海辺の少女

神野守

倒れた写真立て

6畳の畳の部屋には、無言の時間が続いていた。白いテーブルの上には、赤い酒が注がれたグラスが2つ並んでいる。僕は、初めて訪れた百合の部屋に居心地の悪さを感じながら、彼女の言葉の続きを待っていた。


「今から私の部屋に来れる?」と電話がかかってきた時には、もう夜の8時を回っていた。涙声に戸惑いながら、歩いて遠くない百合の部屋に向かうために慌ててアパートを飛び出した。


僕を部屋に招きいれた百合は、両目を赤く腫らしていた。もう随分と涙を流したようで、想像していたよりも落ち着いているように見えた。
冷蔵庫から赤い酒を取り出し、お洒落なグラスに注いでくれた後、小さな声で「乾杯」と言い、僕のグラスに軽く当てた。静かな部屋に一瞬、高い音が飛び散った。


「ごめんね、こんな遅くに。来てくれてありがとう」


絞り出すように声を発した百合は、心なしか震えているように見えた。ついこの間会った時とは別人のようで、笑顔の欠片さえも見つけることは出来なかった。
8歳の時に可愛がっていた愛犬を亡くした時も、こんな感じだったような記憶がある。浜辺で声を押し殺して泣いていた百合の横で、もらい泣きして涙が出てきたのではなかったか。ざざーんと繰り返す波の音が、海が一緒に泣いてくれるかのように聞こえた覚えがする。


黒いテレビの上には、銀色の写真立てがうつ伏せになっていた。おそらくそれは、楽しかった彼との思い出のものに違いない。もちろんこれは、僕の勝手な想像だ。もしかしたら故郷の家族と撮った写真が倒れてしまっただけなのかも知れないのに、彼との悲しい結末が彼女の腕を動かしたかのように決めつけている。思い込みの激しい僕の悪い癖なのだが、悲観的思考を得意とする人間としては、現在の状況の対処法を頭の中で必死に構築していた。


壁の時計を見ると時刻は9時を過ぎていて、長い沈黙が息苦しくなった僕は急かすように言葉を発することにした。たとえ幼馴染みとはいえ、うら若き男が女の人の部屋に夜の遅い時間までいるなんてことは世間が許さない。いや、もしかしたら許してくれるだろうか?見る人が見れば、僕たちは恋人同士に見えなくもない。恋人の部屋に彼氏が居るのはおかしなことじゃない。


そんな自問自答を繰り返すことは意味がないことは知っていた。彼女にとって僕はボディーガードであり付き人である。アイドルで言えば、事務所のマネージャーになるだろう。おそらく百合は、僕に恋人としての役割を求めていない。僕は彼女の兄であり弟であり身内みたいなものなのだから。その証拠に、普通ドラマだったらこういう場面で女性は男の横に移動するのではないのか? そして酔ったふりをして男の肩にもたれかかり、お互いの体温を確かめあうのではないだろうか?僕が脚本家なら、俳優に洒落たセリフを吐かせたいところだが、これはもちろんドラマではなく現実だ。そう簡単にはうまくいかない。


そんな堂々巡りの思考をバカみたいに繰り返す僕の心を察したかは定かではないが、彼女は重い口を開いた。


「私、フラれちゃった……」
「……」


一言だけ絞り出した彼女は、さっきから俯いたままで顔をあげない。人によっては、作り笑いをしながらおどけた感じで言う人もいるだろう。顔で笑って心で泣いてである。
しかし、良くも悪くも百合はそんなに器用ではない。いや、もしかしたら僕以外の人ならそうしたのだろうか?僕以外の人間に彼女がどのように接してきたかなんて知る由もない。


彼女を振った相手はもちろん高瀬君だ。そしてさっきから気になっていた倒れた写真立てには、おそらく高瀬君と百合が並んで写っているに違いない。
それは容易にわかるのだが、わからないのはどのような理由で別れたのかだ。起こった出来事の原因を知りたがる僕にとっては、それが一番気になるところだ。


しかし「原因は何だったの?」と聞いてもいいものだろうか? ドラマなら「新しい彼女が出来たから」とか「ささいな事からケンカして修復不能になった」とか説明してくれるのだが、彼女の口からはその答えが出てこない。嬉しい出来事を息継ぎも忘れるぐらいに話し続けたあの日の百合とは別人のようだ。


こういうシチュエーションの場合、何が正解なのだろうか? 話したくない相手から、根掘り葉掘り聞きだすのがいいのだろうか? 「ねえ、何があったの?」と強引にでも聞いてあげて、「あなたを心配してますよ」とアピールするのが正解なのだろうか?


でもそれは僕のポリシーではない。相手が言いたくない事を聞こうとするのは鈍感な人間の得意技だ。いわば僕のスタンスは徳川家康タイプ「言わぬなら、言うまで待とう」である。言いたくなるまで待ってあげるのが優しさではないのか? これが僕の生き方であり、今までそうしてきたんだし、これからだって変わらないつもりだ。


百合が好む男性のタイプとは違うと思う。スポーツマンで快活でアウトドア派で引っ張ってくれる男性がタイプだと思う。インドア派で引っ込み思案、あまり目立ちたくないと思う僕のことなんてまったくタイプであるはずがないのだ。


人は簡単に変われるものではない。生まれもっての性格は変わらない。努力すれば変わるなんて言う人もいるかも知れないが、僕は変わらないと思うし変わらなくてもいいと思う。十人十色、みんなちがってみんないい、金子みすずの言う通りだ。


僕は僕だし、百合は百合だ。不器用だけど純粋な彼女が好きだ。たとえ彼女が今は好きと思ってくれなくてもいい。いつか好きになってくれればいいのだけれど、その日が来るのかどうかはわからないのだけれど、いつかそうなってほしいなと、ただ一人でそう思っているだけの僕だ。


誰よりも彼女のことを見てきたし、誰よりも彼女のことを知っているつもりだ。身体は大きくはないけれど、我慢強い女性だということも知っている。子どもの頃に転んで足から血が出た時も、泣かずに我慢していた事も見てきた。実家が裕福ではないから、欲しい物があってもねだる事もせず、お姉ちゃんのお下がりを大事そうに着ていた女の子だ。


友だちは多い方ではないけれど、八方美人ではないけれど、人前ではあまり感情を見せないけれど、僕は彼女が笑ったり泣いたりした時、いつも一緒にいたつもりだ。だから今回も、黙って側にいようと思う。
ご主人様の側でちょこんと座っているペットの犬のように。猫派の僕だけれど、百合のためなら犬でもいいやと思う。


だけど、いくら今日が土曜日だとは言え、明日が日曜日だとは言え、あまり長く女性の部屋に居るのはいけない気がする。それだけが僕の気がかりだった。

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