと揺れ、隙間から紙を持ったセイの手が出てきた。
『試着してみたんですが、これは大丈夫なんでしょうか?』
「見てみないと分からないな」
 ナノが声をかけるとセイはカーテンをゆっくりと開く。
 二つの膨らみが少し大きめのシャツを押し上げ、濃緑のシャツから覗く白い鎖骨が眩しい。
「とても可愛らしいですね。その上にこれを着てみましょうか」
 そういって店員はナノが持つセーターを取り、セイに着させる。やはり、裾と袖が長いため丈が余るが、胸があるためそこまでぶかぶかなサイズというわけでも無く、暖かそうであり、紺の下衣と茶系の上衣で落ち着きがある色調となった。セイは少し長い袖を口元に当てながら、吐息を漏らす。その仕草がとても暖かそうに見えた。
『とても着心地がいいですね』
「確かに良さそうだな。このシャツはいくらだ?」
「一着一○○エルグです」
「二着で一八○エルグにしてくれるか?」
「セーターとご一緒ならば三点で五五○エルグにしますよ」
「だったら、あと四八○エルグでセイの下衣と下着、それから靴下を見繕ってくれるか」
「かしこまりました」
 そういって店員は品物の中からセイのサイズに合いそうなものを見繕ってくれた。黒紅色のパンツはセイが今履いている物に近いが、ある程度余裕があり、保温性が高そうである。白いブラジャーと白いパンティーは少し子供っぽいデザインであり、元の持ち主が子供だったことが伺える。伸縮性に富み、肌に優しく、耐久性にも優れる。セイには丁度良さそうである。黒染めされた木綿のハイソックスも暖かそうであり、丈夫そうである。
「セイ、これも試着してみるか?」
『そうですね。試着してみます』
 そういってセイは下着を持って試着室に再び入る。
「お客様のお名前は?」
 手持ち無沙汰なナノに店員は話しかけてきた。
「俺の名前はナノ」
「ナノさんですね。私の名前はフォノン。この古着屋ガーメントの店員です」
「この店の名前ってガーメントっていうのか」
「はい、先祖代々受け継がれている看板なんですよ。ナノさんも是非うちで買い物をしていってください」
「そうだな。必要なものがあったら最初にこの店に来るようにするぜ。だからこれらの品物全部買って帰るから、全部で一○○○エルグにしてくれないか?」
(えーっと、全点で一○五○エルグだから五○エルグの負けか)
 フォノンは簡単な損得を計算して、ナノの身なりと従者を一人仕えさせていることを更に考慮して、顧客にする方が良いと結論づけた。
「かしこまりました」
 そこで再びセイがカーテンを開く。渋柿色のハイネックセーターに黒紅のパンツは見た目にも暖かそうであり、セイの動きを阻害する様な窮屈なものではなく、概ね希望通りの装いとなった。
「サイズの丈合わせはどうなさいますか? 一見さんということもありますから、サイズの調整をサービスしておきますよ」
 本来ならば一着につき一○エルグの有料サービスだが、一○○○エルグの買い物をしてもらったため、フォノンは無料サービスすることにした。
「それは助かるな。だったら、セーターとパンツの丈合わせを頼もうかな」
「かしこまりました。セーターの丈合わせは三十分程で仕上がりますので、しばらくしてから再び来店していただけますか?」
「分かった」
 セイはセーターを脱ぎ、フォノンに手渡す。
「全点で一○○○エルグです」
 ナノは代金を先払いし、残額が二五三○エルグであることを確認する。
「じゃあ、もう少し街を見て回ろうか」
『はい、マスター』
 二人は古着屋ガーメントを出て、街中を見て回る。
『次はどこを見ますか?』
「そうだな……」
 街には数多くの店があり、どこから見ていくかということをナノは決めかねていた。視線を漂わせていると人混みの中でも目立つ銀髪の少女を発見した。あたりをキョロキョロと見渡すその所作はナノの好奇心を刺激し本能に従うまま行動に移した。
「セイ、テラのやつを追ってみよう」
『ソーン・テラの尾行ですか? かしこまりました』
 ナノは面白そうだと思い、その後を追う。セイはそんなナノを追従しながらも、テラを見張る。そして、その二人の尾行はお粗末なものだった。ナノもセイも自然に溶け込むことは心得ていても、人混みの中に溶け込むような所作を心得ておらず、その結果として傍から見れば人混みから一際浮いた二人組が一人の少女を追いかけているという構図になっている。しかし、追われているテラは何らかの違和感を感じるものの決して二人を視界に捉えることができなかった。
「テラのやつ、どっかに入ったな」
『あそこは楽器屋ですね』
「そういえば、ミリアがテラは音楽が好きだって言ってたっけ」
 二人は更に近づき、中を覗き込む。灰色のローブを着た銀髪のテラがカウンター越しに壮年の男と何かをやりとりしている。男は一度店の奥に引っ込み、ケースを一つ持ってきてテラに渡し、テラは代金を支払っているようだった。
『どうやら、弦の交換を頼んだようですね』
「なるほど」
 テラが店を出ようとしたので二人は一度路地裏に引き返し、テラが店から出ていくのを確認する。テラは周囲を見渡すと再び人混みに紛れ、目的を持った足取りでどこかへと向かう。
「今度はどこに行くんだろ?」
『もう少し追ってみましょうか』
 二人は再び尾行を始める。街の中心からは外れ、人通りがない小道をテラが一人で歩く。二人はテラの視界に入らないように注意しながら路地裏を駆使して追跡し続ける。
 それなりの時間を尾行に費やしていると、テラは寂れた通りに面した廃墟となった家屋に無遠慮に踏み込んだ。その際、周囲に人がいないかを確認するように頭を動かす。
『どうやら、誰かと会うようですね』
「誰か……って誰だろ」
 二人はその廃墟に近づくと中にはテラともう一人誰かがおり、何かを話しているようだった。
『マスター、これを使ってください』
 そう言ってセイは小袋から筒を二つ取り出し、そのうちの一つをナノに手渡す。セイはその筒を壁に当て、その反対側を耳に当てる。どうやら中の音をこれで拾うようだ。
「テラ、―――には―ったか?」
「はい。―――、――――は彼を―――――ければいけないんですか?」
 壁が厚く、密談のため小声にもなっているせいか上手く声が拾えない。
「それが、――の意向だ。――も分かっているだろう?」
「はい……。――様のためなら、何でもします」
 決意を感じる断定するテラの口調。そして、テラが様付けで呼ぶような人物。一体何者だろう。ナノの疑問と好奇心は募るばかりだ。
「テラ。――ぶりに聞かせ―――ないか」
「はい」
 そう応えたテラは何かゴソゴソと音を立てた。
数拍の静寂、その後に聞こえた音は美しい弦の音色だった。廃墟には似つかわしくない澄んだ音色はただ一人のために奏でられた音。それほど純粋な音をナノもセイも知らなかった。優しい音、張り詰めた音、色の付いた音、心奥に響く音、不安な音、楽しい音。どれほどの気持ちを弦に乗せて奏でているのだろう。それは弾く本人と届けられた本人の両者にしか通じえないものなのだろう。長いようで短く、短いようで長い時間を忘れる一時だった。そして、ナノはテラのことを初めて凄いと思わされた。その隣で聞いていたセイもまた、これほど感情を動かす音が存在するものなのだと初めて気付かされた。
 パチパチパチ。
 これほどの思いを込め奏でられた音を届けられた相手は演者に拍手を送る。
「素晴らしい」
 その一言には万感の思いが込められていただろうか。
「ありがとうございます」
 しおらしくも艶の有る声を出したのがテラなのかナノには分からなかった。






 ナノとセイは誰かと密会するテラの尾行をやめ、街の中心へと向かった。どれほど大きな喧騒が耳に届いても聴こえない。先程までテラが奏でた音色が耳から離れない。
「凄かった」
 様々な思いがナノの胸中を巡るが、最初に出た言葉はこれしかなかった。この思いを全て言葉にすることは蛇足というものだ。万感の音色に応える感想は自然に口に出た言葉がふさわしい。
『本当に凄かったです』
 セイもまたナノに似た胸中なのだろう。ナノの声が震えているのと同じようにセイの字もまた僅かに崩れていた。



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