BLACK・LIKE
13,黒斑さんは突撃する。
甲間町第三支署、地域安全課オフィス。
「あーりゃーまー? 今日も今日も左弥ちゃんはお休みですかあー」
勤務ボードを眺めながら、活発系赤髪女子・紅瓦がわざとらしく大仰な調子で喋る。
その視線の先には、黒志摩の名前の横に記された『療養休暇中』の五文字。
「おォうおうおう。黒シマダの面ァ、もォォォかれこれ二週間くらぁいは見てねェなァ。あーあーあー」
金怒髪の筋肉青年・武黄嶋も紅瓦の横に並んで同じくどこか大仰な口調でのコメント。
「芽茱ちゃんの話だとぉ、最初の連絡で左弥ちゃんは『一週間程で復帰できるそうです』って言ってたらしいのにねぇー」
「おォん? そりゃァ不思議な話だなァおい。どォ言う訳だァ?」
「まぁ、やっぱアレでしょー。『体の傷』は一週間で治るけどー…『それ以外の傷』はまだまだ治療中、的なぁ?」
「それ以外の傷ゥ? そりゃア一体どこの傷だろォなァ?」
そんな具合に、紅瓦と武黄嶋はやたら芝居がかった不自然な会話を続けていく。
「それそれタケちーん。ここだけの話なんだけどねー…実は私、芽茱ちゃんが左弥ちゃんから聞いたって話をちょっと小耳に挟んだですよ~」
「ほォー? 何だ何だァ? 一体どォんな小話だァ?」
「なぁんとですねー…左弥ちゃん、黒斑さんにガチのテンションで怒鳴り散らされて、かなり精神的に滅入っちゃってるそうなー」
「はァー? クロッさんがァ? なァんでまたァ」
「芽茱ちゃんも流石に細かい内容までは聞いてないみたい。でもまぁ、なんにせよ…ねぇ?」
「あー……最近の若者はバリケードだってのに、昔の物差し持ち込んで怒鳴って叱ってケチョンケチョンパァってか。あーあー」
「……ぅ、うっせぇよぉぉぉぉ! わざと聞こえる様に言ってるなお前ら!?」
二人のやり取りを背中越しに聞かされていた黒斑が、ついにギブアップ。
「ああそうだよ! 俺が悪ぃよチクショウ! それとタケ、多分それを言うならデリケートだよ!」
二週間前、あの象型魔物との一件以来、黒志摩は一度もこの第三支署に顔を見せていない。
扱いとしては、あの戦闘での負った傷を癒すための療養休暇中だが……黒志摩は最初に申請した療養休暇を一週間程オーバーしても、一向に復帰してくる気配が無いのだ。
その理由について、黒斑はとても心当たりがある。
と言うか、もうそれしか考えられない。
「俺だって申し訳無い事をしたと思ってるよ! いくら何でも胸ぐら掴み立てて吠えるのはやり過ぎたよ! でもこれ以上どうしろってんだよ! あれから何度電話しても出てくんねぇし、メッセージはオール既読スルーだし!」
謝り倒そうにも、言葉は届かないし、謝罪メッセージも完全無視。
原因はわかっているが、一体、どうフォローすれば良いのやら。
「チクショウ……完全に嫌われたよこれ……」
「クロ、それは違うぞ」
「はい?」
黒斑の言葉をスパッと否定したのは紫藤田原。自身のデスクでコーヒーを啜りながら、新聞誌面を目で撫ぜている。
「黒志摩さんは、お前を嫌ってこんな状態になってる訳じゃない」
「いや、この状況で、何でそう言い切れるんすか?」
職務復帰拒否に、黒斑からの着信やメッセージを完全無視。
黒斑からしてみれば、完全に自分を嫌って避けているとしか思えないのだが。
「あのな、クロ。人が人を避ける理由は『嫌いだから』だけじゃない。人間関係は繊細で複雑だ。様々な理由から『関わりたくない』と言う心境になる」
「様々な理由って……」
一体、どんな……
黒斑が紫藤田原の言わんとしている事を推測しようと思考を始めた、その時、
「へぇい黒斑っち! だぁからお前は阿呆なのだぁ!」
「うおぉうっ!?」
突如、何者かが黒斑の背に飛びついて来た。
「か、灰堂さん……?」
「うぃー」
その正体は、黒斑の上司、いつでもスウェット姿の女・灰堂。
黒斑の首に手を、腰の辺りに足を回して絡み付き、がっちりオンブ状態。
「いきなり何なんすか…つぅか重いんすけど」
灰堂は小柄だが、地味に重量がある。
「へいへい、黒斑っちー。妙な事を言うとですねー、君の首に回したこのキュートなお手手がちょいとマッスルしちまうでい?」
「くぇぁっ…さ、サーセン……」
「さてさて、話を戻すけど黒斑っちよぉう。何故に君はそんにゃに阿呆なのかね? 灰堂さんちょっとばかしビックリビビンバですよ?」
ふぉー、とふざけた調子で軽い雄叫びを上げ、灰堂が大きく身を反らせる。その謎アクションで黒斑に掛かる負担が無意味にやや増すが、余計な事を言って首を絞められてもあれなので言及はしない。
「いや、確かに阿呆な事をしちまったと思いますけど…そんな死体を蹴るが如く……」
「あー、本当に阿呆だなチミは。灰堂さんが言っているのはそこにあらずんば」
「はぁ?」
「そもそもチミはスポットを当ててる所が違うのでーすよい。今早急に解決すべき問題は、『黒斑が叱り方を間違えた』事と違うでしょうに」
「はいぃ……?」
よく意味がわからないのだが……
「黒斑っちさー、自覚あるか知らないけどー…チミのイメージは悪く言えば『どんな酷い扱いされても本気では怒らない根っからの被虐者気質』…良く言えば『温厚マン』ぜよう」
「おい待て、灰堂さん。何で一回悪く言ったの? ねぇ? 温厚マンだけで良くない? ねぇ?」
「はい脱線禁止。とにかくですぜ? そーんなイメージを全身に纏った黒斑っちをガチで怒らせたーってのはー、結構心にクるモノがあると灰堂さんは思う訳ですにー」
「……!」
普段全然怒らない先輩…そう、黒斑の立場で例えるなら、灰堂辺りか。
もし、黒斑が何か失敗をして、灰堂がガチギレしたら、黒斑はどう感じるか。
こんな腹立たしい程に飄々とした人でも、沸き上がる怒声を抑えきれなくなる様な重大なミスを、自分は犯したのか。
そう言う風に、深い罪の意識を持ってしまうだろう。
そうなれば、灰堂を嫌いになるなんて事は無くても、罪悪感から少し接し辛いと思う様になるかも知れない。場合によっては「どの面下げて会えば良いかわからない」と全力で避けてしまうだろう。
黒志摩は今、そんな心境から黒斑を避けているのかも知れない。
「少し真面目に言うよ? 黒斑っちが何を思って、黒志摩っちに怒ったのかは知らんし、詮索もしません。黒斑っちも一人の人間なんだから、たまーには感情的になっちゃうのも仕方無いとは思う。でもね、黒斑っちは周りから『温厚で優しい奴』だって思われてる事と、そう言う人に本気で怒られるって言うのがどれだけ精神的に堪えるか、それは理解しなきゃダメ」
聖人君子じゃあるまいし、どんな温厚な人間だろうと、時にはカッとなってしまうのも仕方無い。
でも、黒斑が本気で怒ると言うアクションは、黒斑本人が思っている以上に、怒られた人間にダメージを与えてしまう。
後輩を持つ先輩として、自身の叱咤がどう言う意味を持ってしまうか、それをきちんと自覚しろ。灰堂はそう窘めている。
「で、理解したら、今度は『自分がどうしてもらえたら、その件を水に流せるか』をちゃんと考えてみて」
「………………………………」
どうしたら、水に流せるか。本気で怒った先輩が、どうフォローしてくれたら「許された」と思えるか。
それは多分、先輩から「怒鳴り付けてごめん」と謝り倒される事ではない。
その謝罪は、あくまで『叱り方を間違えた』と言うだけであって、『叱った内容』についてフォローする行為では無いからだ。
黒斑がいくら謝ったって、それは黒志摩の抱える自責の念には影響しない。
結局『黒志摩がした事』は『黒斑が後に謝罪するくらい感情的に叱責する様な行為』だったと言う事実は変わらず、黒志摩の心を苛み続ける。
つまり別の問題。謝るのは、後だ。
今、黒斑が取り急いで解決すべき問題は『あの時の叱り方を間違えた事』より、『黒志摩が自分を避けて職務に復帰できない事』。
そして『彼女が黒斑を避ける理由』は、彼女自身の犯した過ちに対して抱えている罪悪感だ。
そこにフォローを入れる…罪悪感の軽減を手伝う。
人が罪悪感を軽減できる「最も手っ取り早い行為」を促す。
つまり、黒斑が今すべき事は……
「はい! 流石の阿呆の子クロムーリャでも理解できたかね?」
「うっす……!」
早速、思いつく限りの言葉を整理し、メッセージを作成すべく、スマホを……
「って、チミは底抜けの阿呆かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
「ぐぇすッ!? か、灰堂しゃ、は、きゅ、苦ひ、ぎ……!」
突然、灰堂が黒斑の首に着脱機能を付加せんばかりの勢いで締め上げてきた。
「あーのーねー……こう言う大事な話は、直接面と向かってが基本と違いますかいねーぇ?」
「え、いやでも、直接ったってどうやって……」
「く・ろ・む・ら・っ・ちー……灰堂さんは知ってますよ~。黒斑っちは、『知ってる』って事をー」
「はぁ? 知ってるって何の……」
「黒志摩っちのおウチ」
「!」
確かに、黒斑は何度か黒志摩を自宅マンションまで送り届けている。
その際、「良い所に住んでんねー。一人暮らし? もしかして結構お嬢様?」と言う黒斑の感想&質問をキッカケに始まった罵倒たっぷりの短い会話の中から、そのマンションの八階に住んでいる事も把握している。
「まさか……」
「イエスッ。突撃どこぞの黒志摩っち」
住んでいるマンションと、階と、苗字がわかれば、部屋番号を知る事は難しくない。玄関の集合ポストに表札を付けているタイプのマンションならそこを確認すれば一発。そうじゃないなら、管理者に「同僚と連絡が取れなくなっているので様子を見に来た」と事情を説明して融通を願う、なんて手もある。
「か、簡単に言うけどよ……それ、最悪、裁判沙汰にならね?」
「その辺は大丈夫だろう。気にするな」
何故か、紫藤田原は自信満々。紅瓦と武黄嶋も「そーだね」「だろォな」と紫藤田原の意見を支持した。
「と言う訳で黒斑っち。これは上官命令ですに。今すぐ黒志摩っちのおウチへゴゴッゴー!」
「え、いや……えぇぇええぇ……」
「可愛い後輩のためなんだから、四の五の言わにゃーッ! 為せば成る、当たって砕けろ何事も!」
本当に大丈夫か、それ。
朝と昼の間、中途半端な頃合。そろそろ大体の人が「今日の昼は何を食べようか」なんて意識し始める時間帯。
一体何階建てなんだか。数える気にもなれない高層マンションを見上げ、黒斑は深い溜息を吐いた。
AMOUR・RICH・HAVITATION…何語でどう言う意味の名前なんだか、黒斑には見当も付かない。とりあえずオシャレな高級志向マンションだって事だけは何となく伝わる名前である。
このマンションの八階に、黒志摩は住んでいる。
「…………………………」
多分、あの中腹辺りが八階か。高いなぁ。どんな熟練の下着泥棒でも、あの辺りを攻めるのは無謀だろうなぁ。……なんて、黒斑はプチ現実逃避。
しかし、いつまでも玄関前でボーっと立ち尽くす訳にも行くまい。かれこれ立ち尽くし始めて一〇分程。玄関の大きなガラス戸の向こう、フロントロビーに佇んでいる警備員がめっちゃこっち見てる。その顔はさながら、あらゆる厄災に睨みをきかせる狛犬の形相。完全に臨戦態勢の一歩手前である。
そりゃあ、全身黒ずくめの男が一〇分程度ボーっとつっ立ってたら、怪しむのは自然だ。実に妥当な構えと言える。お仕事ご苦労様です。
さて、あの業務マニュアルに忠実そうな警備員Aが警備員BとかCを召喚する前に、さっさと覚悟を決めなければ。
「でも、大丈夫かマジで……」
紫藤田原は大丈夫だろうと言っていたが、根拠は頑なに説明してくれなかった。不安である。
いくら紫藤田原でも、洒落にならない嘘だけは吐かないのはわかっているのだが……彼が自身の見解を述べた後、その根拠を説明しないケースは初めてだ。
その辺が引っかかって、少々踏ん切りが付かない。
「でも、このままじゃ警備員に……」
「……えっ」
「ん?」
ふと、横合いから聞き覚えのある声が聞こえた。
黒斑が軽く首だけ捻ってその方向を見てみると……そこには、黒いジャージに身を包み、白いマスクで口元から鼻先を覆った黒志摩がいた。
その手には近場のコンビニのビニール袋。パンパンに膨らんでいる。何やら大量に買い込んで、その帰りと言った所か。
「く、く、黒、黒斑、聖務巡査長……!?」
「おぉ、おう。や、やぁ。黒志摩ちゃん」
唐突な遭遇。余りの事に、黒斑は驚きを隠せない。
それは黒志摩も同様らしく、かつて黒斑が見た事無い程に、その目を見開いていた。
「え、えぇと…黒志摩ちゃん、そのね……」
って言うか何でマスクしてるんだろう。そんな事を考えつつも、黒斑が会話を切り出そうとした瞬間。
すごい勢いで黒志摩が身を翻し、走り出した。
「ちょっ!? 黒志摩ちゃんッ!?」
まさかの一目散エスケイプ。
いくら何でもそりゃ無いんじゃないの!? と黒斑が叫ぼうとした直後、更に予想外の事態が発生する。
黒志摩が、ズデーンと綺麗にすっ転んでしまったのだ。
「ぎゃひんッ」
「黒志摩ちゃんッ!? えぇッ!? 色々とえぇッ!?」
まとめると、だ。
黒志摩は黒斑と目が合うなり、いきなり逃げ出そうとして、直後にすっ転んだ。
かなり間抜けな流れである。黒志摩らしくも無い。そこまで酷く動揺していたのだろうか。
「おいおい、黒志摩ちゃ…ん?」
……なんか、黒志摩の様子がおかしい気がする。
転倒してから、起き上がる素振りが無い。地面を抱いて、なんかぐったり平べったくなっている様な……
「……黒志摩ちゃん? 黒志摩ちゃーん? ……あれ? 黒志摩ちゃん? ………………黒志摩ちゃんんんんんんッ!?」
ベッドと本棚とクローゼット、あと、少し年季の入った学習机。
室内にあるのはその程度。それが、黒志摩の私室の構成。
壁紙はシンプルな乳白色で、カーテンは遮光断熱用か真っ黒。カーペットも黒と白の市松模様。まるでチェス盤だ。
はっきり言って、殺風景。少なくとも、女子力は見当たらない。
本棚に少女漫画でも並んでりゃ多少リカバリーできたかもだが…そこに収まっているのは、いざと言う時に鈍器として活用できそうな分厚い書籍ばかり。辞典や図鑑かな? と思いきや、『なんとか物語』だの『うんたら戦記』だの、どう考えても伝奇小説らしきタイトルが背表紙に刻まれている。
確か、黒志摩は趣味が読書だと言っていたが…これは趣味と言うよりガチだ。ガチ勢のそれだ。
まぁ、ある意味、黒志摩ちゃんらしいと言えば黒志摩ちゃんらしいか……と黒斑は結論付けた。
で、そんな黒志摩の私室、ベッドの上。
当の黒志摩は、額に吸熱ジェルシートを貼り付けて、ぐったりと寝転がっていた。
「成程…怪我は予定通りに治ったけど、それと同時に風邪でダウンしちゃった、と」
「は、はい……ご心配おかけして、申し訳、ありません…きちんと、灰堂聖務警部には連絡したつもりだったのですが……」
「……ああ、大丈夫。多分、黒志摩ちゃんはきちんと伝えてたと思うよ」
おそらく、灰堂はわざと班員達に黙っていたんだろう。
こうして、黒斑が黒志摩の元を訪れる様に仕向けるために。
(遅かれ早かれ、結局、今朝と『同じ展開』になっていただろうからな……)
風邪をこじらせたため、予定を超過して療養している。一週間の予定が二週間近くも休んでいた理由はそれで頷ける。
だが、黒志摩がずっと黒斑からの電話やメッセージを全て無視していた理由は、それでは説明が付かない。
結局、風邪が治ったからと黒志摩がすんなりと職務復帰していたかは、疑問視せざるを得ないのだ。
だから灰堂は、黒斑と黒志摩ができるだけ早く蟠りを解消できる様に画策したのだろう。
あの人は軽くイカれている様で意外と計算高いと言うか、押さえるべき所は押さえる人だ。
(んじゃ、まぁ……行きますか……)
黒志摩のために、今、黒斑が出来る事。
さぁ、最善を尽くそう。可愛い後輩のために。
◆黒斑さんはアレルギー性鼻炎◆
「ッ……」(く、黒斑さんが私の部屋に……黒斑さんが私の部屋にッ! あ、あぁ…こ、この部屋には私の私生活の匂いが充満してて…それを黒斑さんに嗅がれている、嗅がれてしまっている……! それってもう、擬似的に体中の匂いを嗅がれているも同義では……!? や、ヤバい…すごく倒錯的な興奮が止めどない……!)
(どうでも良い事だけど、今朝からずっと鼻炎が酷いな…詰まってるだけで鼻水出てねぇのは救いだけど)
(嗅がれている……! 堪能されているぅぅぅぅぅぅッッ!!!)
(全ッ然、鼻がきかないなぁ…まぁ、今は差して問題ないから良っか)
「あーりゃーまー? 今日も今日も左弥ちゃんはお休みですかあー」
勤務ボードを眺めながら、活発系赤髪女子・紅瓦がわざとらしく大仰な調子で喋る。
その視線の先には、黒志摩の名前の横に記された『療養休暇中』の五文字。
「おォうおうおう。黒シマダの面ァ、もォォォかれこれ二週間くらぁいは見てねェなァ。あーあーあー」
金怒髪の筋肉青年・武黄嶋も紅瓦の横に並んで同じくどこか大仰な口調でのコメント。
「芽茱ちゃんの話だとぉ、最初の連絡で左弥ちゃんは『一週間程で復帰できるそうです』って言ってたらしいのにねぇー」
「おォん? そりゃァ不思議な話だなァおい。どォ言う訳だァ?」
「まぁ、やっぱアレでしょー。『体の傷』は一週間で治るけどー…『それ以外の傷』はまだまだ治療中、的なぁ?」
「それ以外の傷ゥ? そりゃア一体どこの傷だろォなァ?」
そんな具合に、紅瓦と武黄嶋はやたら芝居がかった不自然な会話を続けていく。
「それそれタケちーん。ここだけの話なんだけどねー…実は私、芽茱ちゃんが左弥ちゃんから聞いたって話をちょっと小耳に挟んだですよ~」
「ほォー? 何だ何だァ? 一体どォんな小話だァ?」
「なぁんとですねー…左弥ちゃん、黒斑さんにガチのテンションで怒鳴り散らされて、かなり精神的に滅入っちゃってるそうなー」
「はァー? クロッさんがァ? なァんでまたァ」
「芽茱ちゃんも流石に細かい内容までは聞いてないみたい。でもまぁ、なんにせよ…ねぇ?」
「あー……最近の若者はバリケードだってのに、昔の物差し持ち込んで怒鳴って叱ってケチョンケチョンパァってか。あーあー」
「……ぅ、うっせぇよぉぉぉぉ! わざと聞こえる様に言ってるなお前ら!?」
二人のやり取りを背中越しに聞かされていた黒斑が、ついにギブアップ。
「ああそうだよ! 俺が悪ぃよチクショウ! それとタケ、多分それを言うならデリケートだよ!」
二週間前、あの象型魔物との一件以来、黒志摩は一度もこの第三支署に顔を見せていない。
扱いとしては、あの戦闘での負った傷を癒すための療養休暇中だが……黒志摩は最初に申請した療養休暇を一週間程オーバーしても、一向に復帰してくる気配が無いのだ。
その理由について、黒斑はとても心当たりがある。
と言うか、もうそれしか考えられない。
「俺だって申し訳無い事をしたと思ってるよ! いくら何でも胸ぐら掴み立てて吠えるのはやり過ぎたよ! でもこれ以上どうしろってんだよ! あれから何度電話しても出てくんねぇし、メッセージはオール既読スルーだし!」
謝り倒そうにも、言葉は届かないし、謝罪メッセージも完全無視。
原因はわかっているが、一体、どうフォローすれば良いのやら。
「チクショウ……完全に嫌われたよこれ……」
「クロ、それは違うぞ」
「はい?」
黒斑の言葉をスパッと否定したのは紫藤田原。自身のデスクでコーヒーを啜りながら、新聞誌面を目で撫ぜている。
「黒志摩さんは、お前を嫌ってこんな状態になってる訳じゃない」
「いや、この状況で、何でそう言い切れるんすか?」
職務復帰拒否に、黒斑からの着信やメッセージを完全無視。
黒斑からしてみれば、完全に自分を嫌って避けているとしか思えないのだが。
「あのな、クロ。人が人を避ける理由は『嫌いだから』だけじゃない。人間関係は繊細で複雑だ。様々な理由から『関わりたくない』と言う心境になる」
「様々な理由って……」
一体、どんな……
黒斑が紫藤田原の言わんとしている事を推測しようと思考を始めた、その時、
「へぇい黒斑っち! だぁからお前は阿呆なのだぁ!」
「うおぉうっ!?」
突如、何者かが黒斑の背に飛びついて来た。
「か、灰堂さん……?」
「うぃー」
その正体は、黒斑の上司、いつでもスウェット姿の女・灰堂。
黒斑の首に手を、腰の辺りに足を回して絡み付き、がっちりオンブ状態。
「いきなり何なんすか…つぅか重いんすけど」
灰堂は小柄だが、地味に重量がある。
「へいへい、黒斑っちー。妙な事を言うとですねー、君の首に回したこのキュートなお手手がちょいとマッスルしちまうでい?」
「くぇぁっ…さ、サーセン……」
「さてさて、話を戻すけど黒斑っちよぉう。何故に君はそんにゃに阿呆なのかね? 灰堂さんちょっとばかしビックリビビンバですよ?」
ふぉー、とふざけた調子で軽い雄叫びを上げ、灰堂が大きく身を反らせる。その謎アクションで黒斑に掛かる負担が無意味にやや増すが、余計な事を言って首を絞められてもあれなので言及はしない。
「いや、確かに阿呆な事をしちまったと思いますけど…そんな死体を蹴るが如く……」
「あー、本当に阿呆だなチミは。灰堂さんが言っているのはそこにあらずんば」
「はぁ?」
「そもそもチミはスポットを当ててる所が違うのでーすよい。今早急に解決すべき問題は、『黒斑が叱り方を間違えた』事と違うでしょうに」
「はいぃ……?」
よく意味がわからないのだが……
「黒斑っちさー、自覚あるか知らないけどー…チミのイメージは悪く言えば『どんな酷い扱いされても本気では怒らない根っからの被虐者気質』…良く言えば『温厚マン』ぜよう」
「おい待て、灰堂さん。何で一回悪く言ったの? ねぇ? 温厚マンだけで良くない? ねぇ?」
「はい脱線禁止。とにかくですぜ? そーんなイメージを全身に纏った黒斑っちをガチで怒らせたーってのはー、結構心にクるモノがあると灰堂さんは思う訳ですにー」
「……!」
普段全然怒らない先輩…そう、黒斑の立場で例えるなら、灰堂辺りか。
もし、黒斑が何か失敗をして、灰堂がガチギレしたら、黒斑はどう感じるか。
こんな腹立たしい程に飄々とした人でも、沸き上がる怒声を抑えきれなくなる様な重大なミスを、自分は犯したのか。
そう言う風に、深い罪の意識を持ってしまうだろう。
そうなれば、灰堂を嫌いになるなんて事は無くても、罪悪感から少し接し辛いと思う様になるかも知れない。場合によっては「どの面下げて会えば良いかわからない」と全力で避けてしまうだろう。
黒志摩は今、そんな心境から黒斑を避けているのかも知れない。
「少し真面目に言うよ? 黒斑っちが何を思って、黒志摩っちに怒ったのかは知らんし、詮索もしません。黒斑っちも一人の人間なんだから、たまーには感情的になっちゃうのも仕方無いとは思う。でもね、黒斑っちは周りから『温厚で優しい奴』だって思われてる事と、そう言う人に本気で怒られるって言うのがどれだけ精神的に堪えるか、それは理解しなきゃダメ」
聖人君子じゃあるまいし、どんな温厚な人間だろうと、時にはカッとなってしまうのも仕方無い。
でも、黒斑が本気で怒ると言うアクションは、黒斑本人が思っている以上に、怒られた人間にダメージを与えてしまう。
後輩を持つ先輩として、自身の叱咤がどう言う意味を持ってしまうか、それをきちんと自覚しろ。灰堂はそう窘めている。
「で、理解したら、今度は『自分がどうしてもらえたら、その件を水に流せるか』をちゃんと考えてみて」
「………………………………」
どうしたら、水に流せるか。本気で怒った先輩が、どうフォローしてくれたら「許された」と思えるか。
それは多分、先輩から「怒鳴り付けてごめん」と謝り倒される事ではない。
その謝罪は、あくまで『叱り方を間違えた』と言うだけであって、『叱った内容』についてフォローする行為では無いからだ。
黒斑がいくら謝ったって、それは黒志摩の抱える自責の念には影響しない。
結局『黒志摩がした事』は『黒斑が後に謝罪するくらい感情的に叱責する様な行為』だったと言う事実は変わらず、黒志摩の心を苛み続ける。
つまり別の問題。謝るのは、後だ。
今、黒斑が取り急いで解決すべき問題は『あの時の叱り方を間違えた事』より、『黒志摩が自分を避けて職務に復帰できない事』。
そして『彼女が黒斑を避ける理由』は、彼女自身の犯した過ちに対して抱えている罪悪感だ。
そこにフォローを入れる…罪悪感の軽減を手伝う。
人が罪悪感を軽減できる「最も手っ取り早い行為」を促す。
つまり、黒斑が今すべき事は……
「はい! 流石の阿呆の子クロムーリャでも理解できたかね?」
「うっす……!」
早速、思いつく限りの言葉を整理し、メッセージを作成すべく、スマホを……
「って、チミは底抜けの阿呆かぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」
「ぐぇすッ!? か、灰堂しゃ、は、きゅ、苦ひ、ぎ……!」
突然、灰堂が黒斑の首に着脱機能を付加せんばかりの勢いで締め上げてきた。
「あーのーねー……こう言う大事な話は、直接面と向かってが基本と違いますかいねーぇ?」
「え、いやでも、直接ったってどうやって……」
「く・ろ・む・ら・っ・ちー……灰堂さんは知ってますよ~。黒斑っちは、『知ってる』って事をー」
「はぁ? 知ってるって何の……」
「黒志摩っちのおウチ」
「!」
確かに、黒斑は何度か黒志摩を自宅マンションまで送り届けている。
その際、「良い所に住んでんねー。一人暮らし? もしかして結構お嬢様?」と言う黒斑の感想&質問をキッカケに始まった罵倒たっぷりの短い会話の中から、そのマンションの八階に住んでいる事も把握している。
「まさか……」
「イエスッ。突撃どこぞの黒志摩っち」
住んでいるマンションと、階と、苗字がわかれば、部屋番号を知る事は難しくない。玄関の集合ポストに表札を付けているタイプのマンションならそこを確認すれば一発。そうじゃないなら、管理者に「同僚と連絡が取れなくなっているので様子を見に来た」と事情を説明して融通を願う、なんて手もある。
「か、簡単に言うけどよ……それ、最悪、裁判沙汰にならね?」
「その辺は大丈夫だろう。気にするな」
何故か、紫藤田原は自信満々。紅瓦と武黄嶋も「そーだね」「だろォな」と紫藤田原の意見を支持した。
「と言う訳で黒斑っち。これは上官命令ですに。今すぐ黒志摩っちのおウチへゴゴッゴー!」
「え、いや……えぇぇええぇ……」
「可愛い後輩のためなんだから、四の五の言わにゃーッ! 為せば成る、当たって砕けろ何事も!」
本当に大丈夫か、それ。
朝と昼の間、中途半端な頃合。そろそろ大体の人が「今日の昼は何を食べようか」なんて意識し始める時間帯。
一体何階建てなんだか。数える気にもなれない高層マンションを見上げ、黒斑は深い溜息を吐いた。
AMOUR・RICH・HAVITATION…何語でどう言う意味の名前なんだか、黒斑には見当も付かない。とりあえずオシャレな高級志向マンションだって事だけは何となく伝わる名前である。
このマンションの八階に、黒志摩は住んでいる。
「…………………………」
多分、あの中腹辺りが八階か。高いなぁ。どんな熟練の下着泥棒でも、あの辺りを攻めるのは無謀だろうなぁ。……なんて、黒斑はプチ現実逃避。
しかし、いつまでも玄関前でボーっと立ち尽くす訳にも行くまい。かれこれ立ち尽くし始めて一〇分程。玄関の大きなガラス戸の向こう、フロントロビーに佇んでいる警備員がめっちゃこっち見てる。その顔はさながら、あらゆる厄災に睨みをきかせる狛犬の形相。完全に臨戦態勢の一歩手前である。
そりゃあ、全身黒ずくめの男が一〇分程度ボーっとつっ立ってたら、怪しむのは自然だ。実に妥当な構えと言える。お仕事ご苦労様です。
さて、あの業務マニュアルに忠実そうな警備員Aが警備員BとかCを召喚する前に、さっさと覚悟を決めなければ。
「でも、大丈夫かマジで……」
紫藤田原は大丈夫だろうと言っていたが、根拠は頑なに説明してくれなかった。不安である。
いくら紫藤田原でも、洒落にならない嘘だけは吐かないのはわかっているのだが……彼が自身の見解を述べた後、その根拠を説明しないケースは初めてだ。
その辺が引っかかって、少々踏ん切りが付かない。
「でも、このままじゃ警備員に……」
「……えっ」
「ん?」
ふと、横合いから聞き覚えのある声が聞こえた。
黒斑が軽く首だけ捻ってその方向を見てみると……そこには、黒いジャージに身を包み、白いマスクで口元から鼻先を覆った黒志摩がいた。
その手には近場のコンビニのビニール袋。パンパンに膨らんでいる。何やら大量に買い込んで、その帰りと言った所か。
「く、く、黒、黒斑、聖務巡査長……!?」
「おぉ、おう。や、やぁ。黒志摩ちゃん」
唐突な遭遇。余りの事に、黒斑は驚きを隠せない。
それは黒志摩も同様らしく、かつて黒斑が見た事無い程に、その目を見開いていた。
「え、えぇと…黒志摩ちゃん、そのね……」
って言うか何でマスクしてるんだろう。そんな事を考えつつも、黒斑が会話を切り出そうとした瞬間。
すごい勢いで黒志摩が身を翻し、走り出した。
「ちょっ!? 黒志摩ちゃんッ!?」
まさかの一目散エスケイプ。
いくら何でもそりゃ無いんじゃないの!? と黒斑が叫ぼうとした直後、更に予想外の事態が発生する。
黒志摩が、ズデーンと綺麗にすっ転んでしまったのだ。
「ぎゃひんッ」
「黒志摩ちゃんッ!? えぇッ!? 色々とえぇッ!?」
まとめると、だ。
黒志摩は黒斑と目が合うなり、いきなり逃げ出そうとして、直後にすっ転んだ。
かなり間抜けな流れである。黒志摩らしくも無い。そこまで酷く動揺していたのだろうか。
「おいおい、黒志摩ちゃ…ん?」
……なんか、黒志摩の様子がおかしい気がする。
転倒してから、起き上がる素振りが無い。地面を抱いて、なんかぐったり平べったくなっている様な……
「……黒志摩ちゃん? 黒志摩ちゃーん? ……あれ? 黒志摩ちゃん? ………………黒志摩ちゃんんんんんんッ!?」
ベッドと本棚とクローゼット、あと、少し年季の入った学習机。
室内にあるのはその程度。それが、黒志摩の私室の構成。
壁紙はシンプルな乳白色で、カーテンは遮光断熱用か真っ黒。カーペットも黒と白の市松模様。まるでチェス盤だ。
はっきり言って、殺風景。少なくとも、女子力は見当たらない。
本棚に少女漫画でも並んでりゃ多少リカバリーできたかもだが…そこに収まっているのは、いざと言う時に鈍器として活用できそうな分厚い書籍ばかり。辞典や図鑑かな? と思いきや、『なんとか物語』だの『うんたら戦記』だの、どう考えても伝奇小説らしきタイトルが背表紙に刻まれている。
確か、黒志摩は趣味が読書だと言っていたが…これは趣味と言うよりガチだ。ガチ勢のそれだ。
まぁ、ある意味、黒志摩ちゃんらしいと言えば黒志摩ちゃんらしいか……と黒斑は結論付けた。
で、そんな黒志摩の私室、ベッドの上。
当の黒志摩は、額に吸熱ジェルシートを貼り付けて、ぐったりと寝転がっていた。
「成程…怪我は予定通りに治ったけど、それと同時に風邪でダウンしちゃった、と」
「は、はい……ご心配おかけして、申し訳、ありません…きちんと、灰堂聖務警部には連絡したつもりだったのですが……」
「……ああ、大丈夫。多分、黒志摩ちゃんはきちんと伝えてたと思うよ」
おそらく、灰堂はわざと班員達に黙っていたんだろう。
こうして、黒斑が黒志摩の元を訪れる様に仕向けるために。
(遅かれ早かれ、結局、今朝と『同じ展開』になっていただろうからな……)
風邪をこじらせたため、予定を超過して療養している。一週間の予定が二週間近くも休んでいた理由はそれで頷ける。
だが、黒志摩がずっと黒斑からの電話やメッセージを全て無視していた理由は、それでは説明が付かない。
結局、風邪が治ったからと黒志摩がすんなりと職務復帰していたかは、疑問視せざるを得ないのだ。
だから灰堂は、黒斑と黒志摩ができるだけ早く蟠りを解消できる様に画策したのだろう。
あの人は軽くイカれている様で意外と計算高いと言うか、押さえるべき所は押さえる人だ。
(んじゃ、まぁ……行きますか……)
黒志摩のために、今、黒斑が出来る事。
さぁ、最善を尽くそう。可愛い後輩のために。
◆黒斑さんはアレルギー性鼻炎◆
「ッ……」(く、黒斑さんが私の部屋に……黒斑さんが私の部屋にッ! あ、あぁ…こ、この部屋には私の私生活の匂いが充満してて…それを黒斑さんに嗅がれている、嗅がれてしまっている……! それってもう、擬似的に体中の匂いを嗅がれているも同義では……!? や、ヤバい…すごく倒錯的な興奮が止めどない……!)
(どうでも良い事だけど、今朝からずっと鼻炎が酷いな…詰まってるだけで鼻水出てねぇのは救いだけど)
(嗅がれている……! 堪能されているぅぅぅぅぅぅッッ!!!)
(全ッ然、鼻がきかないなぁ…まぁ、今は差して問題ないから良っか)
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