海辺の少女

神野守

迫られる選択

透けたネグリジェから、モデルのようなスレンダーな体を申し訳程度に隠す小さな黒い下着が見え、思わず目を逸らした。


「ねえ、石川君。目を逸らさないでよく見てちょうだい。今日のあなたの仕事は、私の指示に従うことよ。まずは、真っ直ぐに私の体を見なさい。わかった?」


小学校の先生が児童に言い聞かせるように、ゆっくりと丁寧な話し方だった。これが仕事だと言われれば、給料を貰っている以上従わなければならないだろう。
言われた通り、姿勢を正して河合課長の体を凝視した。


「そうよ。言う事を聞いて偉い子ね。素直な子は私好きよ。さあ、もっと近くに来て」


とりあえず、ソファーから立ち上がって歩み寄った。同時に、河合課長も近付いてきた。


「もっとよく見えるようにしてあげるわね」


そう言って、紫色のシースルーのネグリジェをゆっくりと脱いだ。それまで以上にはっきりと、生々しい女性の下着姿が露わになった。実家にいた時に見た母以来の女の人の下着姿であり、他人のそれを見たのは初めての事だった。


「さあ、よく見なさい」


自分の両手で胸を寄せて、更に大きな谷間を作り、僕の顔に近付けてきた。百合の胸よりも大きなそれは、僕の男の性を刺激した。


「さあ、触ってごらんなさい」
「えっ!?さすがにそれはいかがなものかと思うのですが」


「さっきも言ったでしょ。今日のあなたの仕事は私を喜ばせる事なのよ」
「しかし、僕はプログラマーですし、こういう仕事は苦手ですから。実際のところ、女性の体に触れた事のない僕には、河合課長を喜ばせる自信がありません」


「あなた彼女がいるのよね。彼女とはどこまで進んでいるの?」
「キスをしただけで、それ以上は結婚してからって決めているんです」


「あら、そうなの。本当に絵に描いたような真面目人間なのね。それじゃあ彼女が可哀想だわ」
「どうしてですか?」


「女はね、言っている事と考えている事が違うものなのよ。口では嫌って言ってても、心の中ではしてほしいものなの。あなたの彼女だって絶対そうよ」
「そうなんですか。女心は難しいですね」


「そうよ、女って難しい生き物なの。だからあなたに私が教えてあげたいのよ。一から十までていねいにね。それにあなたが出世するのは彼女のためでもあるのよ。彼女を幸せにしたいんでしょ?だったら私の言う事を聞きなさい。わかった?」


河合課長の言う事にも一理ある気がする。男は家庭を守るために仕事が第一であり、上司の言う通りにするのが成功への近道である。せっかく上司が目をかけてくれるのだから、こんなチャンスはもうないかも知れない。
しかし、この人の言う通りにしたら、その後の僕の人生は河合課長の操り人形になってしまうような気もする。百合と結婚した後もずるずると関係を迫られるとしたら、それは人生の破滅につながるのではないか?


「さあ、ブラジャーのホックを外してちょうだい。もう私の胸は苦しくて苦しくて仕方がないの。あなたが楽にしてくれるわよね」


そう言って、僕の右手をぎゅっと握ってきた。


「さあ、さあ、さあ、早く」


さっきまでは僕の自由意思に委ねていたのに、さすがに我慢も限界にきたようで、強引に僕の顔に胸を押しつけてきた。柔らかい感触ときつい香水の匂いが僕の判断力を鈍らせてしまう。
しかし、ここで流れに身を任せてしまったら、もう百合の顔を見るのが辛くなってしまうかも知れない。いくら不可抗力とはいえ、百合を裏切る事と同じことなのだ。それだけはどうしても出来ない。


「あなたが外してくれないなら、私が外しちゃうからね」


河合課長がそう言ってブラジャーのホックを外そうとした時、僕は勇気を振り絞って声を出した。


「課長、すいません。僕は課長の期待に応える事ができません。ごめんなさい」


そう言って、下を向いたままカバンを取ってその場から逃げ出した。


「石川君、待ちなさい!」


呼び止めるその声を振り切って、そのまま玄関を飛び出した。エレベーターを待つ余裕もなく、5階から一気に非常階段を駆け下りた。大通りに出ると、すぐさまタクシーを拾って駅に向かい、そのまま自宅へ帰った。そして会社に電話をして井沢主任に、体調がすぐれないので課長に許可をもらって自宅に直帰した事を報告した。


翌日から有給休暇を使って会社を休んだ。電話が鳴っても出なかった。面子を2回も潰されて怒っているであろう河合課長かも知れないと思うと、怖くて電話に出る事が出来なかった。心配した同僚たちが自宅に来たようだったが、誰にも会いたくなかった。もしかしたら河合課長が自宅を調べて来たのかも知れないと思うと、ドアを開ける勇気がなかった。


その日から、自宅に引きこもる生活が続いた。外に出たら河合課長が待ち伏せしているかも知れないと思うと外出も出来なかった。カーテンも閉め切り、テレビの音も小さくして、出来るだけ音を立てないように生活した。


百合に会いたい。百合の声を聞きたい。もしかしたら百合が何度か電話をしてきたかも知れない。もしかしたらここまで来たのに、それが百合だと気がつかなかったかも知れない。電話にも出ない、ドアをノックしても顔も出さない僕の事を心配しているかも知れない。
そう思った僕は、あの日から一週間後の夜に百合に電話をした。


「もしもし」
「もしもし、慎吾君? どうしたの? 今まで電話にも出ないし、ドアをノックしても出てこないしで。心配したのよ」


「ごめん。ちょっといろいろとあってね」
「ねえ、会いたいよ。元気ないみたいだし、心配だよ。話を聞かせてよ」


「うん…。わ、わかった。今からそっちへ行くよ」
「うん、待ってるからね」


久しぶりに百合と話が出来て、少し心が楽になった。最低限必要なものをカバンに詰めて、そーっと玄関のドアを開けて周囲を見渡し、誰もいない事を確認した後、急いで百合の部屋に向かって走った。途中、何度も後ろを振り返り、人がいないかどうか確認した。あの執念深い河合課長に、百合の部屋まで知られてしまうのが怖かった。

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