パブロフ

楽園

いつもの様に八時五分丁度に彼女は出勤してきた。川辺好子はこの縫製工場に新卒からの入社だ。ラジオ体操を開始するアナウンスが流れ出すといつの間にか彼女の姿があった。ラジオ体操が終わると朝礼が始まり指示事項の報告が行われる。特別な内容も特になく、いつもの様に一日が始まる。一斉に動き出したミシンの音が規則的に工場内に響きわたる。それは戦場での銃撃戦を思わせるほどの連射音だ。そんな中、彼女の業務は縫製用の革を準備するという仕事だ。とりわけ、工場内ではミシンの仕事が花形になり、その他の仕事は裏方の様な仕事になる。ぶっきら棒に挨拶を交わしそそくさと仕事を始める。彼女の仕事はとても早い。とにかく工場内をずっと走り回る。足を止めている時は作業を行なっている。その動きにも無駄が一つもない。そんな彼女も今月いっぱいで会社を辞めるらしい。十年勤めた会社を辞めて新しい事に挑戦するとの事だ。
  彼女の業務の後任で中年の男が入ってきた。とりわけ仕事ができるわけでもなくさえない男に好子は少しうんざりしている様だ。「私、口下手なんでうまく説明できませんので。メモを取ってください。」ぶっきら棒にその男に告げる。「はい。わかりました。」男も返事をするがどこか上の空の様な返事だった。仕事が始まると男はただただ呆然と立ち尽くし、口下手な好子の説明を聞いている。「中途半端に説明され、内容を理解するのに困惑してしまう。」それが、男の本音の様だ。それでもまくし立てる様な説明は止まらない。忙しさの合間で行う教育だ。なかなかうまく伝えられないのも無理はない。だが彼女にも期限がある。この男がちゃんと仕事を覚えてくれないと私の夢が後ずさりする。そんな思いが口調を早く荒くさせているのだろう。好子は今まで男性との交際を行なった事がない。無論手も繋いだ事もない。そんな彼女がさえない男に説明するのだ。イライラも止まらないだろう。仕事がひと段落ついた時、男が不意に好子に聞いた。
  「川辺さんはミシンはしないのですか?」バツ悪そうに答える「昔は少ししてました。だけど使い物にならなかったからここにいます。」言葉ははっきり伝える。男も何を言うでもなく、淡々と作業をしている。急に足が動かなくなった事を思い出した。午前中、軽やかに動いていた足が急に足枷をつけた様に動かなくになった。自分でもどうしていいのか分からなくなる。焦りが募り作業が雑になる。ペダルが踏めないのだ。急にラインが止まる。ずっと「聖者の行進」がラインに響き渡る。立っているのもままならなくなり、少しずつ遠のく意識の中に職長の声が響いていた。「大丈夫?誰か救急車を早く呼んでください!」と叫んでいたのをぼんやり覚えていたのが最後だった。意識が戻ったのは、病院のベッドの上だった。どうしようもない申し訳なさと、自分が仕事を満足に出来なかったもどかしさが入り混じる。「好子、大丈夫?無理しちゃいけないよ。父さんも心配してたよ。無事でよかった。」母が会社からの連絡があり病院へ駆けつけていた。「うん。ありがとう。」母に迷惑をかけまいと精一杯気丈に振る舞った。医師の診断で腰痛から足に痺れがくる病気という事だった。私はその日からミシンの前に立てなくなってしまった。私は部署を異動になった。縫い子が縫えなくなったら、使いものにはならない。自分の行く末が簡単に見えた。同期や後輩から心配の言葉が返って惨めでならなかった。次第に小間使いのように扱われ、準備が遅いと文句を言われる。毎日悔しくて情けなくて帰り道泣いていた。だが、そんな日々も5年も続けば慣れたもので仕事も淡々とこなせるようになっていた。いつのまにか自分の居場所を探すようになっていた。そんな時にやりたい事なんてなかったが嘘をついてやりたいことがあるからと退職願を出した。受理にはなかなか苦労した。上司や同僚からも再三の引き留めはあったが、これ以上ここにいる事が苦痛でならなかったし、1日も早くここから逃げ出したかった。この小さな世界から逃げ出す事でしか自分をやり直せないような気がしていた。7月1日に受理された。8月1日から年休消化に入るようになっている。肩の力がスッと抜けて行くのがわかった。これ以上誰にも気を使う事なくやっていけるのだと。自分の過去を帳消しにできるのだと思うとそれだけで晴れ晴れした気持ちだった。残りの1ヶ月間男に仕事を教える日々だ。男はいつも独り言を言いながら仕事をしていた。ちょっと気持ち悪いと思いながらもあと1ヶ月なのだからと自分に言い聞かせ仕事を教えた。仕事はそれなりに出来るようになって来た。そんなある日、仕事終わりに男が話し出した。「どこに行っても、馴染めなけば大変です。それを痛いほど感じて来ました。川辺さんもこれから感じる事になると思いますが頑張ってください。」「ありがとうございます。まあ、ぼちぼちやっていきます。」まともに話した会話だったように思う。この男が見て来た過去は一体何だったのだろうか。最終出勤日になった。仕事も無事に終了。同僚から花束と拍手をもらいながら会社を後にした。
   それから2ヶ月後、男の言っていた言葉の意味を知る事となった。年休も使い終わり就職活動を始め条件に合う企業として水産加工の会社に入った。小さな会社でアットホームな会社だった。だが、身内で経営している会社だった為、依怙贔屓の多い会社だった。好子はここでも小間使いのように扱われ、自分が男に言ってたような口調で職場の先輩から教育される。「あんまし説明とか出来ないから、体で覚えてね。」説明もろくに受けれず仕事を覚える日々が続いた。失敗は全て好子のせいにされた。会社内でもなかなか馴染めず話す相手もいなかった。男が言っていた言葉の意味をやっと理解した。自分がいたのは楽園だったのだと。これが現実なのだと感じながら今日もゴムエプロンをつけ作業を始めた。

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