十億分の一の魔女 ~ナノウィッチ~ 農家の息子が魔女になる

田所舎人

魔術演習場と鮭茶漬け

 その日の夜。
 本を読み終えたナノは鈍った身体を動かすため外に出た。
 日は沈み、月は昇り、冷たい風が吹く。頭の芯がじんとした熱を持っており、吹き付ける風が心地よい。
 身体を動かすなら校舎から見て東側、魔術演習場がいいとクローネから教えてもらった。
 簡単に身体の腱を伸ばしてから西から東へ駆け抜ける。
 まだ校舎の中には誰かいるようでランプの灯りが灯っている。


 東の演習場、複数の大きな岩があったり、複数の溜池があったり、複数の大きな鉄クズがあったりと変な場所だ。
 大きな石は動かされたのか地面に引き摺ったような跡が残っていたり、溜池は泥沼だったり、澄んだ泉のようだったり、温泉のように湯気が立っていたり、氷結していたり、大きな鉄クズはありえない形で接着していたり、宙に浮いていたり、雫のような形のまま固まっていたり、とにかくおかしいとしか形容ができない。
 ――これも魔術の結果なのか?
 混沌としか言い様がない。この場所ならば雨の代わりに槍が降ったり、瓢箪ひょうたんから駒が出てきたり、屏風びょうぶに描いた虎が出てきてもおかしくない。
 とにかく、ここならばいくら身体を動かしても問題にはならないのだと納得できる。
 身体を動かすのに十分な空間を確保して四肢を自由に動かす。飛んだり跳ねたり、殴ったり蹴ったり、石を投げたり割ったり、氷結した溜池の上で滑って転んだり。
 そして、ナノは自分の背丈よりも大きな石の目の前に立ち、構えを取って石を全力で殴る。
 身体に伝わる衝撃は拳、腕、肩、背中を通って後ろの大気へと逃がし、ナノの背後から強風が吹き荒れる。
 岩は数ミリ凹むが割れはしない。
 構えを取り直し、回し蹴りを一発打ち込む。
 鈍い音と共に石は数センチ後退し、ナノが繰り出した足からまた一陣の風が吹き荒れる。
 それを何度も繰り返した。
 一撃一撃を徐々に重く、早く、強く、鋭く。
 耐え切れなくなった石は破片を落とし、亀裂を走らせ、ついには割れた。
 加速する身体は緊張の糸を切らせて空気を大きく取り込む。
 拳も足も一切傷ついていない。皮一枚も破れず痛まない。それがナノだ。
 ナノも原理は良く分かっていない。
痛くないように、傷つかないように、そう心がけることで衝撃は身体を伝わりつつも全て外に流れ出る。その分、どこか疲れる。言うなれば魔術を使ったときに魔素が体外に流れ出るような空虚な何か。
程好く興奮して、汗をかき、呼吸も乱れて、心臓の鼓動は高鳴る。
疲労と爽快感を全身で感じながら冷たい大気に肌が冷やされる。


後頭部に鈍器で殴られたような衝撃と矢を受けたような鋭い痛みが走った。


「――ッ!」
 喉の奥から声になっていない掠れた音が漏れ出す。
 視界は一瞬にして暗転し、光を取り戻したときには景色の輪郭は滲んでいた。
 ナノは咄嗟に衝撃を受けた後頭部に触れると本当に何かが突き刺さっていた。
 触感からして、金属質の刃を持つ何か。柄もあり、短剣のような物のようだ。
 それを抜いて見てみると確かにそれは投擲用の短剣だ。魔女が持つような短剣ではない形状。ナノの血がべっとりと付着している。
 脈を打つたびにドクドクと後頭部から血が溢れ、背中が温かくドロドロとしているのにひんやりとする不思議な感覚を味わう。
 後ろから見ればきっと青い髪にも拘らず襟足だけが赤く染まっている事だろう。
 ――いや、そんなことよりどこから飛んできたんだ?
 短剣には明らかな害意や敵意を感じる。その短剣を投擲した張本人がどこかにいるはずだ。
 ナノは周囲を見渡すが何も見えない。
 周囲は石、池、鉄クズと人が身を隠す場所を挙げればキリがない。
 短剣が投げられた方向に見当をつけて走り向かう。
 すると、動く影が見えた。
 闇に乗じるためか紺色に染め上げられた装束を身に纏い、顔も覆っているため表情も読めない。腰にポーチと武器を下げている。
 マイと変わらない背丈、曲線に富み、ミリ程でないにしろテラ並にあるそれ。
 ――女か!
 このまま追いかければ森に逃げられる。
 一瞬の判断、手に持つ短剣を投擲した。
その小さな背中に向けて。
 しかし、寸分ずれて投擲された短剣は小柄な暗殺者に命中はしなかった。


 ユウちゃんが見せてくれた血が混ざったインクで書かれた紙上の螺旋の炎。


 ミリが見せてくれた髪の毛を溶かした溶媒液で動く魔車。


 その二つが脳裏に浮かんだ。
forceフォース!」
 想像は血の刃。
 杖を引き抜き、唱える。
 ナノの血でコーティングされた短剣は通常ではありえない軌道を描いて小柄な暗殺者の左腕を切り裂く。しかし、軽い短剣では腕を切り落とすことはかなわない。
 暗殺者は森に逃げ込み、ナノはその影を見失う。
 ――あの野郎、いや、あの女郎めろう。足早いな。
 見知った森ならば追走も可能だろうが、見知らぬ土地でそれをすることは危険を伴う。
 落ちていた短剣を拾い、流れ出る血を手で圧迫して塞き止めながら寮へと戻る。
 興奮しているせいかあまり痛くない。


 ドクドク流れていた血も時間が経つにつれ、ポタポタとなだらかに流れている。演習場から男子寮まで血痕が残ってしまうが仕方ない。
「おかえり、もうすぐ飯だから手を洗ってこいよ」
 ゼプトは厨房にいるようだ。
「ああ」
 ナノは生返事をして自室に戻る。
 ――手を洗う前に傷口を消毒しないと。
 出血量こそ減ったものの多くの血を流してしまったナノは少し白んだ思考の中で、机の中から薬草を取り出した。
 ねぎ
 ランプの火で葱を炙り、出てきた汁を傷口に塗る。不思議と痛みは無かった。
 ――それにしても、あいつ……誰なんだ。
 明らかな殺意を持って刺してきた小柄な女暗殺者。
 得物は投擲用の短剣、それと腰に下げていた物は刺殺を目的とした急所狙いの短剣。
 ――そもそも、俺がなんで狙われるんだ。
 気が動転して、襲ってきた奴を仕留めようとしたが、襲われる謂れがない。
 何が何だかわからないままベッドに倒れ伏した。
 なんだか意識が遠い。
 血を流しすぎたか。
 緊張の糸が切れたからか。
 とにかく眠い。
 眠い。






 目が覚め起き上がると髪の毛がやけにパリパリしている。
 髪を掻きむしれば赤い粉のようなものが枕元に落ちる。
 凝固した血だ。
 ――あのまま眠っちまって……。
 身体が少しだけ痺れている。握った手にあまり力が入らない。どうやら刺さった短剣に毒が塗られていたようだ。
 手を傷口に当てると既に瘡蓋で塞がっていた。
 地に足がついていない感じがしつつもなんとか足を動かして、ベッドから立ち上がり、部屋の扉を開けると話し声が聞こえてきた。
「あいつの自由にさせろって言ったのはフランのやつだろ」
 ゼプトの声が聞こえる。
「しかし、夜間の外出は控えるように言っておいたはずです。どうして止めなかったんですか」
 クローネの声も聞こえる。
「何回もいっただろ、俺はあくまであいつの身の回りの世話をするだけで、あいつの父親じゃねぇんだ。門限を定めるような歳でもねぇだろ」
「ゼプトさん! ナノ君がどういう立場の人間か分かっているでしょう!?」
「大きい声を出すな。ナノが起きちまうだろ」
 クローネを宥めるように落ち着いた声をかける。
「大丈夫です。この寮の壁は全て防音ですから、それはゼプトさんが一番知っているでしょう?」
「なんで俺が知ってるんだよ」
「フラン先生が男子寮建築を立案した際、色々と口を出したことは知っているんです」
「そんなことはどうだっていいだろ。問題なのはどうしてこうなったかだ」
「それは……。ナノ君に聞くか、彼女に聞かないと分かりません……」
「だろ? それまでゆっくり待ってればいいんだよ。あの血の跡を見れば分かるだろ? 今はゆっくり眠らせてやれ。それと、森で拾ったあのチビのことはフラン以外にはまだ話すな」
「……分かりました。しかし、あの部屋で寝かせていていいんですか? もし逃げられたら……」
「どうしてこの寮の部屋に窓がないか分かるか?」
 ――そういえば、どの部屋にも窓が無かったな。
「……分かりません」
 その理由はクローネも知らないようだ。
「それはな、この寮が檻だからだ」
 ――檻?
「檻……ですか?」
 ナノが抱いた疑問をクローネは代弁して聞いてくれる。
「あいつが外に出ないための檻、外からあいつを守る檻。この意味が分かるだろ」
「……はい」
 その言葉の意味をクローネは汲み取ったのか小さな声で答えた。
 しばしの沈黙。
「今、茶を淹れてやるから待ってろ」
 椅子を引く音。
ゼプトは厨房に入っていったようだ。
 ナノは踵を返し、使われていないはずの部屋の中を調べる。
 ゼプトが言っていたチビとは誰を指すのか、それぐらいナノだって連想できる。


 ナノの隣の部屋、静かに扉を開いて覗いてみるとベッドの上に覆面を外した少女が横たわっていた。
 褐色の肌、鉄黒色の短髪。規則正しく豊かな膨らみが上下している。
 よく見てみると左腕に包帯が巻かれている。
 ――そういえば、毒が塗られた短剣で切ったんだっけ。
 毒が塗られているとすれば毒、それで少女を切りつけたならば、少女もナノと同じように毒の影響を受けているのかもしれない。
 ベッドの上で横たわる少女の武装は全て解かれている。腰の下げていた短剣やポーチはゼプトかクローネが没収したのだろうか周囲には見当たらない。
 ――?
 少女に近付くナノは少女の首元にミミズのような腫れがあるのを見た。ちょうど喉を切り裂いたような一線の傷痕。
 見ていて思わず自分の首を思わずさすってしまう。突起した喉仏が触れる。
 ――こいつ、声、出せるのか?
 幼さの残る寝顔を覆うようにして見つめる。
 どれだけの時間、覗き込んでいたのだろうか。
「おいおい、寝込みを襲うつもりじゃねぇだろうな」
 声に驚き振り返ると、開いた扉に背を預けたゼプトが立っていた。
「ゼプト、いつの間に来たんだよ」
「お前がそのおチビにキスをしようとしたところからだ」
「そんなつもりじゃねぇよ」
 ナノは姿勢を戻して椅子に座る。
「このちっこい女の子が俺を刺した奴なんだよな?」
「ああ、お前が持ってた短剣と同じもんを持ってたからな。森の中でそいつがぐーすか寝てたから俺が拾って持ってきたんだよ」
 まるで子犬か子猫を拾ってきたような口ぶりだ。
「こいつ、どうするんだ?」
「お前の好きにしろ」
「好きにしろって……」
「俺に任せるってんなら、役人に引き渡す」
 役人に引き渡す。
ゼプトは簡単に言っているようだが、渡されるのはもちろんこの少女だ。
「……そのあと、こいつはどうなるんだ?」
「神の審判次第だが、魂の牢獄で囚われるか、奴隷として隷属するか」
 罪人は神の審判を受け二つの選択を迫られる。魂の牢獄に囚われ神に隷属するか、人権を剥奪され人に隷属するか。
 人権とは意思を表す権利。否定や肯定をする権利。人権を剥奪された者は全て拒絶することができない。殺されても文句は言えない。人の形をした人でないもの。意思を表に出すことすら許されないがんじがらめの人形。苦痛を拒めない人形。人形になりきれない人形。
「俺が選ぶのか……」
 静かな寝息を立てる少女の今後が自分の胸三寸で決まるということだ。
 ――こいつを……どうするか。
 少女の生殺与奪権を握っている。それがナノの置かれている現状だ。それから逃げ出すこと自体は簡単だ。全てゼプトに任せてしまえばいい。
 ――俺はこいつに刺された。
 後頭部にできた大きな瘡蓋。触ればガサガサとした触感がある。
 ――俺はこいつに殺されかけた。
 まだ少しだけ身体に痺れが残っている。
 ――こいつは――
「ナノ、飯でも食って落ち着け」
 思いつめるナノの様子を汲み取って、落ち着いて考える時間を与えようとした。
「あ……ああ」
 生返事。思考停止。ゼプトの言葉に従って居間へと向かう。
 クローネはもういなかった。
「すぐ持ってくるから待ってろ」
 ゼプトは一度厨房に入る。
 数分の経過、体感は数十秒。
 出された料理に箸をつける。
 ご飯と魚と焼き野菜。摘んでは口に運ぶ。噛む。飲む。苦かったり、塩っぱい。
「もっと美味そうに食え」
 ゼプトが煙たそうな顰めっ面で言う。
「あ……うん。美味いよ」
「馬鹿、ドレッシングもかけねぇでそのまま食うやつがあるか」
 ゼプトは痺れを切らしたように調味料の類の中からドレッシングを掴み取り焼き野菜にかける。
「……」
 それを見ているだけだった。炊きたての米の匂いも煮付けられた魚もドレッシングを纏った焼き野菜もどこか遠く色褪せて感じる。
「何考えてんだ?」
 椅子の背もたれに背を預けて訊く。
「……俺、なんで襲われたんだろ」
「知らねぇよ」
「……俺、刺されたんだよな」
「ああ、後頭部をざっくりな。後でシーツ、出しとけよ」
「……あいつが、犯人、だよな」
「そうだ。短剣と毒もここにある」
 机の上にベルトポーチが置かれた。あの時見たものに間違いない。
「……訳分かんねぇ」
「……」
 ナノは箸をもう一度動かし始めた。
 甘い、塩っぱい、苦い、硬い、粘っこい。
 それが味なのか単なる刺激なのか。泥人形のように緩慢で怠慢な動きで飲み込む。


 他人の不幸で飯が不味い。


 少女の首元の切り傷。目に焼きついて離れない。
 意を決したようにご飯と紅鮭と焼き野菜を一度に口に頬張り飲みくだす。
「どうした?」
「俺、もう一回あのちっこいの見てくる」
 席を立ち上がる。
「ナノ」
「なんだ?」
「ごちそうさまはどうした」
 もう一度席に着き手を合わせる。
「ごちそうさま」
「おう」
 もう一度席を立ちちびっこが眠る部屋に向かう。
 ――あいつの話を聞こう。
 三番目の部屋。静かな寝息は聞こえなかった。顔を覗き込むと目が開いていた。
「起きてたのか」
 返答はない。
「身体、動くか?」
 返事がない。骸の様だ。
 少女の眼球だけが動き、ナノを見つめる。
「喋れないのか?」
 長い瞬き。肯定のようだ。
「えーっと、水でも飲むか?」
 長い瞬き。
「少し待ってろ」
 ナノは水をコップに入れて持ってくる。
 ――どうやって飲ませよう。
 少女はまぶた以外、それこそ首を動かす事もできない。
「……しょうがないな」
 ナノはコップの水を口に含み、口移しで飲ませる。
 少女は無抵抗のまま、なされるがまま水を受け取る。
「どうだ?」
 二回の瞬き。否定の意思のようだ。
「面倒だな……」
 ――それにしても、俺とこいつ、同じ毒で寝込んだのに俺の方が回復は早かったのか。
「解毒剤とかないのか?」
 二回の瞬き。
「弱ったな……」
 自然回復を待つしかない。
「腹減ったか?」
 二回の瞬き。
「寒くないか?」
 二回の瞬き。
「水飲むか?」
 素早い二回の瞬き。
「……」
 見つめ合う二人。
「……ゆっくり寝てろ。毒が抜けたら色々聞かせてもらう」
 ナノは部屋を出て厨房にコップを戻してから自室に戻る。
 痺れも随分とおさまり、胡乱うろんだ思考もすっきりとしていた。
 ――明日、どうするか決めよう。
 ベッドに倒れこみ柔らかな掛け布団に身を包む。






 ――寝苦しい。というか、息苦しい。
 真綿で締められる。そんな感覚の中でナノは目が覚めた。
 馬乗りしている色黒の少女は弱々しい力を込めてナノの首を絞めていた。腕がぷるぷるしている。
「……乱暴な起こし方だな」
 ナノは少女を跳ね除け起き上がる。
 少女は床に倒れこむ。まだ毒が抜けきれていないみたいだ。
「お前、まだ回復してねぇんだろ」
 少女は力無く倒れ伏している。
「なんで俺を殺そうとしてんだよ」
 少女の腕を掴み立ち上がらせ、その顔を覗き込むと少女は目を背けた。
「お前、喋れないのか?」
 沈黙。
「文字、かけるか?」
 少女は答えない。
「このままじゃお前を役人に引き渡さなきゃいけなくなるんだよ」
 鋭く睨みつける視線。
「俺はできればそんなことはしたくないんだよ」
 眉が僅かに動いた。
「俺は訳も分かんないまま襲われるのも嫌なんだよ」
 ナノの真意を汲み取るように瞳と瞳が向き合う。
「俺がお前に何か迷惑かけたなら謝るし、何か欲しいなら交渉だって受けてやるけどさ、問答無用で襲われちゃ納得できねぇよ」
 少女の視線が漂う。それは左、左下、右下へと動き、瞬きの回数も増えてきた。


「俺はお前のことを殺したくないんだ」


 少女の首が項垂うなだれた。
 それは自身の生殺与奪がナノにあることを認めた証だ。
 観念。諦念。
 少女は力の入らない体から力を抜き、ベッドに倒れ込んだ。
「お前、文字書けるか?」
 今度は答えてくれた。
目を瞑ったまま小さくこくりと。


 その後、少女が要求した物は紙とペンではなく少女から奪取したペルトポーチに入っていた一つの指輪だった。
「これをどうするんだ?」
 少女は指輪を嵌めて指を宙で躍らせる。すると、その軌跡は光によってミラー文字となる。そして、少女はまるで紙を捲るような仕草をすると、その動きに合わせて文字が動く。
『私の名前はリリス』
 リリス。それが彼女の名前。
「リリス」
 その名前を口にする。
『私が貴方を殺そうとしたのは依頼があったから』
「依頼?」
 ――リリスが俺を殺そうとする理由がそれか。
『はい。私は貴方の暗殺に失敗し、捕まった』
「誰が依頼したんだよ」
 理由が依頼であるということはリリスはあくまで道具。絞殺のためのロープ、斬殺のための剣、撲殺のための棍棒、それらと同じように暗殺のための暗殺者。
 本当の理由はその依頼人が持っている。
『依頼主はクラウン』
「クラウン?」
 ナノはその名前に聞き覚え長い。
「そいつが俺を殺そうとする理由が分かるか?」
『貴方が魔力を持つ男だから。そう言っていた』
 ――魔力を持つから?
「なんで魔力を持ってて殺されなきゃいけないんだよ」
 できるだけ平静を装いリリスを怖がらせないようにさせる。しかし、動揺と緊張により声は僅かに平時に比べて低い。
『貴方の存在が戦争の引き金になるから』
 ――戦争?
 話が飛躍しすぎて現実感がない。
「俺の存在がどうして戦争に?」
『それ以上は聞かされていない』
 リリスは一切嘘を付いていない。知っていることは知っている。知らないことは知らない。ただそれだけ。
「リリス、お前はどうしたい? 依頼を諦めて生きるか依頼を諦めずに死ぬか」
 諦めないということは役人に引き渡し、神の審判を受け神か人に隷属する。それは擬似的な死だ。
『私は』
 そこで指が止まった。
「俺はお前を殺したくない。そして俺はお前から殺されたくない」
 二つの願望。それはどちらも利己的な考え。
「俺は美味い飯が食べたい。俺はお前に不味い飯を食べさせたくない」
 人の不幸で飯が不味くなる。それだけだ。
『依頼を』
 指が小さく動いた。
『諦め』
 文字が徐々に小さくなる。
『ることができない』
 ――できない?
「なんでだ?」
『私は仲間を裏切れない』
「……」
 ――これは困った。
 ナノはリリスに依頼を放棄してほしい。リリスはクラウンからの依頼を放棄できない。ナノはクラウンについて知らない。
「ってことは、クラウンってのが邪魔なのか」
 クラウンを倒せば依頼元が消える。依頼元が消えれば依頼自体が無くなる。そうすればリリスを役人に引き渡す理由が無くなる。
 簡単な図式。
 邪魔者は排除。田畑を荒らす害虫を駆除するように。
「リリス、依頼は諦めなくていい。保留するんだ」
『保留ですか?』
「そうだ。俺を殺すという依頼に期日はないんだろ?」
『ありません』
「だったら何もせずここにいろ」
 問題の先送り。
『ここに?』
「おう、暫くの間、俺達と暮らせ」
 寮の主はナノである。それはゼプトも認めている。ナノの決定に異は唱えられない。
「ゼプトには俺から話しておく。飯も風呂も部屋もある。心配するな」
 リリスは事態の終始がどうしてここに帰結するのか納得していないし把握もしていない。というよりてきていない。
 強引。
『分かりました。貴方の指示に従います』
 考えることを放棄してリリスは床に座った。
 それはナノに害意や敵意が無く、リリス犯罪者であるにも関わらず匿ってくれている不思議な信頼関係。
「リリス、腹減ったか?」
『減っています』
 リリスは表情を隠して答えた。ナノはそれがなんだかおかしかった。
 ナノは厨房から何か持ってこようと立ち上がる。
 そこで扉が開いた。
「鮭茶漬け食べるか?」
 時刻は午前五時。少し早い朝食だ。



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