その弾丸の行先

須方三城

第8話 家



 彼は、灰髪の魔人から逃げていた。


 大通り、路地裏、下水道、廃ビル、校庭、また大通り、一軒家の庭、街路樹の上。


 どれだけ逃げても、奴は追ってくる。


 ついに彼は街から外れ、非開発地区へ。


 彼は小さな木のウロに身を潜める。
 もう疲れた。それに、いくら何でもここまで追って来るとは……


「よぉやく、詰みだなぁ…クソッタレ」


 しかし、無情にもその手はウロの中へと侵入して来た。


 彼は、最後の抵抗に出る。その爪で。






「あーあー…すっごい生傷だねぇ灰かぶり」


 まさしく他人事の様なトトリのつぶやき。


 彼女の言う通り、ガツィアの顔面や手には出来立てほやほやの引っかき傷が大量にある。


「あんのクソ猫が……」
「こらガツィア、お客様の猫にクソ言わない」
「ってもよぉ…っぐぉう……もぉいぃ、自分でやるからその消毒液こっちよこせ」
「誰がやってもしみる物だと思うよ?」


 ハイネから消毒液を奪い取るガツィア。しかし彼女の言う通り誰がやってもよくしみる。


「今回の依頼サービス報酬は1000Cだから、あんたのボーナスは700Cね、灰かぶり」
「あぁ?たったの1000で引き受けたのかよ……」
「そりゃあたかが猫探しだしねぇ。何より依頼人はハイネと同レベルの胸囲のちびっ子よ?具体的に言うと小学生。1000でも取りすぎなくらいさ」
「さり気なく傷つけないで……」


 トトリはどうやら子供には良心的な様だ。


 ガツィアが駆り出されたハートフルサービス、その内容は迷子の猫探し。


 猫という生物は大体の行動範囲という物があるし、ガツィアは犬並みに鼻が効く。難しい依頼ではなく、猫自体は数時間の捜索で簡単に見つかった。


 しかし大変だったのはそこからで、散々逃げ回られた挙句に最後には猫スラッシュ祭を喰らった。そんでもって生傷ガツィアの出来上がりという訳だ。


「ほら、ハイネはもうレジに戻りな。もうすぐ夕飯かせぎ時だからねぇ。一人じゃあ客さばけないよ。エルジがぶっ倒れる前に行ってやりな」
「はーい。ガツィアもさっさと消毒して戻って来なよ?」


 ハイネの背を見送りながら、ガツィアは生傷の消毒作業を続ける。


「わふふ」
 旦那も大変だねぇ、と子犬が鳴く。


 猫には手痛く引っ掻き回されるわ、この子犬は尻尾を噛みまくるわ、どうやら動物とはあまり仲良く出来ない運命にある様だ。


「……つぅかよぉ、おいニコチン店長」
「何さ?」
「あれのどこが俺向きの仕事だったのか、詳しく聞かせて貰ぉか」
「…………」


 タバコに火を付け、トトリは少し考える。


「……何の話?」
「よぉしわかった。三秒だけ遺書を書き殴る時間をくれてやる」


 拳銃型のファングバレットをトトリへ向ける。冗談ではなく割と本気で撃ち抜いてやろうかと思っている。


「まぁまぁ、落ち着きなって灰かぶり。冗談だよ。……あんた、今回の仕事、猫を追っかけてる時、何を考えた?」
「あぁん?知るかよんなもん」
「じゃあ今、考えなさい」
「…………」


 猫を追っている時、自分は何を考えていただろうか。


「……くっだらねぇ仕事だとしか思わなかったっつぅの」
「くだらない、ねぇ……じゃあ、人殺しは高尚かい?」
「!」
「軍医を舐めちゃいけないよ灰かぶり。目を見れば大抵の事はわかる。そいつがどんくらい死を見てきたかとかね。あんたの目は、並みの戦争屋なんぞより多くの死を見てきた目だ」
「……そんなクズだと知った上で俺を雇ってるなんざ、テメェの気が知れねぇな」
「言ったろ、目を見れば大抵の事はわかるんだ。あんたは人殺しを楽しむ部類の人殺しじゃない」


 人殺しなんて物を楽しむ様な者など、果たしているのだろうか。


 目の前で動いていた物が止まる、ただそれだけの事だ。そんな物のどこに楽しみを見出せるのだろうか。
 そう考えてしまう時点で、ガツィアはそうでは無いという事なのだろう。


「私が軍医を辞めたのはね、そういうクズに嫌気が差したのが一つ」


 いるのだ。人を殺したいから戦う者が。そしてそういう輩は公的にそういう事を楽しむために軍人になる者が多い。


 しかし、逆もいる。


「もう一つ、クズじゃなくても、私が命を救う事でそいつはまた人殺しの道具として活用される。……それを見てられなくて、逃げ出したんだよ」
「…………」


 軍とは、そもそも自国を守るための組織だ。その本質は守るための力。


 大切なモノがこの国にあるから、軍人として戦う者がいる。


 そんな心優しき者でも、敵は殺さなくてはならない。


 相手の家族が泣き狂う様を想像し、血がにじむ程に拳を握りしめてでも、歯が欠けてしまう程に歯を食いしばってでも、引き金を引かなきゃならない。


 英雄という罪を背負う。それが軍人という職業だ。


 トトリが治せば、クズはよりクズになり、優しき人は苦しんでゆく。


「……軍医ってのは、『命』は救えても『人』は救えないのさ」
「……それと、俺に猫を探させた事に何の関係が有んだよ?」
「極論、あんたは金が稼げて飯が食えれば後はどうでもいい。違う?」
「……まぁな」


 この女はプロファイリングの心得でもあるのだろうか。それとも本当に目を見ただけでわかってしまうのか。


「だから、仕事にはこだわらない。何かと文句を言いながらもコンビニ店員をちゃんとやろうとしてるし、猫だって捕まえた。…まぁ、接客態度はまだまだだけど」
「何が言いてぇんだよ」
「あんたの『目的』は、別に人を殺さなくてもいいんじゃない?」
「俺の目的……」


 ガツィアにある願望は、食う事と寝る事。それがガツィアが生きる目的。


 それは、傭兵でなければ届かない目的だろうか。だとすれば、傭兵以外の職業の者は死んでいる。


 働いている者はほとんどがちゃんと食ってるしちゃんと寝ている。だから生きて働いている。


「あくまで予想で物を言うけどさ。今まで、あんたにはまともな生き方を探すって選択肢が無かったんじゃない?」


 幼い頃から人を傷つけて生き繋いで来た無戸籍人が、まともな職を探せるはずなど無かった。


 キリトはガツィアが出来るだけ苦悩しないで済む様に彼が5年以上も生きていた世界と似た様な世界を用意してくれた。


 ガツィアが知りえない事だが、それはキリトなりの『考え』があっての事。それがガツィアのためだと思ってだ。


 そうして、ガツィアは光の差さない場所を歩いて生きてきた。ガツィア自身の生い立ちと、キリトの思慮によって、それを余儀なくされていた。


 しかし、今は違う。


 なし崩し的にだがガツィアの生きている場所は変わった。トトリという理解者に近い者が現れ、そのトトリが無理矢理変えた。


「ま、多くは言わないさ。でも、あんた自身、思うところはあるんじゃない?迷ってるみたいだし」
「迷ってる?」
「言ったろ、多くは言わない。さ、さっさとレジに戻りな、灰かぶり」






 ✽




 三月。さり気なく春っぽさが前面に押し出されて来たものの、まだ少し肌寒い、そんな半端な季節。


 子犬に尻尾を噛まれて跳ね起きる。それが朝の恒例となったガツィアが、今日も元気に跳ね起きる。


「……っの、クソ犬がぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 今日は一段と早起きさせられ、ガツィアは不機嫌。


 怒っちゃいやん、と言わんばかりに子犬は逃走開始。


「待ちやがれ!流石にもぉ許さねぇ…その鼻にハバネロ突っ込んで深呼吸させてやるよこぉんのクソ犬っ!」


 ホームレス時代、子犬に起こされるのは週一回あるかないかの事だった。


 いつも、大体子犬襲来前に起きていたからだ。しかし、同じ屋根の下で暮らしている以上、子犬の方が早い。


 ここに来てもう3週間近く経つが、毎日こんな起こされ方しては、ガツィアでなくともブチ切れる。


 リビング兼ガツィアのベッドルームから始まった魔人と犬の追っかけっこはその舞台を廊下へと移し、そして、風呂場へ。


「わふ!」
「待てっつってんだろぉがクソい…って、あぁ?」


 脱衣所には、今まさに風呂に入ろうとしていたハイネがいた。トレードマークの犬帽子すら外した、まさに一糸まとわぬ姿。


「っ」


 ガツィアと目が合った瞬間、ハイネの顔がすごく引きつった。


 ガツィアは少し視線を下へ。そこには、


「!」


 そこには『A』の域は出ていないだろうが、胸板ではなく、胸があった。


「なっ…ニセモンか!?」
「どういう意味よ!」


 ハイネの正拳突きがガツィアを襲う。


 しかし、ガツィアはそれをひょいっと回避。


「なっ!?」
「この暴力癖……本物かよ…びっくりさせんなっての」 


 この3週間でガツィアは大分回復した。


 多少武の心得があるくらいの拳なんぞ当たる訳が無い。


「びっくりなのはこっちなんだけど!っていうか何でこの状況でそんな冷静なの!?」
「あぁ?」
「…女の子の裸を見た反応じゃないよね」
「…………」


 言われて見れば……


「っ…!?ま、まじまじ見るなぁ!」


 今度の正拳突きは、まともに喰らってしまった。






 ✽






「…いきなり鼻っ柱ぶん殴りやがって……」
「ガツィアが悪い」


 ようやく鼻血が止まり、ガツィアはティッシュで作った鼻栓を抜いて、朝食の席に着いた。


 朝風呂あがりのハイネはかなりお怒りのご様子で、お手製のミニグラタンを口に運んでいた。


「人の裸を許可無くまじまじ見るって犯罪だからね。変態ガツィア」
「変態って……事故みてぇなもんだろぉが……」
「舐める様に見たじゃん!」
「ガン見ぁしたが、そんな見方はしてねぇ!」
「ガン見だけでも充分ギルティ!変態さんだよ!」
「うぐっ……」


 ガツィアだって、男である。


 そして、大小関係なく乳は乳である。


「…………大体さ、貧乳貧乳って言ってもさ、服の上からはそう見えるだけであって、20越えて絶壁とか有り得る訳無いじゃん……なのに、この程度で偽物と思うって……どんだけぺったんこだと思ってた訳!?」
「……今、自分で『この程度』っつったな」
「はうっ」


 まぁ、外見的な事だし、気にしていたという事はきっちり自覚が有ったのだろう。


 ハイネは自分の失言にわなわなと震えている。


(ったく、朝から災難だクソッタレ)


 ちょっとラッキーなスケベはあったものの、目にしたブツ自体が大した事無い上にそれを帳消しにして余りある制裁を受けた。


 この暴力癖さえ無ければハイネへの見方も変わってくるかも知れないのだが……


(……まぁ、このアホらしぃ生活ともそろそろおサラバだ)


 この3週間で体はほぼ全快した。


 そろそろここを出て、物騒な世界に戻る事も可能だろう。


 そんな事を考えていた時、ガツィアの尾に子犬が噛み付いた。


「んおぉぉう!?またかクソ犬っ!」
「わほぅ…」
「あ、子犬ちゃんのごはんの用意忘れてた…誰かさんのせいで」
「……俺のせいかよ」
「ガツィアが朝から怒らせるからでしょ?」
「元ぁと言やぁ、このクソ犬が…」


 ハイネは聞く耳を持たずパタパタと子犬のごはんの用意を始める。


「…………」


 理不尽だ。
 そう思いつつガツィアは匙を手に取る。


(…にしてもまぁ、いつもながらこっちはすげぇな)


 ミニグラタンにサンドイッチ。朝からまぁ手の込んだ事だ。


 ガツィアがハイネと暮らしていて唯一メリットだと感じている事、それがこの料理のレパートリーの豊富さだ。その辺のファミレスのメニュー表並みだろう。
 味も悪くない、むしろ美味い。


(これで優しけりゃ文句ねぇんだがな……)


 ふぅ、と溜息をつき、グラタンを一口。


 ……うん、暴力癖のある人物が作ったとは思えない、優しく暖かみのある美味しさだ。


(…………って、違うだろ)


 すっかり料理の事に思考がシフトしてしまった。考えるべきは「ここを出て行く」という事だ。


(……ん?ってか、何を考えんだ?)


 ここを出て行くのなら、さっさとそうすれば良いじゃないか。
 金は払うとトトリに伝えて、その辺のヤクザ崩れのゴロツキでも適当にシメて、そっちの界隈の者に接触すれば良い。


 自由度は下がるが、その気になればどっかの金持ち野郎の私的な便利屋になる、という手もある。金を持ってる奴は「金で何でもする奴」をいくらでも求めている。その「何でも」が反社会的であればある程。


 簡単なのだ、「戻る」のは。


(…………)


 よく、わからない。でも、何かが引っかかっている。


 そう、何かが噛み合わない様な感覚。


 ミシッ、という音。


「!」


 心臓が軋む様な、圧迫感。


 ちょっと前に感じたあの違和感と同じ物。


(……何なんだよ…どれもこれも…)


「あ、ガツィア、今日は昼勤だよ?忘れてないよね?」
「…あぁ」


 ……ま、後でじっくり考えよう。今更急ぐ事でも無い。


 今は、とりあえず朝飯だ。






 ✽




 昼勤の勤務時間は、基本的に12~18時まで。
 今日ハイネは19時までだそうなので、ガツィアは子犬を連れて、一足先に帰路についていた。


(……大分慣れたよなぁ、俺も)


 帰る家がある生活。それだけでも大きな変化だが、もう違和感が大して無い。


「わふっ」
 子犬がガツィアに呼びかける様に一吠え。


「?」


 子犬が鼻先を向けた方を見ると、桃色の髪をした一人の少女が一人、おろおろとしていた。まるで親とはぐれた幼子の様に「どうすればいいの?」といった感じで超おろおろしている。


 少女の尻には、少女の頭髪と同じ桃色の尾。


(…んー…どっかで見た事あるよぉな……)


 割と最近、何か食物が絡んでいた気がする。


 …………ダメだ、思い出せない。


「わふん」
「…んだよ?あのドピンク女がどぉかしたのかよ?」
「わふ」


 子犬はトテトテと桃髪の少女の方へ向かって行ってしまった。


「あぁ?おい、クソ犬…」


 ガツィアが止める間も無く、子犬は行き交う人々を避けて少女の元へ。


「……ったく…」


 子犬を放って帰れば、ハイネがうるさいだろう。


 仕方なく、ガツィアは子犬を追う形で少女の元へ。


「あ、どうも」


 やはり面識があるらしく、少女はペコリと丁寧に挨拶。


 やっぱり思い出せない。


 コミュニケーション能力が人並み以下のガツィアは人の顔を余り覚えない。


「誰だテメェ」


 ガツィアの直球な問い。


「あ、そういえばこの前は名乗ってませんでしたね。私はアピア=ウィズラ…」


 ピタッ、と桃髪の少女の口が止まる。


「…ウズラ?」


 ガツィアのイメージの中で小さな卵がコロコロと転がってゆく。


「あ、いえ、アピア=ハイドアウトです」


 さっき口にしかけた姓と一文字残らず合っていない。
 どんだけ壮絶な舌の噛み方をしたのだろうか。


 とにかく、ガツィア自身は全く覚えていない物の、彼はこのアピアという少女を一度助けている。
 コンビニ店員になれと宣告されたあの日の昼、ハイネと初めて会った時に。


「わふわふ!」
「あぁ?」


 子犬はどうやらこの少女の困っている様子を見て、ガツィアにそれを解決させようと考えたらしい。


 面倒臭い。非常に。しかし、このまま帰ればまた尻尾に噛み付いて来る事は確実。


 ……一応、聞くだけ聞いてやろう。


「……何か、困ってんのか?」
「あ、いえいえ。大丈夫です!」
「そぉか。行くぞクソ犬」
「わふっ!?」
 退くの早っ!?と言いた気に驚く子犬。
 元々ガツィアはアピアがどう答えようと構ってやるつもりは無かったのだから当然だ。


「ぅのがっ!?」


 さー帰ろ帰ろと歩き出したガツィアの尻尾に子犬が食らいつく。


「…テメェ、クソ犬……人の尻尾をマジで何だと思ってやがる…!?」
「わひゅふ」
 困ってる女の子を見捨てるのはワイルドじゃないぜ?と言いたいらしい。


「…くっだらねぇ。さっさと帰んぞクソい…ぬぐぅぉ!?」


 子犬の顎にさらに力が加わる。


「……わかった、その顎筋ブチ抜いてやる」
「ちょっ、犬さんに銃なんて向けちゃダメですよ!」
「うるせぇな!そもそもテメェがこんな街中でおろおろしてなきゃ、こんな事にゃなってねぇんだよクソ桃毛!」
「ひえっ……うっ……」


 ガツィアのブチギレた表情と気迫に圧され、アピアが一瞬にして涙目に。


「おぉうっ!?」


 何故に泣く!?と驚くガツィア。


 そんなガツィアに、周囲からの視線が集まる。


 子犬に尾を噛まれた魔人が、その子犬に銃口を向け、女の子を泣かしている。


(こ、こいつぁ…)


 何か、妙な気分だ。すごく居心地が悪い。


 今まで風景の一部でしか無かった通行人達が全て敵になったような感じだ。


 アピアが魔人である事に気付いてその場を去る者もいたが、大体はガツィアに白い目を向け続ける。


「わふぅ…」
 あーあー、と言った感じの子犬の溜息。


「クソ犬……!」
「うっ…ひぅ、ぁう……ごめんなさい…うぅ……」


 もういつ泣き崩れてもおかしく無さ気なアピア。


「……っ~……」


 手にしていた拳銃を消し、ガツィアは降伏する様に両手を上げた。


「わぁったよ…手ぇ貸しゃあ良いんだろ?」
「わふん!」
 素直でよろしい!と子犬。


「ひぇ?で、でも申し訳無いです…」
「おぉ、そぉかい。ならいいよな。帰んぞクソ…はぐぅぁ!?」


 ええ加減にせぇや!!、子犬はそう叫ぶ様に全力でガツィアの尾を噛んだ。






 ✽






「……まさか、また猫を追う羽目になるたぁな……」


 ジタバタともがく黒猫をやや雑に抱きかかえ、ガツィアは夜空を見上げた。すっかりお月様が登りきっている。


 月光に照らされたその顔は、いつぞやのごとく生傷が盛りだくさん。


「ご、ごめんなさい…普段は大人しい子なのに…」


 ガツィアからアピアに引き渡されてもなお、黒猫はフーッ!!とガツィアに対し戦闘意志を見せている。


 子犬は言わずもがな、今まで関わった二匹の猫もこれ。本当に動物ってモンとガツィアは相性がよろしくない様だ。


「……まぁ良ぃ。これで満足か、クソ犬」
「わふっ!」
 よくやった!と賞賛の一吠えを送る子犬。


 こんなクソ犬ぬ褒められても嬉しかねぇ、とガツィアは深く溜息。


「んじゃ、今度こそ帰んぞ」
「あ、あの」
「…んだよ、まぁだ何かあんのかよ。いい加減にしろよクソ桃毛」
「いえ、あ、あの、ですね…ありがとうございました、って、お礼を…」
「……くっだらねぇ」


 行くぞ、と子犬に声をかけ、ガツィアが歩き出す。


 ただ礼を言われた所で何の得も有りはしない。
 生きる上で、何も変わらない。


「……」


 でも、ありがとうと一言言われただけで、飛び跳ねる程喜んでいた時期もあった。


(…何でこのタイミングで思い出すんだよ…くっだらねぇ)


 もうあの頃とは何もかもが違うのだ。
 ただ良い子にしているだけで、ただ誰かの幸せを心から願っているだけで、シスター達が何から何まで世話を焼いてくれた幼少期。


 もう良い子じゃないし、自分の事を考えるだけの今のガツィアには、最早一時の夢の様な過去。


「あの、本当に、ありがとうございました。えーと…」
「…ガツィア=バッドライナーだ」


 最近、名乗る機会が増えた気がする。
 傭兵じゃ無くなり、関わらざる負えない相手が増えたせいだろう。


(まぁ、仕方ねぇわな)


 面倒だが、仕方の無い事。それが仕事という物。
 今のガツィアはコンビニ店員。コンビニ店員は、仲間や客と関わらなきゃならない。それがコンビニ店員が生きるのに必要な仕方の無い事。


「……ん?」


 ふとした違和感。


(なぁんで俺ぁ、コンビニ店員の生き方なんざ考えてんだ?)


 もうすぐ傭兵に戻るというのに、そんな事を深く考える必要があるのだろうか。


『でも、あんた自身、思うところはあるんじゃない?迷ってるみたいだし』


 脳裏をよぎるトトリの言葉。


「……まさか……」


 傭兵に戻る事を、今の生活を捨てる事を、


「俺ぁ、迷ってんのか?」








「……迷ってる……?」


 夜の公園。ホームレス時代のベッドだったベンチに寝転がり、ガツィアは月を眺めながら考えていた。


 子犬は何かの間違いで土上に出て来てしまったミミズと戯れている。


 コンビニ店員を辞め、傭兵に戻る。その事を考える度、ガツィアは妙な引っかかりを感じていた。


 しかし、何が引っかかるのか、全くわからなかった。


 まさか、自分が今のこの生活を捨てる事を迷っているなどとは、想像もしなかった。


(…いや、んな訳はねぇんだ)


 ガツィア=バッドライナーは、そんな人物では無いはずだ。こんなくだらない日々に感化され、平和主義に目覚めてしまう様な、そんな『浅瀬』にいた男では無い。


(……妙な気分だ)


 まるで、自分の中に別の自分がいる様な、そんな噛み合わない感覚。


 俺はそんな事を考えるはずが無い、そう思っていても、確かに、考えているのだ。


 このまま、ここで生きていくのも悪く無いのでは無いか、と。


 確かに、トトリの言っていた通り、人を殺さなくてもガツィアは生きていける。そういう場所をトトリが用意してくれた。


(……)


 そこに馴染む事に拒否反応を示す自分と、馴染もうとする自分が混在している。


 どちらにも、明確な理由が思いつかないのに。


(……待て、何かおかしくねぇか?)


 そもそも、どっちでも良いはずなのだ。ガツィアは寝て食ってが出来れば仕事なんてどうでも良いと思っていたのだから。


 つまり、本来のガツィアとしては、コンビニ店員として生きる事を迷う必要など無いのだ。コンビニ店員として特に不都合無く生きていけるのなら、そうしていれば良い。


 現に、ハイネの暴力癖以外、この生活で不都合は感じなくなってきた。笑顔での接客は未だにできないが、無愛想なだけで業務は完璧にこなしている。


 元来のガツィアなら、今のこの状況から無理に変わろう、戻ろうなどとは考え無いはず。


 だから、むしろおかしいのは、「この生活から離れよう」という思考の方なのだ。


 必死に「傭兵に戻ろう」と考えているガツィアの方が、おかしいのだ。


 ガツィア=バッドライナーでは無い何かが、この生活から離れようとしている。


(……訳がわからなくなって来やがった)


 ふと、ポケットの中のスマホが鳴った。
 トトリが設定した、軽快なポップス。


「……犬帽子?」


 とりあえず、電話に出る。


「おぅ、んだよ犬帽子」
『んだよじゃないよっ!』
 いきなりの怒号。少し耳が痛くなり、ガツィアはスマホを持ち替えて反対の耳に当てる。


「……マジで何なんだよ……」
『今、何時だと思ってるの!?全然帰って来ないから心配してたんだよ!?』
「はぁ?ガキじゃあるまい…し……」
『……?どうかしたの?』
「……何でもねぇよ」


 ふと、昔の記憶がリフレインした。
 年長の孤児達と街に出て、迷子になってしまったあの時の事。真夜中、ガツィア達を発見したシスター・サーニャは泣きかけで、「心配したのよ!?」とガツィア達を怒鳴りつけた。
 そしてその後、強く優しく、抱きしめてくれた。


「……」


 ガツィアの事を心配してくれる者など、本人の知る限り、サーニャを始めとしたシスター達だけだった。


『とにかく、今どこ?何かあったの?』
「…クソ犬のせいで少しボランティアしてただけだ」
『ボランティア?』
「どぉでもいいだろ」
『まだかかりそうなの?晩御飯、冷蔵庫入れとくよ?』


 晩御飯。そういえば、腹が減った。


「……今から帰る。飯ぁ置いとけ」


 腑に落ち無い事はある物の、ガツィアは帰る。
 飯と寝床があり、心配してくれる人がいる。まるでセントカイン修道院の様な今の我が家に。





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