海辺の少女

神野守

サユリストの僕

僕はとりあえず、百合を落ち着かせなくてはと思った。人は泣けば泣くほど悲しくなる。勇気を振り絞って、彼女の肩を抱き寄せてみようと思う。もしかしたら手を払いのけられるかも知れないという恐怖心もあったが、その時は「ごめん」と謝る事にしよう。
僕を部屋に呼んだって事は、慰めてほしいからなんだ。たぶん…きっと…じゃないかな…。


僕はついに、下を向いたまま泣いている彼女に「百合」と声をかけた。いつも「声が小さい」と注意されるくせに、「百合」と言った声は小さすぎて彼女の耳に届いたかどうか自信がない。でも、何とか聞こえたようで、「えっ?」と彼女は顔を上げてくれた。


「あ、あのさ……僕の胸で泣いていいよ」


な、何を言っているんだ僕は。思わず想像を超えた言葉が出てしまった。


「いいの? ほんとに?」


百合が僕の胸に飛び込んできた。わわわ、どうしたらいいんだ? 僕が戸惑っていると、胸に顔を埋めて僕の背中に両手を回してきた。さらにぎゅっと力を入れて抱きついてくる。彼女の柔らかい胸が当たっている気がする。ど、どうする慎吾?


想像以上の展開に、僕の脳内コンピューターは誤作動を起こしそうだ。な、何が正解なんだろう?監督、台本はありませんか? カメラは回っているんですか? 僕の頭の中で、ドラマの撮影セットの映像が浮かんできているのだが、肝心の監督や演出家がいない。
それは当たり前の話で、これはドラマの撮影現場なんかじゃない、百合の部屋なんだ。そしてここには、僕と百合しかいないんだ。


「こうしていると気持ちいいね」
「えっ?」


さっきまで泣いていたはずの百合の声が、なんだか楽しそうに聞こえる。空耳かな? 顔を埋めているから、彼女の表情がわからない。泣いているのか笑っているのか。


「相変わらず細いね。今体重は何キロあるの?」
「た、体重? えーっと…52キロだったかなあ」


「背が高いのに? 身長はいくつだっけ?」
「178」


「痩せすぎだよぉー」
「昔からこんな感じ。一番太った時が62キロだったね、高校の時。バレーしてたから」


「ちゃんとご飯食べてるの?」
「食べてるよ。自炊してるし」


「そうなんだ。えらいね」
「下手だけどね。お金がない時はキャベツ丸ごと買ってきてかじってた事もあったよ」


「マヨネーズつけて?」
「いや、そのまま。そのままの味が好きなんだ。ソースとか醤油とかもあまりかけたくない。薄味が好きなんだ。京都の生まれだから」


「新潟じゃん」
「なんかさ、京都の生まれっていうフレーズが好きなんだよね」


「私も京都好き。中学と高校の修学旅行で2回とも京都だったね」
「そうそう。懐かしいなあ。また京都に行きたいなあ」


「行こうよ、一緒に」
「えっ?」


いつの間にか、百合が顔を上げて笑っていた。「行こうよ、一緒に」という言葉の意味は何だろう? 新婚旅行? でもまだ僕たちは結婚していない。というか、付き合ってもいない。いたずらっぽく笑う百合の心がよくわからなかった。


「京都行こうよ」
「一緒に行くって言ってもさ、それは2人っきりってこと?」


「うん、そうだよ」
「それは温泉旅行みたいな話?」


「温泉いいね!行きたいね」
「夢千代日記って観た事ない? NHKのドラマで吉永小百合さんが出てたやつ。兵庫県の温泉宿が舞台なんだけど、川から湯気が出てたのが印象的でね。いつか行ってみたいと思っているんだけどね」


「吉永小百合のファンなんだ」
「うん、僕はサユリストだからね」


「そう? 慎吾君はユリストだと思ってたのに」
「えっ? ユリストって何?」


「百合のファンって事」
「……」


本人から僕の本音を言われて、とっさに返す言葉が出なかった。いたずらっぽく笑いながら話す百合の真意が読めない。確かに僕は吉永小百合さんのファンであると同時に、緑山百合さんのファンでもある。清楚なところが似ている。
だけど、普通本人を目の前にして「あなた私のファンでしょ」って言うかなぁ。そんな素振りは見せないように必死に隠してきたつもりだったけど、もしかしたらこの人はエスパーなのか? 人の心が読めるのか?


この場合、何と答えた方がいいのだろう。逆に、百合は何と言ってほしいのだろう。彼女の聞きたい言葉が言えればいいのだが、僕には人の心を読む能力はない。
子どもの頃から僕は、ウソをつくのが嫌だった。ウソをついてもいつかはバレる。それなら本当の事を言って怒られればいい、子どもの頃からそう思って生きてきた。ここは真面目に答えるべきだろう。女の子に恥をかかせてはいけない。「そんなはずない」なんて言われたら誰だって傷つくだろう。今まで言えなかった事を言おう、僕は心に決めた。


「ねえ、私の事は好きじゃないの?」
「えっ? あ、えーっと……あの、えーっと……いや、好きです」


「でしょ。そうでしょ。私たち両想いなんだよ」
「えっ?」


な、何を言ってるんだ百合は。自分が何を言っているのかわかっているのか? これは本気なのか、それとも冗談なのか? 内気な僕の事をからかって楽しんでいるのか? 疑り深い僕は頭の中で必死に正解を探していた。
普段の彼女ならこんな事を言うはずがない。真面目な百合が人をからかって笑うなんて場面を見た事がない。


まてよ、僕だから出来る事なのか? 百合にとって僕は、からかって笑ってもいい存在なのか? 高瀬君にフラれた腹いせに、僕をからかって笑おうとしているのか? そんな人だったのか君は?
かなり酔いが回ってきたのだろう。きっとそうだ。酒のせいだ。そうでなければ、百合がこんな事を言うなんて考えられない。思いっきり泣いて、感情が高ぶっているんだ。そうに違いない。
彼女の真意を確かめる勇気がない僕の脳内無限ループは続いていた。

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