いつ私はあなたと婚約したのでしょうか?

ゆきんこ

 婚約なんてした覚えがなかった。

漢字ふりがな


 私はいつアンジェリカ・オルグレン侯爵嬢と婚約したんだ?
 オルグレン侯爵も満更じゃない様子だし、悪友のクリストファー国王なんかは面白がって含み笑いを零している始末だ。
 あまりいいことではない。
 彼女は婚約者として私の側に付き従い離れる様子もない。

 困った……

 これじゃあ仕事にならないじゃないか。
 今夜のこの夜会はクリストファーが国王なのだと国内外に知らしめるためのものだ。
 お遊びで開いたものじゃないんだ。
 それに、私なんかになんの魅力があるというんだ?
 サックス伯爵家の次男坊だといっても私は庶子だ。
 家督を継ぐことは万が一にもあり得ないし、クリストファー国王の側近としてに仕えるようになってから家に帰ったのは何回だ?
 王都に家を用意してからまだ荷解きだって儘ならないままならないんだ。
 同僚には働きすぎだと言われるが、国王が働かない分こっちにしわ寄せが来ているんだよ。
 クリストファーのように自由に振舞えたら楽になれるだろうか?
 いいや、私じゃ気が気じゃなく落ち着かないだろうな。

 学生時代はそれなりの成績をあげてきた。
 優秀な生徒であったと自負はある。

 だけどそれは学生時代、子供の頃のこと。
 仕事においてはなんの実績もないし、クリストファーに振り回されてばかりなダメな男なんだ。
 こんなつまらない男を婿に迎えてもなんの特もないだろう。
 それなのになぜ、アンジェリカ嬢は私なんかに執着するんだ?

 ――ため息が漏れてしまう。

 隣にいるアンジェリカ嬢が心配そうにこちらに顔を寄せる。
 今夜は一段と香水がきついな。

「ヴィンセント様、お疲れのご様子ですが大丈夫ですか?」

 心配をしてくれるのは素直に嬉しいと思う。
 だが、疲れている原因の一つはアンジェリカ嬢にもあるんだ。
 ほんのわずかの休憩時間にまで押しかけてきてはたわいもない話をしていくんだ。
 なにか大事な用事なのかと思えば、 本当にどうでもいい話だから参ってしまう。
 お陰様でここ最近寝不足が続いている。
 慢性的な寝不足の中アンジェリカ嬢の相手だ。
 私はいつ休めばいのだ?

 この際、はっきりさせた方がいいだろう。
 いつまでも私のようなつまらない男にかまけていては婚期を逃してしまう。
 そのように甘えるような視線を送るのはやめてくれ。
 その視線に私は応えることなどできないんだ。

「アンジェリカ嬢」

 頬を赤らめ愛らしい声で返事をする彼女は十分に魅力的だ。
 それこそ私なんかにはもったいない。

「私になど構わずに夜会を楽しんできてはどうですか?」

 そうだよな、返事を聞かなくても予測はしていたんだ。
 首を横に振り、目を臥せ腕にすがり付く。
 アンジェリカ嬢なら側を離れようとしないよな。
 どう伝えたらわかるのだろうか?

 ――はっきり言えば邪魔なんだ。

 このまま国王の側を離れていたら何をしでかすか……気が気じゃない。
 そうもじもじとされてもこっちが困るんだ。
 可愛らしいお 嬢さんだと思っても、そこ止まりなんだよ。
 彼女とどうにかなりたいなんて微塵も思わない。
 目が合えば恥ずかしそうに俯く。
 もう、面倒なんだが……

「あのですね。ずっと気になってはいたんですが」

 これをここで言っても問題はないだろうか?
 私を慕ってくれる令嬢に言ってもいいものか迷いはある。
 これはオルグレン侯爵を通した方がいいのではないかと言う気もする。
 だが、オルグレン侯爵のあの顔……娘のアンジェリカ嬢と似たような思いをお持ちのようだ。

 クリストファーの青い目は本当に楽しそうにこっちを見ていた。
 まあ、いいか。

 父君のオルグレン侯爵はクリストファーの側にいるし、 近衛騎士のアリスもそっちにいる。
 ここではっきり言わなければ伝わらないだろう。

「いつ、私達は婚約をしたんですか?」

 なにをキョトンとしているんだ。
 私の言葉が理解出来なかったのだろうか?

「アンジェリカ嬢は至る所で私と婚約をしたと話しておられるようですが」

 恥ずかしそうに赤らめていた顔が青ざめていく。
 こんなにもはっきりと人の表情は変わるのだろうか。
 俯いて……ああ、離れてくれるのか。
 よかった。

「……酷いですわ」

 なに? そんな小さな声じゃはっきり聞こえない。
 いつものように大きな声で話してはくれないだろうか。
 いつものあなたは五月蝿いくらにおしゃべりじゃないですか。

「困るんです。私の立場上、下手な噂話が回ってしまうと国王であるクリストファー陛下にご迷惑が掛かってしまうんですよ」

 迷惑なら私の方が被っていることが多いんだ。
 本当にクリストファーには困らせられてばかりだ。
 なんなんだ、あの市井に広がっている噂の数は?
 殆どが誇張された嘘だとしても、本当のことも交じっているから立つ瀬がないんだ。

 頬を打つ乾いた音に今までこちらに興味のなかった者たちが一斉に視線を寄越し、静寂が訪れる。
 それも一時的なことで何事かと騒めきだす。
 こういうことは目立つものだな。

 そんな肩で息をするほど思いっきり叩かなくても……
 注目を浴びるのは嫌なんだが仕方がない。

「……何をなさるのですか?」

 ああ、涙まで浮かべて……痛いのは私の方じゃないんですか?
 これは、私が悪者になるのか。
 周りの視線が刺さるようだ。

「あんまりですわ。わたくしはずっとヴィンセント様の為に」

 笑えてくる……ほら、クリストファーなんか笑いを堪えて変な顔になっているじゃないか。
 とんだ茶番劇の出演者になったものだ。

「私がいつ頼んだんですか? あなたはすっとご自身の為に……痛っ」

 またですか。
 私は叩かれる趣味はないのですが、叩けば気がすむとか、野蛮な方だ。

「どうして……」

 嗚咽を溢しながらも彼女は気丈にも涙は堪えていた。
 あんなに熱をもって私に瞳を潤ませていたのに今ではすっかり睨み付けて……まぁいいですけど。

「ですから、私はいつあなたに結婚を……お付き合いを申し込んだのですか? 全くの覚えがないのですよ」

 「ヴィンセント殿! これは一体……?」

 ほら、お父君も玉座の近くで喚いている。
 親子揃って似たような表情をしているのか。
 オルグレン侯爵からもなにか打診があった覚えもない。
 全てを断ってはいるが、婚約の申し出は他からも沢山あるんだ。
 その中にあったかな?
 あったとしても断りをいれいているはずだ。
 私なんかにもったいないし、貴族同士の馴れ合いなら他でやって欲しい。
 私を巻き込まないで欲しいんだ。
 アンジェリカ嬢は勝手に私の婚約者に収まろうとは大胆な人だ。

「これは男女のこと。外野は黙っててろ」

 国王クリストファーの青い目が妖しく輝く。
 いつもは無造作にしている金の髪も今夜ばかりは整えられているせいか、あの青い目がやたらとギラギラとして見えた。
 青い目に怯み、オルグレン侯爵はその場から動けないようだ。

 男女のことって、クリスのやつ、面白がっているだけじゃないか。
 クリスが面白がるとろくなことがないんだ。
 この茶番もクリスが仕掛けた……?
 いいや、それでは噂話に振り回されてしまっている。

「わたくしはそのつもりでしたわ。言葉などなくても心は通じているものだと思っておりましたのに……」

 全くもって呆れる。
 その手の震えも同情できない。
 人の迷惑も顧みず、職場にまで押し掛けておいてよく言うよ。

「もう、やめませんか?」

 アンジェリカ嬢が目を見開く。

「何を勘違いされたのか知りませんが、初めから気持ちなどないのですよ」

 ああ、泣けば済むととで思っているのだろうか?
 泣いたところで私の気持ちが動くわけもないのに。
 寧ろ虫酸が走る。
 泣けばどうとでもなると思っているやつは嫌いなんだ。

 ――母さんがそうだった。

 泣くばかりか、私を見てビクつくとか失礼だな。

「わたくしではダメなのですか?」

「私はまだ結婚など考えてはおりません」

 こんな仕打ちを受けてもまだ私にすがるんですか?
 もっといい男が他にいるでしょう。

「もしかして……リタ嬢が」

 ポツリと出てきたそのお嬢さんの名は聞き覚えもありませんが、ご友人でしょうか?

「ファーナム男爵家のリタ嬢のせいですか?」

 は?

「それはどなたですか?」

 聞いたことがない。
 私の周囲にいる女性など、近衛騎士のアリスくらいなのもだ。
 お互い異性というより、クリストファーに振り回される同志といった関係という方がしっくりくる。

「惚けないでください! 最近ヴィンセント様のお側をちょろちょろしていると聞きましたの」

 惚けるもなにも、私はその名前に心当たりがないんだ。

「ヴィンセント様も男ですもの。そのお美しさですもの。浮気の一つや二つ仕方がないと覚悟はしておりましたわ」

 覚悟って……
 そもそも私はアンジェリカ嬢とも付き合いはないのだが?
 疑問符が頭の中を廻る。

「浮気が本命に変わろうとも、どうして侯爵家のわたくしが男爵家のご令嬢に……それも庶子の娘に」

 ――だから嫌なんですよ。

 庶子だからと蔑む理由がどこにあるのでしょうか。
 私の漏らしたため息に再び手を振り上げる。
 すぐに手を挙げるとか本当に野蛮な方だ。
 彼女の手は振り下ろす前に阻止される。

 その青い目はアンジェリカ嬢を冷ややかに見下げていた。
 玉座の上で面白がっていたんじゃないのか?

「!? ……陛下?」

 クリストファーを前にアンジェリカ嬢は激情を押さえてくれるだろか。
 そんなにバシバシと叩かれていては会話にならないからな。

「面白がっていたんじゃなかったんですか?」

 整えられていた金の髪を乱雑にかき乱し、青い目は心底楽しそうだ。

「ああ。だけど、もういいかな」

 屈託なく笑うこの男が国王とか、この国の行方が心配になる。
 なにしろ面白ければそれでいいんだ。
 全てが自分を中心に動いていると思っているような男だからな。

「おい。彼女を連れて行け」

 国王の一言に動き出す衛兵にアンジェリカ嬢は抵抗を見せた。
 そこまでわたしに執着するものは一体なんなんだ?

「陛下? これは……わたくしたちはまだ話が終わっておりませんの!」

 クリストファーの彼女を見る目は汚物のようだ。

「あなたもこのヴィンセントの容姿に惹かれたのでしょう」

 このただの黒い髪に鋭いと揶揄される目に青白い肌、母にそっくりだと言われる女顔、男らしさの欠片もない男のどこがいいんだ?

「例えるものも見つからない切れ長の目元、黒い絹糸のような艶やかな髪、陶磁器よりも滑らかな肌、なによりも形容し難いこの美貌……」

 …………クリスはなにを言っているんだ?

「語るには足りない言葉の数。讃えれば讃えるほど伝わらない美しさ。この容姿に惹かれない者などいない。……それは仕方がないが」

 クリスはアンジェリカ嬢に顔を近づけ、彼女は表情を固くしていく。
 その青い目に照らされるように青ざめていった。

「あの男へ我が儘を通せるのはこの俺だけだ」

 へたり込むように彼女は座り込んだ。
 力をなく茫然自失と表情を固めた彼女を抱えるように衛兵は外へと連れ出し、玉座の側にいたオルグレン侯爵は慌てて後を追っていった。

「さあ! 余興はここまで。今夜は存分に遊び飽かしましょう」

 国王の言葉を受け取った楽団は楽器を掻き鳴らし、会場に花を添える。
 クリストファーは楽しげに率先して踊り出していく。
 私のこの醜態もクリストファーという男にとっては娯楽の一つなのだろう。
 もしかして……この茶番劇も……?
 いいや、それは考えすぎだ。
 噂に振り回されていてはクリストファー国王の側近なんて勤まらないな。


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