BLACK・LIKE
06,黒斑さんは親しみ易くなりたい。
「……あー……ただいまー……」
夜。
黒斑は晩飯の食材が詰まったマイバックを片手に、愛しの我が家…ボロアパートの一室へと帰還。
暗い室内に入って早々、盛大な溜息を吐いた。
「今日はマジで……ドッと疲れたなぁ……」
入口のすぐ傍にあるスイッチを入れて室内の闇を取っ払い、パッパと靴を脱ぎ捨てる。
(人材を育てるって、すげぇ労力要るのな……)
まだ一日目だと言うのに、「後輩の教育係」と言う役職がトラウマになるかと思った。
まさか、こんなに精神的に疲弊する業務だとは思ってもみなかったのだ。
黒斑以外にも紅瓦や武黄嶋の教育まで担当した紫藤田原の偉大さを身を以て実感する。流石はお父さん。デリカシーの欠如が著しいけど。
「……………………」
……いや、現実から目を背けるのはよそう。
この精神的な疲弊は「後輩の教育」と言う作業がキツいものだったから……だけでは無い。
むしろ、この精神疲労感の大部分の原因は別の事。
……黒志摩による熾烈な言葉責めだ。
心のダメージは疲労と言う形で表層化する事が多い。
今日一日で何回「中年」だの「見苦しい」だの言われたか、もう記憶が定かじゃない。
黒志摩本人曰く、彼女の罵倒の言葉は全て悪意無い実直な感想。
罵倒される側に抵抗の余地を与えない分、悪意ある罵詈雑言より質が悪いかも知れない。
黒斑が出来る対策があるとすれば、黒志摩にそう言う感想を抱かせない振る舞いを心掛けるくらいか。
今の所、その難易度の高さに目のハイライトが消え失せるレベルの話だが。
「……とりあえず、アレだ。飯。飯を食おう」
人の生活に置いて『食』はとても大きな意味を持っていると思う。
もし食事がただの栄養補給でしか無いなら、人は複雑な味覚なんて獲得しちゃいないだろう。栄養補給だけを目的とするなら、味の機微なんてわからなくても問題無い。ただ可食物か非可食物か程度の大雑把な分別さえ付けば充分なはずだ。
だのに、人の味覚は非常に優秀。少し訓練すれば、数秒の焼き時間の差で生じる微細な味の変化すら感じ取る事ができる様な性能を誇る。
これは、「食べれるかどうかの判定機能以外の目的があって人類は味覚を進化させた」と考えるのが妥当だろう。
だとすれば、その目的とは何か。
黒斑個人の見解としては、「気を紛らわせるため」だと思う。
どんな事があろうと、人は腹が減る。
極論、目の前で人が死のうが関係無い。どれだけ気分が沈もうと、食後四時間か五時間程で胃の内容物の消化が完了し、そこから一・二時間もすれば「次の仕事を寄越せ」と胃がゴネ始める。
生きている限り、人は食事から逃れる事はできない。
どれだけ食欲が減退していても、食わなきゃ死ぬ。
だから、人は味覚を進化させた。
どうせ何があっても物を食べなきゃいけないなら、その機会を有効に活用しようとしたんだ。
多彩な刺激で、思考を食事に向けさせる。嫌な出来事から気を逸らさせる。
美味い、と言う『喜び』の刺激で気分を向上させる。
辛い現実と戦うための英気を養なわせる。
何があろうと生きていくための術の一つとして、人は味覚を進化させたのでは無いだろうか。
……なーんて、根拠が希薄などうでも良い考察も、シンプルに塩焼きで仕上げた鶏もも肉のステーキにかぶり付けば、刹那に何処かへ消えいく。
一見灰色で、華やかさなど欠片も無い焼かれただけの肉塊。しかし、そこに内包されている喜びは極彩色と言う比喩すら不足感を否めない程の濃厚な味の暴力。
咀嚼の瞬間、全身を巡る血の勢いが少し加速した様な気がした。
「くっっっ、はぁぁぁ……!」
弾力、適度。塩味、適切。肉本来の旨み、至高。白米との相性、抜群。
酒のストックがあれば最強だったなコレ、とかやや惜しい思いはありつつも、黒斑は卓袱台をペシペシ叩いて美味への歓喜を表現する。
「あーもう……鶏肉って何でこんな美味いかねッ」
もう鶏って食われるために生まれて来たんじゃねぇか、と本気で思う。
スーパーの特売品をかっさらい、ほとんど手間をかけずにぱぱっと焼いただけで、至福の一時を提供してくれる。
そんな鶏の事が、黒斑は大好きだ。
「ぶっはぁ! ごちそうさまぁ、っと」
鶏肉ステーキと白米、適当に用意したサラダを一気に平らげ、黒斑はご満悦。
上機嫌のまま、卓袱台の隅に寄せといたテレビのリモコンに手を伸ばす。
「なんか面白いのやってねぇかなー……」
小ぢんまりした薄型テレビの電源を入れ、適当にザッピングを開始。
最初に表示されたのは、料理番組。キッチン設備の整ったスタジオで、どっかで見た顔の料理家のおっさんとアシスタントらしきお姉さんがわちゃわちゃやってる。
『ではこの微塵切りにした緑色の何かを…』
「今は良いかな」
食欲は今満たしたばかりなので、大して興味が湧かない。
次。
今度はサッカー中継だ。ユニフォームの色的に、日本以外の国同士の試合だろうか。
『おおーっと、ここで豪快なオフサイ…』
「よくわからん」
スポーツ観戦は元々あまり興味のある事では無いし、自国のチームでも無いなら特に見守る義理も無い。
次。
今度は何かの特番らしい。
『霊能力者が語る! トワイライトの怪現象! 今宵、徹底…』
「………………」
次。
今度は報道番組だ。先日話題になったとある芸能人の七股騒動のハイライトと続報らしい。当事者からのコメントもある様だ。
『色々と持て余してまして…』
「ゲスいねぇ」
連日バッシングの雨嵐に晒され、すっかり消沈のご様子だが…まぁ、因果応報と言う奴だ。きっちりマスコミと世間様の連携プレーでタコ殴りにされていただこう。
次。
『職場の先輩と、あんまり上手く行ってなくて……』
「おう?」
何やら、すごくタイムリーな話題が聞こえた気がする。
現代の若者をクローズアップしていくドキュメント番組の様だ。
インタビューに答えているのは…丁度黒志摩と同年代くらいの若い女性。
『ちょっと距離感を感じていると言うか…親しみ難いと言うか……そうなって来ると、自然とこっちも身構えちゃうんですよね。で、一緒にいて息苦しいと言うか、辛いと言うか……後ろ向きな感情しか持てなくて、先輩の良い所より悪い所の方が目に付いちゃったり……』
「……親しみ難い相手だと、悪い所ばっかり目に付く、か」
要約すると、そう言う事だろう。
不意に、映像が切り替わる。映ったのは、簡素な装飾のスタジオで椅子に腰掛けた若い男女。どっちも見覚えがある。今流行りのタレントだ。
どうやら、ドキュメントのVTRを放送しつつ、時たまスタジオにいるMC役タレントがそのVTRにコメントを付けていくスタイルの番組らしい。
『あー、わかる気がしますねー。僕も事務所の先輩とメチャクソにギスギスしてた時期ありましたよー』
と軽薄そうな笑みで語り出したのは、優形のイケメンタレント。
『過去形って事は、今は割と?』
『ええ、まぁ。やっぱりね。詰まる所、コミュニケーション不足に尽きるんですよ。この手の問題の原因って』
「コミュニケーション不足……」
『親しみ難いからって、お互いに距離を取ってちゃあ、ねぇ? 案外簡単ですよ、親しくなるの。やってみたら余りの肩透かしぶりにズッコケそうになるくらい』
『具体的には?』
『少しずつで良いから、趣味嗜好の話をしていくんです。人は自分で思っているよりも多趣味だ。「言われてみたら好みかも」って要素をたくさん持ってる』
人は「強いて言うなら○○も好き」と言う感覚を多く持っている。
好物を聞かれた時、いつも真っ先にあげるのは寿司だけど、天ぷらだって好きと言う人は大勢いるだろう。腋フェチでもおっぱいも大好き、なんて人も多いはずだ。
人の好みは一人一ジャンルに付き一つでは無い。実に雑多。
その雑多な好みが一つ残らず一致しない人間なんてそうそういない。
『探せば絶対ありますよ。仲良くなりたいその誰かと、同じ好み。それを見つけて、掘り下げてく。親睦を深めるのに実に有効な第一歩ですね』
「………………………………」
翌朝。黒斑が地域安全課のオフィスにやって来ると、既に黒志摩がオフィス内で待機していた。
本日も黒斑同様の真っ黒コーデ。昨日黒斑と武黄嶋が二人がかりで搬入したデスクに座り、整然と待機している。
「おはよ、黒志摩ちゃん」
「おはようございます、黒斑聖務巡査長」
「随分早いね」
黒斑もいつもより少し早めに出て来たつもりだったのだが、黒志摩の落ち着き具合を見るに、あっさり先を越された様子。
「はい。後輩は先輩より先に準備を整えておくモノ。その程度の常識は弁えています」
別にそんなゴリッゴリの体育会系なノリを強要した覚えは無いが……黒志摩がそれを常識とするのなら野暮な事は言わない。
「あと、昨日用意する様にと言われたモノも」
黒志摩が鞄から取り出したのは、小型の黒いノートPC。
「黒志摩ちゃんはPCにしたんだ」
Cレポ…魔物との戦闘記録は、電子端末でデータを作成し、それをエスケーの運用する専用ネットワークにアップする形で総務宛に提出する事になっている。
個人のPCやスマホでフォーマットをダウンロードして作成するも良し。総務で備品のノートPCやタブレット端末を借りて作成するも良し。
まぁ、貸出返却作業がちょっとした手間なので、大抵の捜査官は自前の端末で作業を行うが。
ちなみに黒斑はスマホ派だ。
「スマホでの文字入力より、こちらの方が個人的にしっくりするので」
「んじゃ、とりあえずレポートのファーマットをダウンロードする所から始めようか」
「承知しました」
「署内Wi-FiのキーパスはMAMONO37564ね」
「……魔物三七五六四ですか……」
「シンプルでわかりやすいでしょ?」
聖務捜査官としての業務を教えつつ、黒斑は頭の隅で別の思考を走らせる。
それは、黒志摩との親睦を深めるためのコミュニケーション。
親しみ難い先輩は、悪い所が目立って見えてしまう。
昨夜テレビに出演していた黒志摩と同年代くらいの女の子の弁だ。
その弁を参考に「黒志摩ちゃんが俺に対して酷評ばかり抱き口にするのは、親しみ難さを感じているからでは無いか」と黒斑は推測した。
結構自分は親しみ易い方だと自負していたのだが…所詮は自己評価。
黒志摩がそう思っているのなら、それをどうにかすべきだろう。
具体的な術だが……それも昨夜の番組内で言っていた。
趣味嗜好を探り、掘り下げられる話題を掘り下げる。
「ダウンロード及び解凍作業、完了しました」
「じゃあ、早速ファイルを開いてみて。『C・R』ってアプリケーションがあるから、それを起動」
「出ました。……わかりやすいフォーマットですね」
Cレポのフォーマットは実にシンプル。青地の枠内に大小様々な白い入力欄が上から並んでるだけ。
入力欄の傍には「日付」とか「使用聖具」とか「戦闘詳細」とか逐一指示も書かれているので初見でもわかりやすい。
「昔はもっとややこしかったらしいけどね。あ、一応、この上の方のツールバーのヘルプの中に『見本表示』ってのもあるから、参考にしてみると良いよ」
「はい。助言、ありがとうございます」
「……でさ、ちょっと話変わるけど……」
さぁ、一歩踏み出してみよう。
「黒志摩ちゃんって、黒が好きなの?」
「……? いきなり何ですか、不気味な」
「不気ッ……」
まぁ、いきなり好みの話を切り出すのは不自然ではあるけど。そこは黒斑にも算段がある。
「い、いやさ、ほら、黒志摩ちゃんのコーデって昨日も真っ黒だったじゃん? ちょっと気になって……」
二日連続で全身黒ずくめで出勤してきた後輩に対し、ちょっとした間に「黒好きなの?」と聞くのは決して不自然な行動では無いはずだ。
「……好みと言えば好みですが。それが何か」
「気が合いそうだなーと思って。俺も黒好きだからさ。ほら、真っ黒っしょ?」
「……で?」
「……で? と言いますと……?」
「私と黒斑聖務巡査長は黒色が好き。はい。そうですね。その点に関して気が合うと言えば、その通りなのでしょう。事実なので仕方ありませんね。……で、それが何か?」
「………………………………」
えぇと……
「……いや、うん、それだけ、だけ、ど……」
「そうですか」
……「それが何か」からの「……で?」は無いだろう。
それ、言葉で殴り合う時にやる奴だ。会話する気ない人のそれだ。
「……黒志摩ちゃん。好みと言えばさ、何か好きな食べ物の系統とかある? 俺は塩味が効いてる系が好みなんだけど……」
やや苦しい感はあるが、無理やり関連付けて好みの話を続行する。
「……強いて言うなら、私も塩味が強いモノを好む傾向があります」
「お、これまた奇遇!」
「で、それが何か?」
「でぅっ…い、いや、すごくない? 色と食の好みが似てるってすごく親近感を……」
「黒が好きで塩の風味も好き…多くの人間が該当する話だと思います。特別な親しみ易さを感じる要素ではありません」
バッサリと切り捨てられた気がした。
……ダメだ。何を聞いても、同じ展開に収束しそうな予感しかしない。
「…………………………黒志摩ちゃん。一通り書けたら、一回見せてね」
「承知しました」
歩み寄るどころか、更に距離が離れた感さえある。
何が簡単だ。何が肩透かしでズッコケるだ。タレントの好き嫌いは今まで特に無かった黒斑だが、あのホラ吹き優男だけは絶対に許さない。
「……………………はぁ…………」
仕方無い、俺もCレポ作ろう。
黒斑はそう溜息一つで切り替えて、スマホを取り出した。
「……何ですか、その不満気な溜息は。見苦しい」
「見苦ッ……」
黒志摩は些細な事も見逃してはくれない。
「私に不満があるのでしたら、正面切って言っていただいて結構ですよ。ただ、度が過ぎた場合、パワハラとして適切な場を設けて処理させていただきますが」
「いやいやいや、決してそう言う意図の溜息じゃないよ! 俺が、黒志摩ちゃんに不満なんてある訳ないじゃないか!」
「…………………………」
「……………………ご、ごめんなさい。今嘘吐きました」
「察するに、私が全く会話にノらない事が不服なんですね?」
「う、うん……」
「私の様な口下手でクソ生意気な小娘と会話して、自分が優れた人間であると優越感に浸りたい、と」
「違うよ!? それは全力で否定するよ!? 俺はただ並みの先輩後輩の関係になりたいって言うか、少しでも親しくなりたいだけだからね!? で、実は昨日、テレビで『親しくなるには趣味嗜好の話をするのが一番良い』って……」
「……そのお歳で、マスメディアの言ってる事を真に受けて、意気揚々と実行しようとした、と」
「うぐふっ……」
年齢への言及と浅はかさへの指摘が同時に飛んできた。本当に容赦が無い。
これは言葉のキャッチボールなんかじゃない。言葉と言う石を投げつけて仕留めに来てる。さながら言葉の投石兵だ。
「……まぁ、親しくなりたい、と言われて、その意気を無下にあしらう程、私は弄れてはいません」
「……え?」
「趣味嗜好の話、でしたね」
「あ、ああ。うん!」
「私は、賑やかな音楽が嫌いです」
「おう、? へ、え? ぁ? お、うん?」
「なので、昨日の移動中は正直、辟易としていました」
黒斑達は討魔業務に出る際、黒斑の私用車である黒い軽自動車を移動手段として使っている。
車内では黒斑が「あ、これ良いかも知れんね」と思った楽曲が常にループで再生されている訳だが、その選曲はアップテンポな洋楽がメインだ。
それに対する苦言らしい。
「ぇ、ああと……」
「強いて要望を出す事が許されるなら、静かなクラシック系、もしくは無音での移動をお願いしたいです」
「……うん。わ、わかった」
「あと、クラシックを流すならショパンのワルツを所望します。特に第一三番が私の好みです。派手さは無く、叙情的な旋律が緩やかに鼓膜を撫ぜてくれるので非常に落ち着ける曲です」
「お、おお。そ、そうか……ショ、ショパンね。ショパン。うん、クラシックと言えばその人だな。うん」
「……………………」
「……………………」
「……満足ですか?」
「……う、うん。まぁ……あ、ありがとう」
「どういたしまして」
まさか嫌いなモノから話が切り出された挙句、苦情を経由して来たのはかなり予想外だった。
そしてクラシックなんて欠片も知識が無いので今度は黒斑が話に乗れなかったと言う。
「…………………………」
「…………………………」
そこから、紅瓦達が出勤してくるまで、オフィスには黒志摩が静かにキーボートを叩く音だけが響いていた。
◆黒志摩ちゃんは第一三番に感情移入してる◆
「でも、何か黒志摩ちゃんがクラシックに詳しいってのはちょっと意外だったと言うか、イメージ無かったかなー」
「勝手に解釈しないでください。私はクラシック音楽への造詣はそう深くありません」(ショパンのワルツ以外まともに聞いた事無いですし)
「え? でも……」
「私は一度もクラシックに詳しいとは言っていません。ただ、黒斑聖務巡査長の趣味の悪い洋楽よりは好みである、と言うだけの話です」(ショパンのワルツ一三番は、ショパンが愛しい人へ向けて贈るために作った楽曲だと言う説があると聞いて……それを踏まえて聞いてたら、こう親近感的なモノで好きになったと言いますか……)
「く、黒志摩ちゃん……」
夜。
黒斑は晩飯の食材が詰まったマイバックを片手に、愛しの我が家…ボロアパートの一室へと帰還。
暗い室内に入って早々、盛大な溜息を吐いた。
「今日はマジで……ドッと疲れたなぁ……」
入口のすぐ傍にあるスイッチを入れて室内の闇を取っ払い、パッパと靴を脱ぎ捨てる。
(人材を育てるって、すげぇ労力要るのな……)
まだ一日目だと言うのに、「後輩の教育係」と言う役職がトラウマになるかと思った。
まさか、こんなに精神的に疲弊する業務だとは思ってもみなかったのだ。
黒斑以外にも紅瓦や武黄嶋の教育まで担当した紫藤田原の偉大さを身を以て実感する。流石はお父さん。デリカシーの欠如が著しいけど。
「……………………」
……いや、現実から目を背けるのはよそう。
この精神的な疲弊は「後輩の教育」と言う作業がキツいものだったから……だけでは無い。
むしろ、この精神疲労感の大部分の原因は別の事。
……黒志摩による熾烈な言葉責めだ。
心のダメージは疲労と言う形で表層化する事が多い。
今日一日で何回「中年」だの「見苦しい」だの言われたか、もう記憶が定かじゃない。
黒志摩本人曰く、彼女の罵倒の言葉は全て悪意無い実直な感想。
罵倒される側に抵抗の余地を与えない分、悪意ある罵詈雑言より質が悪いかも知れない。
黒斑が出来る対策があるとすれば、黒志摩にそう言う感想を抱かせない振る舞いを心掛けるくらいか。
今の所、その難易度の高さに目のハイライトが消え失せるレベルの話だが。
「……とりあえず、アレだ。飯。飯を食おう」
人の生活に置いて『食』はとても大きな意味を持っていると思う。
もし食事がただの栄養補給でしか無いなら、人は複雑な味覚なんて獲得しちゃいないだろう。栄養補給だけを目的とするなら、味の機微なんてわからなくても問題無い。ただ可食物か非可食物か程度の大雑把な分別さえ付けば充分なはずだ。
だのに、人の味覚は非常に優秀。少し訓練すれば、数秒の焼き時間の差で生じる微細な味の変化すら感じ取る事ができる様な性能を誇る。
これは、「食べれるかどうかの判定機能以外の目的があって人類は味覚を進化させた」と考えるのが妥当だろう。
だとすれば、その目的とは何か。
黒斑個人の見解としては、「気を紛らわせるため」だと思う。
どんな事があろうと、人は腹が減る。
極論、目の前で人が死のうが関係無い。どれだけ気分が沈もうと、食後四時間か五時間程で胃の内容物の消化が完了し、そこから一・二時間もすれば「次の仕事を寄越せ」と胃がゴネ始める。
生きている限り、人は食事から逃れる事はできない。
どれだけ食欲が減退していても、食わなきゃ死ぬ。
だから、人は味覚を進化させた。
どうせ何があっても物を食べなきゃいけないなら、その機会を有効に活用しようとしたんだ。
多彩な刺激で、思考を食事に向けさせる。嫌な出来事から気を逸らさせる。
美味い、と言う『喜び』の刺激で気分を向上させる。
辛い現実と戦うための英気を養なわせる。
何があろうと生きていくための術の一つとして、人は味覚を進化させたのでは無いだろうか。
……なーんて、根拠が希薄などうでも良い考察も、シンプルに塩焼きで仕上げた鶏もも肉のステーキにかぶり付けば、刹那に何処かへ消えいく。
一見灰色で、華やかさなど欠片も無い焼かれただけの肉塊。しかし、そこに内包されている喜びは極彩色と言う比喩すら不足感を否めない程の濃厚な味の暴力。
咀嚼の瞬間、全身を巡る血の勢いが少し加速した様な気がした。
「くっっっ、はぁぁぁ……!」
弾力、適度。塩味、適切。肉本来の旨み、至高。白米との相性、抜群。
酒のストックがあれば最強だったなコレ、とかやや惜しい思いはありつつも、黒斑は卓袱台をペシペシ叩いて美味への歓喜を表現する。
「あーもう……鶏肉って何でこんな美味いかねッ」
もう鶏って食われるために生まれて来たんじゃねぇか、と本気で思う。
スーパーの特売品をかっさらい、ほとんど手間をかけずにぱぱっと焼いただけで、至福の一時を提供してくれる。
そんな鶏の事が、黒斑は大好きだ。
「ぶっはぁ! ごちそうさまぁ、っと」
鶏肉ステーキと白米、適当に用意したサラダを一気に平らげ、黒斑はご満悦。
上機嫌のまま、卓袱台の隅に寄せといたテレビのリモコンに手を伸ばす。
「なんか面白いのやってねぇかなー……」
小ぢんまりした薄型テレビの電源を入れ、適当にザッピングを開始。
最初に表示されたのは、料理番組。キッチン設備の整ったスタジオで、どっかで見た顔の料理家のおっさんとアシスタントらしきお姉さんがわちゃわちゃやってる。
『ではこの微塵切りにした緑色の何かを…』
「今は良いかな」
食欲は今満たしたばかりなので、大して興味が湧かない。
次。
今度はサッカー中継だ。ユニフォームの色的に、日本以外の国同士の試合だろうか。
『おおーっと、ここで豪快なオフサイ…』
「よくわからん」
スポーツ観戦は元々あまり興味のある事では無いし、自国のチームでも無いなら特に見守る義理も無い。
次。
今度は何かの特番らしい。
『霊能力者が語る! トワイライトの怪現象! 今宵、徹底…』
「………………」
次。
今度は報道番組だ。先日話題になったとある芸能人の七股騒動のハイライトと続報らしい。当事者からのコメントもある様だ。
『色々と持て余してまして…』
「ゲスいねぇ」
連日バッシングの雨嵐に晒され、すっかり消沈のご様子だが…まぁ、因果応報と言う奴だ。きっちりマスコミと世間様の連携プレーでタコ殴りにされていただこう。
次。
『職場の先輩と、あんまり上手く行ってなくて……』
「おう?」
何やら、すごくタイムリーな話題が聞こえた気がする。
現代の若者をクローズアップしていくドキュメント番組の様だ。
インタビューに答えているのは…丁度黒志摩と同年代くらいの若い女性。
『ちょっと距離感を感じていると言うか…親しみ難いと言うか……そうなって来ると、自然とこっちも身構えちゃうんですよね。で、一緒にいて息苦しいと言うか、辛いと言うか……後ろ向きな感情しか持てなくて、先輩の良い所より悪い所の方が目に付いちゃったり……』
「……親しみ難い相手だと、悪い所ばっかり目に付く、か」
要約すると、そう言う事だろう。
不意に、映像が切り替わる。映ったのは、簡素な装飾のスタジオで椅子に腰掛けた若い男女。どっちも見覚えがある。今流行りのタレントだ。
どうやら、ドキュメントのVTRを放送しつつ、時たまスタジオにいるMC役タレントがそのVTRにコメントを付けていくスタイルの番組らしい。
『あー、わかる気がしますねー。僕も事務所の先輩とメチャクソにギスギスしてた時期ありましたよー』
と軽薄そうな笑みで語り出したのは、優形のイケメンタレント。
『過去形って事は、今は割と?』
『ええ、まぁ。やっぱりね。詰まる所、コミュニケーション不足に尽きるんですよ。この手の問題の原因って』
「コミュニケーション不足……」
『親しみ難いからって、お互いに距離を取ってちゃあ、ねぇ? 案外簡単ですよ、親しくなるの。やってみたら余りの肩透かしぶりにズッコケそうになるくらい』
『具体的には?』
『少しずつで良いから、趣味嗜好の話をしていくんです。人は自分で思っているよりも多趣味だ。「言われてみたら好みかも」って要素をたくさん持ってる』
人は「強いて言うなら○○も好き」と言う感覚を多く持っている。
好物を聞かれた時、いつも真っ先にあげるのは寿司だけど、天ぷらだって好きと言う人は大勢いるだろう。腋フェチでもおっぱいも大好き、なんて人も多いはずだ。
人の好みは一人一ジャンルに付き一つでは無い。実に雑多。
その雑多な好みが一つ残らず一致しない人間なんてそうそういない。
『探せば絶対ありますよ。仲良くなりたいその誰かと、同じ好み。それを見つけて、掘り下げてく。親睦を深めるのに実に有効な第一歩ですね』
「………………………………」
翌朝。黒斑が地域安全課のオフィスにやって来ると、既に黒志摩がオフィス内で待機していた。
本日も黒斑同様の真っ黒コーデ。昨日黒斑と武黄嶋が二人がかりで搬入したデスクに座り、整然と待機している。
「おはよ、黒志摩ちゃん」
「おはようございます、黒斑聖務巡査長」
「随分早いね」
黒斑もいつもより少し早めに出て来たつもりだったのだが、黒志摩の落ち着き具合を見るに、あっさり先を越された様子。
「はい。後輩は先輩より先に準備を整えておくモノ。その程度の常識は弁えています」
別にそんなゴリッゴリの体育会系なノリを強要した覚えは無いが……黒志摩がそれを常識とするのなら野暮な事は言わない。
「あと、昨日用意する様にと言われたモノも」
黒志摩が鞄から取り出したのは、小型の黒いノートPC。
「黒志摩ちゃんはPCにしたんだ」
Cレポ…魔物との戦闘記録は、電子端末でデータを作成し、それをエスケーの運用する専用ネットワークにアップする形で総務宛に提出する事になっている。
個人のPCやスマホでフォーマットをダウンロードして作成するも良し。総務で備品のノートPCやタブレット端末を借りて作成するも良し。
まぁ、貸出返却作業がちょっとした手間なので、大抵の捜査官は自前の端末で作業を行うが。
ちなみに黒斑はスマホ派だ。
「スマホでの文字入力より、こちらの方が個人的にしっくりするので」
「んじゃ、とりあえずレポートのファーマットをダウンロードする所から始めようか」
「承知しました」
「署内Wi-FiのキーパスはMAMONO37564ね」
「……魔物三七五六四ですか……」
「シンプルでわかりやすいでしょ?」
聖務捜査官としての業務を教えつつ、黒斑は頭の隅で別の思考を走らせる。
それは、黒志摩との親睦を深めるためのコミュニケーション。
親しみ難い先輩は、悪い所が目立って見えてしまう。
昨夜テレビに出演していた黒志摩と同年代くらいの女の子の弁だ。
その弁を参考に「黒志摩ちゃんが俺に対して酷評ばかり抱き口にするのは、親しみ難さを感じているからでは無いか」と黒斑は推測した。
結構自分は親しみ易い方だと自負していたのだが…所詮は自己評価。
黒志摩がそう思っているのなら、それをどうにかすべきだろう。
具体的な術だが……それも昨夜の番組内で言っていた。
趣味嗜好を探り、掘り下げられる話題を掘り下げる。
「ダウンロード及び解凍作業、完了しました」
「じゃあ、早速ファイルを開いてみて。『C・R』ってアプリケーションがあるから、それを起動」
「出ました。……わかりやすいフォーマットですね」
Cレポのフォーマットは実にシンプル。青地の枠内に大小様々な白い入力欄が上から並んでるだけ。
入力欄の傍には「日付」とか「使用聖具」とか「戦闘詳細」とか逐一指示も書かれているので初見でもわかりやすい。
「昔はもっとややこしかったらしいけどね。あ、一応、この上の方のツールバーのヘルプの中に『見本表示』ってのもあるから、参考にしてみると良いよ」
「はい。助言、ありがとうございます」
「……でさ、ちょっと話変わるけど……」
さぁ、一歩踏み出してみよう。
「黒志摩ちゃんって、黒が好きなの?」
「……? いきなり何ですか、不気味な」
「不気ッ……」
まぁ、いきなり好みの話を切り出すのは不自然ではあるけど。そこは黒斑にも算段がある。
「い、いやさ、ほら、黒志摩ちゃんのコーデって昨日も真っ黒だったじゃん? ちょっと気になって……」
二日連続で全身黒ずくめで出勤してきた後輩に対し、ちょっとした間に「黒好きなの?」と聞くのは決して不自然な行動では無いはずだ。
「……好みと言えば好みですが。それが何か」
「気が合いそうだなーと思って。俺も黒好きだからさ。ほら、真っ黒っしょ?」
「……で?」
「……で? と言いますと……?」
「私と黒斑聖務巡査長は黒色が好き。はい。そうですね。その点に関して気が合うと言えば、その通りなのでしょう。事実なので仕方ありませんね。……で、それが何か?」
「………………………………」
えぇと……
「……いや、うん、それだけ、だけ、ど……」
「そうですか」
……「それが何か」からの「……で?」は無いだろう。
それ、言葉で殴り合う時にやる奴だ。会話する気ない人のそれだ。
「……黒志摩ちゃん。好みと言えばさ、何か好きな食べ物の系統とかある? 俺は塩味が効いてる系が好みなんだけど……」
やや苦しい感はあるが、無理やり関連付けて好みの話を続行する。
「……強いて言うなら、私も塩味が強いモノを好む傾向があります」
「お、これまた奇遇!」
「で、それが何か?」
「でぅっ…い、いや、すごくない? 色と食の好みが似てるってすごく親近感を……」
「黒が好きで塩の風味も好き…多くの人間が該当する話だと思います。特別な親しみ易さを感じる要素ではありません」
バッサリと切り捨てられた気がした。
……ダメだ。何を聞いても、同じ展開に収束しそうな予感しかしない。
「…………………………黒志摩ちゃん。一通り書けたら、一回見せてね」
「承知しました」
歩み寄るどころか、更に距離が離れた感さえある。
何が簡単だ。何が肩透かしでズッコケるだ。タレントの好き嫌いは今まで特に無かった黒斑だが、あのホラ吹き優男だけは絶対に許さない。
「……………………はぁ…………」
仕方無い、俺もCレポ作ろう。
黒斑はそう溜息一つで切り替えて、スマホを取り出した。
「……何ですか、その不満気な溜息は。見苦しい」
「見苦ッ……」
黒志摩は些細な事も見逃してはくれない。
「私に不満があるのでしたら、正面切って言っていただいて結構ですよ。ただ、度が過ぎた場合、パワハラとして適切な場を設けて処理させていただきますが」
「いやいやいや、決してそう言う意図の溜息じゃないよ! 俺が、黒志摩ちゃんに不満なんてある訳ないじゃないか!」
「…………………………」
「……………………ご、ごめんなさい。今嘘吐きました」
「察するに、私が全く会話にノらない事が不服なんですね?」
「う、うん……」
「私の様な口下手でクソ生意気な小娘と会話して、自分が優れた人間であると優越感に浸りたい、と」
「違うよ!? それは全力で否定するよ!? 俺はただ並みの先輩後輩の関係になりたいって言うか、少しでも親しくなりたいだけだからね!? で、実は昨日、テレビで『親しくなるには趣味嗜好の話をするのが一番良い』って……」
「……そのお歳で、マスメディアの言ってる事を真に受けて、意気揚々と実行しようとした、と」
「うぐふっ……」
年齢への言及と浅はかさへの指摘が同時に飛んできた。本当に容赦が無い。
これは言葉のキャッチボールなんかじゃない。言葉と言う石を投げつけて仕留めに来てる。さながら言葉の投石兵だ。
「……まぁ、親しくなりたい、と言われて、その意気を無下にあしらう程、私は弄れてはいません」
「……え?」
「趣味嗜好の話、でしたね」
「あ、ああ。うん!」
「私は、賑やかな音楽が嫌いです」
「おう、? へ、え? ぁ? お、うん?」
「なので、昨日の移動中は正直、辟易としていました」
黒斑達は討魔業務に出る際、黒斑の私用車である黒い軽自動車を移動手段として使っている。
車内では黒斑が「あ、これ良いかも知れんね」と思った楽曲が常にループで再生されている訳だが、その選曲はアップテンポな洋楽がメインだ。
それに対する苦言らしい。
「ぇ、ああと……」
「強いて要望を出す事が許されるなら、静かなクラシック系、もしくは無音での移動をお願いしたいです」
「……うん。わ、わかった」
「あと、クラシックを流すならショパンのワルツを所望します。特に第一三番が私の好みです。派手さは無く、叙情的な旋律が緩やかに鼓膜を撫ぜてくれるので非常に落ち着ける曲です」
「お、おお。そ、そうか……ショ、ショパンね。ショパン。うん、クラシックと言えばその人だな。うん」
「……………………」
「……………………」
「……満足ですか?」
「……う、うん。まぁ……あ、ありがとう」
「どういたしまして」
まさか嫌いなモノから話が切り出された挙句、苦情を経由して来たのはかなり予想外だった。
そしてクラシックなんて欠片も知識が無いので今度は黒斑が話に乗れなかったと言う。
「…………………………」
「…………………………」
そこから、紅瓦達が出勤してくるまで、オフィスには黒志摩が静かにキーボートを叩く音だけが響いていた。
◆黒志摩ちゃんは第一三番に感情移入してる◆
「でも、何か黒志摩ちゃんがクラシックに詳しいってのはちょっと意外だったと言うか、イメージ無かったかなー」
「勝手に解釈しないでください。私はクラシック音楽への造詣はそう深くありません」(ショパンのワルツ以外まともに聞いた事無いですし)
「え? でも……」
「私は一度もクラシックに詳しいとは言っていません。ただ、黒斑聖務巡査長の趣味の悪い洋楽よりは好みである、と言うだけの話です」(ショパンのワルツ一三番は、ショパンが愛しい人へ向けて贈るために作った楽曲だと言う説があると聞いて……それを踏まえて聞いてたら、こう親近感的なモノで好きになったと言いますか……)
「く、黒志摩ちゃん……」
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