醤油とシーサーとモハメドの鋭いパンチ。

須方三城

01,初対面のお隣さんに醤油を要求された日。



 静かな朝だ。
 どこか果てしなく遠くで鳴り響く救急車のサイレンと、それに反応して遠吠えをあげる犬やシーサーの声が聞こえるほどの静寂。


 実に素晴らしい。静寂は大好きだ。
 望まない雑音は有害情報でしかない。
 必要性も娯楽性も無い情報を脳に入れるのは非効率的だ。意味も価値も無い。


 静寂とは洗練された世界。実にグレイトフル。


 だがしかし。
 こんなにも素晴らしい朝だのに、俺の気分は非常に重く、とても沈んでいる。
 度合いをわかりやすく例えるならば、力士に抱きしめられる形でコンクリ固めにされてマリアナ海溝にでも投げ込まれた気分だ。


 何故そんなハードメランコリックな気分になっているのか。
 正味、それほど特別な理由ではないと思う。
 こんなものは、誰でも陥り得る状況だ。


 事の発端は、【就職を機会に実家を離れ、職場の近くの物件にて独り暮らしを始める事になった】と言う所から。


 大して特殊でも何でもない、至ってありふれた人生の流れの一部だろう。


 問題があるとすれば、俺には独り暮らしに必要な家事炊事スキルが全く無い事。
 それと、【ご近所付き合い】なるものに対して「面倒くささよ、至上の極みなるぞ」と言う感想しか抱けない【社会不適合性】を人生観の根幹に抱えてしまっている事。


 まぁ、前者はどうとでもなる。
 俺はやればできる子であるし、これに関してはやってもできないなら、最近流行りの格安ハウスキーパーでも頼めば良い。
 痒い所に良い感じに手が届く……孫の手も真っ青な現代社会のサービス氾濫ぶりには天晴れの一言しかない。いいぞもっとやればいい。俺が許可しよう。


 ……どうしようもない問題は、後者。


 姓は【人好ひとよし】、名は【友助ゆうすけ】。
 そんなコミュ力の塊の様な個体名称を両親より授けられた俺である訳だが……名は体など表さない。断言してやる。


 俺はご近所付き合い……いや、それ以前、そもそも人付き合いと言う奴が嫌いだ。ただの嫌いじゃあない。大嫌いだ。


 理由は至極単純。面倒くさいからだ。
 自慢にはならないが、俺は人間関係のもつれで、今まで散々面倒な目に遭ってきた。


 何も俺だけが特殊なケースと言う訳ではないだろう。
 新聞を開けば、毎日何かしら人と人の醜いあれこれが記事になっている。報道番組を見ていても、取り上げるニュースの大半が、人の悪意が誰かを不幸にした悲劇を端的に伝えるものばかりだ。


 世の大概の人々が、人付き合いで少なからず煩わしい思いをしているはずだ。


 個人的な感想だが、人付き合いは例えるなら【火】の様なモノだと思う。
 上手く使いこなす事ができれば非常に便利、扱いを誤れば…………細心の注意が必要だ。


 ……可能ならば下手なリスクは背負わない様、誰とも接点を持たずに独りウキウキと生きていきたい所だが……非常に残念な事に、俺は全能の神様でなければ、児童向け単純冒険活劇の主人公の様に万事を都合よく解決できる補正も無い。
 そんな俺が現代人らしい健康的かつ文化的でまともな生活を望むならば、人付き合いは避けられないし、適当ないがしろにはできない訳だ。


 ……ああ、面倒くさい。


 こんな俺に取って、隣人への引っ越しの挨拶なんて行為は苦行でしかない。


 これから隣人となる人物が住んでいる二〇二号室。その黒いドアプレートに写り込んだ俺の目は、完全に死んでいる。
 我ながら酷い目だ。鮮度など皆無。まるでドブ水で溺れ死んだ魚の様だ。見る目のある板前に捕まったら最後、至極ファッキンと罵られた後、真っ直ぐゴミ箱へ廃棄されてしまうだろう。魚に生まれなくて良かった。


「……ぁあー……不味いなこれは……どうしようもなく面倒くさいぞ……」


 ……今日から俺が暮らすこのボロとも上等とも言えぬ半端なアパート……
 幸いにも二階の端っこ二〇一号室に入れたので、ご近所付き合いの最低ラインは一階に住む大家さんとこの二〇二号室の住人だけで良い。


 のだが、もうそれだけでもすこぶる面倒くさい。
 すこぶるだぞ。すこぶるなんて副詞、そうそう使う機会は無い。それを使うくらい面倒くさいんだこの気持ち。伝われ。


 しかし……これは避けては通れない、通る訳にはいかない試練だ。


 独り暮らしとは当然、実家とは違い独りで暮らす事になるのだから、ご近所付き合いは万が一の時の生命線とも言える。


 もし俺が謎の病で倒れ、自力で助けを求めるのが難しい状態に陥ったとしよう。
 その際、大家や隣人と良好な付き合いがあり、毎朝挨拶を交わす様な関係であれば「あれ? 今日は彼見てないな、大丈夫かな?」と心配してもらえる。その心配から、部屋の中で倒れている所を発見してもらえるかも知れない。そうすると、生命が助かるかも知れない。
 逆に言えば、もしご近所付き合いが皆無であった場合、そのまま死ぬ可能性が高い。辛いぞそれは。痛恨である。


 少々心配性が過ぎるのではないか、とも思うが、何があるかわからんのが人生だ。
 ある日、兄が姉になって帰ってきたり、何も無い所で転ぶ事だってある。


 想定外予想外が溢れる昨今。


 多少の面倒は仕方無いと割り切ってでも、想定予想が可能な【備えられるリスク】には備えるべきであると俺は考える。
 面倒は嫌い極まる所存ではあるが、面倒くさいからと全てをないがしろにして早死する阿呆に成り下がるつもりは無い。


 だから柄にもなく、少し高価な蕎麦を丁寧にラッピングしたものなんぞを抱えて隣室の扉の前に立っているのだ。


 さて、と言う訳で、どうしたものか。


 とりあえず、最初の一言は「隣に越して来た人好ひとよしです、これからよろしくお願いします」とかで良いだろうか。
 まぁ、導入で自身が何者かを明かすのは基本だろう。「誰だこいつ」と思われたままでは話をまともに頭に入れてもらえまいよ。


 そして当然、その自己紹介だけで蕎麦を渡してスタスタ帰る訳にはいかない。
 そんな事をしたら「無愛想な奴だ」と少し負の印象を抱かれかねない。それは悪感情に繋がる。
 関係を持つ以上、初接触は最低でもフラットな心証を抱いていてもらいたい所だが……何を話す?


・今日は良い天気ですね。


 だから何だ。見ればわかるだろう。鬱陶しいくらいの快晴なんだから。むしろもう少しくらい曇れ。
 む……そうだ、この静寂に雨の音はよく栄えそうだな。セラピー効果を高く望めそうだ。気分の沈んだ俺には最適だろう。是非とも降るがいい……と脱線してしまった。


 とにかく、【見ればわかる事を必要性に迫られた訳でも無くわざわざ言及する】……「面倒な奴だ」と忌避される可能性がある。俺だったらそうする。


・ここは住みやすそうな場所ですね。


 個人の感性に起因する話題は危険だ。
 大体、心にも思っていないぞそんな事。
 一番近いコンビニが徒歩所要時間二〇分、最寄り駅は二五分。不動産表示に関する公正競争規約施行規則における基準で距離に直すと、コンビニまで一キロと六〇〇メートル、駅までは二キロ。これは女子中学生が体育の授業の持久走科目で走る距離に近い数字だ。何故そんな事を覚えているか? 中学生時代に「女子はグラウンドで一五〇〇メートル走、男子は校外五周(アバウト換算五キロ弱)な」と言われ、心底女子に生まれたかったと思いながら炎天下の持久走に臨んだ汗臭い青春の思い出があるからだ。
 ちなみに、俺は本が好きなので最寄りの書店についても調べたが、徒歩所要時間三〇分。
 バカが。ふざけるな。衝動的に足を運ぶのは躊躇われる距離ではないか。控えめに言ってもファッキン至極。
 他に良好な物件があれば誰がこんなクソ立地……と、また脱線してしまった。


 とにかく、相手がそう思っていない場合「こいつとは感性が合わん」と壁を作られる危険性がある。俺だったらそうする。


・何かご趣味はありますか?


 いきなりどうした、気安いぞ。
 そうだな、強いて言えばお前の様な距離感の狂ったバカに殴る蹴るの暴行を加える事だ。
 二度と俺に近付けない体にしてやる。俺はそうすると言ったらそうするぞ。


 …………えぇい。
 世の連中はどうやってご近所付き合いしてるんだ。
 ハウツー本とか出せバカ。付かず離れず面倒くさくない適度な付き合いできる話術Q&Aとか特集しろ。仕方無いから買ってやる。そして熟読してやる。一言一句を完全に記憶して無感情にその会話パターンを繰り返すご近所付き合いエキスパートマッシーンになってやる。


 しかし残念ながら、その手のハウツー本はお目にかかった事が無い。
 出版されていたとしても、今から買いに行くのは面倒くさい。


 ……仕方無い。為すがままよ。
 きっと大丈夫だ。俺はやればできる子なのだから。


 色々考えるのが半ば面倒くさくなったので、放棄に近い形で意を決し、インターホンの呼び出しボタンをプッシュ。


 少しして、ドアの向こうからゴソゴソと物音。カチャンと錠が回る音が聞こえると、ノブがゆっくりと下がり、ドアが開き始めた。


「……!」


 出て来た人物の顔を見て、少し意表を突かれた様な気分になった。


 いや、まぁ、ここはコンセプトのあるアパートではない。どんな人物が出てこようと、それは決しておかしな事ではない。
 それでも、予想していなかった顔が出て来た。


 ここは二一世紀の日本の変哲もない典型的なアパートだぞ。
 その一室から銀髪&紅瞳&褐色なんて二次元的フィクションでしか見た事無い様な特徴を引っさげたお嬢さんが出てくるなんて、誰が予想できる?


 しかしまぁ……見事なものだ。
 根元から毛先まできっちり銀雪を固めた様な白銀のショートボブヘアに、ルビーをまんま嵌め込んだ様な紅い瞳。健康的な日焼けがそのまま染み付いた様な小麦色の肌。
 そして何より、部屋着らしい簡素な無地Tシャツの御胸周りの御肉様がとてもボリューミーだ。


 ……すごいな。いや、本当にすごいぞ。なんなら感嘆符を付けても良い。すごいぞォォォーッ!! ……これくらいは感情表現を露わにしても良い程度にはすごい。
 巨乳を売りにしているグラビアアイドルでも中々いない、そのサイズは……俺のイチオシであるJカップグラビアアイドルの泊丹生ばくにう夢峰むねのそれより大きく見える。


 顔立ちや豊満ボディから推測する感じ……俺と同年代くらいだろうか。
 少なくとも成人はしていそうだが……いや、待て。改めて顔を見てみると、くりっくりのお目目やナチュラルな色味なぷりっぷりの唇などから、あどけなさを感じる事もできる。
 目算、ティーンエイジャーであってもおかしくはないな。


「……………………ふむ……」


 にしても、胸の御肉がすごいな……身長は俺より一回りくらい小柄なくせに、俺が二人並んでどうにか勝負になるかもと言う次元の胸厚っぷりだ。
 俺が今までに見た事ある女性達と果たして本当に同じ生き物なのだろうか。にわかには信じ難い……そして素晴らしい。国をあげて保護しても良いのではないか、これは。


「…………あの、どちら様、デスか?」
「あッ……いや、申し訳ない」


 人付き合いは嫌いだが、おっぱいは大好きだ。つい見蕩れてしまった。
 いや、おっぱいの前に髪とか瞳とか肌にもっと注目すべきなんだろうが、もうダメだおっぱいしか見えない。腐っても男なのだよ、俺も。


 だがしかし、いくら興味があると言えどこのまま無言で凝視していたら青い制服のアンチキショウを呼ばれかねない。もうヤンチャ坊主を気取って良い歳ではないのだ、連中のお世話になるのは御免被る。
 速やかに自己紹介と目的を果たそう。


「隣の二〇一号室に越して来ました、人好です。今日は引っ越しの挨拶に伺わせていただきました」
「……………………」


 何だ。俺の顔に何か文句でもあるのか、そんなに凝視して。視線に質量があったら俺の顔面に穴が空きそうなくらい見てくるぞこいつ。
 一応、この微笑が俺の全開スマイルだ。どんなクレームを入れられ様と、俺の口角はここまでしか上がらない。


 笑顔が素敵な男に会いたいのなら、小学校か幼稚園にでも行け。スれた大人では直視するのが難しいくらいに笑顔が弾けてるクソガキ共がたくさんいるぞ。


 …………おい? いつまで凝視する気だ? 鬱陶しいレベルだぞ。
 どれだけ文句があると言うのだ、俺の微笑に。


「……今後よろしくお願いします」


 ……仕方無いので、死力を振り絞ってもう少しだけ口角を上げる。
 神対応だぞこれは。俺のサービス精神に感謝すれば良い。これでも文句があるのなら、もうダメだ。需要過剰だ。供給者の都合を考えぬその身勝手、外道のそれ。


「……はい、よろしくデス」


 ふむ、どうやら納得してくれた様だ。軽く会釈を返してくれた。お利口さんめ。


「あと、これを。つまらない物ですが」
「……! これが噂の【ツマラナイモノ】……日本のコッコロー……」


 やはり、見た目通り外人さんか。引っ越し蕎麦と言う文化概念を微妙に理解し切れてない感じがする。
 ツマラナイモノ=日本人が【ワビサビのコッコロー】と言う独特の判断基準で用意する特殊なプレゼント……またはブシドーサムライがたまに斬り捨てる未知の物質【ツマラヌモノ】の異名同位体とか認識してそうなリアクションだ。


 引っ越し蕎麦の概念を正しく知っているなら、そんなキラキラワクワクした目で「ほへー」とアホみたいな感嘆を零しながら蕎麦が包まれた箱を眺めたりしないだろう。


「えー……それで、あの、そちらのお名前をお聞きしても?」
「あッ…失礼してましタ。私の名前、御戸成みとなりトゥギャリヤマ望恋子もここと申しマスそうろう」


 ぺこり、と丁寧なおじき。
 やはり外人にも旋毛つむじはあるのだな。


 にしても、日系のハーフかクォーターと言う事だろうか。名前のパワーがすごい。脳の人名記憶を生業とする分野をぶん殴られた気分だ。
 多分、墓に入るまでこの人の名前は忘れない気がする。


「御戸成さんですね。では、繰り返しになりますが、今後ともよろしくお願いします」


 とにかく、おっぱいやら名前やらに引っ張られて俺の思考はてんやわんやだ。
 そろそろ動揺が表情や声にも出てしまいそうである。会話どころじゃあないぞ、こいつ。
 ただの隣人への挨拶ですら想像するだけで億劫だったのに、こんな想定外アクシデント、面倒とか言う次元ではない。


 一旦、ここは一旦退いて思考を整理したい。後日また最低限の関係構築のための会話の機会を設けたい。


 なのでここらで挨拶をしめて、部屋に撤退しよう。


「あの……お隣さんな訳デスし、そんな堅い呼び方でなく、ギャモ子で良いデスよ?」


 アダ名として名前をトリミングするにしても、もうちょっと切り方と言うものがあるだろうよ。
 ハサミを入れる角度がキテレツ過ぎるぞ。
 誰に付けられたんだそのアダ名。多分お前それいじめられてるぞ。


「それと、ヒトヨシさんの下の名前も聞きたいデス」
「……人好友助ですが」
「ユースケ……スケ……スケベーさんって呼んでも良いデスか!?」


 多分、聞いた事のある日本語でパッと思い付いたからそれにしたのだろうが、そろそろ冗談ではないぞこのギャモ野郎。
 その「私、名案思い付きましたヨ!」と言わんばかりの笑顔やめろ。
 ぷにっぷにしてそうなその頬肉ひき千切って踏みにじり倒すぞ。


「……できれば苗字で呼んでいただけると有り難いですね。名前で呼ばれるの、苦手なんです」


 いくら巨乳好きと言っても、芸能人や二次元キャラに限る。身近な巨乳と親しくするつもりはない。
 何故か? リアル知人と親しくすると距離が近くて面倒だからだ。


 俺は、性欲より面倒くささの方が勝つ人種なのだ。
 画面の向こうの巨乳ちゃんはその点、最高だ。こちらがどんな表情や態度を見せた所で気にはしないのだから。気を使わなくて良い。存分に乳だけ堪能できる。セクシービデオは宇宙に誇れる地球人類のエッチな英知だ。


 ……あと、そろそろ退かせてくれ。
 頬周りの表情筋がプルプルし始めた。痙攣やばみとはまさにこれ。微笑みの臨界点が近い。普段あまり笑わない上に、動揺に次ぐ動揺で精神力削られているんだこっちは。
 踏ん張らないと、他人に見せたら一瞬で悪感情を植え付けそうな表情が出てきそうだ。


「むぅ……!? 不思議な苦手さんがあるのデスね……じゃあ、ヨッシーさんで」


 このギャモ野郎、どうあってもアダ名で呼ぶつもりか。
 愉快な外国人め……すぐに誰とでも友達になろうとする。お前達の悪い所だぞそこは。


 ………………まぁ、アレだ。もう良い。
 ここで粘っても心証が悪くなるだけだろう。
 何より、もう抵抗するのが面倒くさい。


「あははは、それは良いですね。愉快の極みに至りけり。では……」
「あ、ヨッシーさん!」


 ギャモォ……!! まだ何かあるのか……!? バカなバカがふざけるな……!!
 ヨッシーを良っしーとしたんだからもうそれで満足するのだよ……そろそろこめかみの辺りに青筋出ちゃうぞヨッシーさん。
 なぁ? 人は何事も限界を越えると思いも寄らぬ事になるんだぞ?
 思いも寄らぬヨッシーさんをそんなに見たいのか?


「お醤油、貸してくだサイ!」
「…………………………、……は?」


 …………ニッコニコと笑顔全開で何を言っているんだ、このギャモ野郎。


「? お醤油デス。オサシミやオスシに付ける黒いのデス。ミソのウワズミ!」


 いや、醤油の概念は知っている。日本生まれ日本育ち舐めるな。


「……は、はぁ……醤油、ですか?」
「はい、お醤油っス!!」


 引っ越しの挨拶で愉快な外国人に蕎麦を渡したら、更に醤油を貸せと要求された。




 ………………はぁ?



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