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僕のお姉ちゃん

須方三城

02,はじめまして、お姉ちゃん



 …………何と、言えば良いのでしょう。


 恐い、と言う程ではありませんが、こう、心穏やかでは決していられないこの感覚……。


 ――記録を参照――


 ああ、そうですね。
 この感覚を形容する適切な言葉は――「不気味」、ですね。


「あの、万笑喜まえむき笑子しょうこさん」
「ッ」


 ……あの、ビクゥッとされてソファーの陰に隠れられましても。
 借りてきた猫か何かですか。


 購入者――万笑喜氏の宅に到着し、引き渡し作業が完了してかれこれ二時間程……この調子です。


 万笑喜氏は一定距離を保ったまま、その名前負け甚だしい無愛想な顔を蒼白に染め、じっとこちらを眺めるばかり。
 あの表情から推測するに、怯えられている様です。


 ……何故。


「すみません。そろそろ、今後生活を共にする上での指針確認――要は、お互いがお互いに求める条件の擦り合せを行いたいのですが……」
「……ぃ……」
「?」
「……恐いんだが?」


 恐いんだが? と言われましても。
 貴方の顔の方が恐いでしょうに。


「……購入動機に、『血の繋がっていない弟が欲しい』と記載されていましたが……詳細はともかく、望んで購入されたのは間違い無いのでしょう? ならば何故、恐がるのです?」
「い……ぃざ実物を前にすると、どう、して良いか……わきゃ、わか、らんのだが?」


 ……どうやら、動揺と混乱により発生した言い様の無い漠然とした不安に対し、恐怖を覚えている様ですね。
 簡素端的に言うと「パニック状態」と言う奴です。


 幸いにも状態は軽度。
 こちらの質問に対して、呂律は多少怪しくとも回答を用意する事が可能な状態。


 であれば――記録を参照――


「呼吸をする際、貴方は鼻から息を吸っていますか? それとも口から息を吸っていますか?」
「ぇ?」
「確認し、回答をお願いします」
「は、鼻からだけど……」
「吐く時は鼻からですか? 口からですか? 確認し、回答をお願いします」
「……鼻……」
「そうですか。ありきたりな鼻呼吸ですね。では、私が今から三秒数えますので、鼻から息を吸ってみてください」
「???」
「一、二、三……では、それをゆっくり、できれば口から、吐いていただけますか」
「………………」


 人類は、精神状態と挙動速度が連動するそうです。


 錯乱状態に陥る――つまり精神状態が安定していないと、人類はあらゆる行動を焦ります。
 これは、精神的不安定=死の可能性と捉える人類の性質に基づく反射であり、生存本能が一刻も早い現状打破を促すためであると言われています。


 人類は良くも悪くも「行動しなければどうにも変わらない」と言う事を遺伝子単位で知っているのでしょう。
 故に、混乱すると思考を置いてでも現状打破のために行動を優先させて停滞を避ける。
 結果、ジタバタと非論理的にもがくパニック状態が完成する、と。


 逆に、精神状態が安定していると、あらゆる行動が自身に適切なペースから緩慢なものになります。
 当然ですね。常に安定した思考を以て行動を起こせる訳ですから。自身に合った活動を計算して行える。


 軽度のパニック状態であれば、この性質を踏まえた上で条件反射を利用し解消するのが効率的だと記録にあります。


 要するに「意識的に計算させて緩慢な挙動を取らせる事で、精神状態が安定している時の感覚を体に思い出させる」と言う対処法です。


「一〇と言う数字に五を足すと、いくつになるかはわかりますか?」
「……一五……」
「正解です。流石。お見事です」
「ぉ、おう……? へ、へへ……まぁな」
「落ち着きましたか?」
「……あ、おう」


 それは何よりで。




   ◆




「とりあえず、アタシの事は『お姉ちゃん』と呼んで欲しい」


 指針確認、生活を共にする上でのお互いの要望の擦り合せを始めた途端、最初に出た要望がこれです。


「……理由をお訊きしても?」
「そりゃあお前、幼気な少年に『お姉ちゃん』って呼ばれたいのは当然だろ?」


 ――記録を参照――


 ……ああ、確かに。
 それなりに歳を重ねた女性が「おばさん」と呼ばれる事で発生する精神的ダメージを防ぐため、「お姉さん」など「若い女性を彷彿とさせる呼称」で呼ぶ事を強要する文化があるそうですね。
 万笑喜氏の年齢は二六歳――二六年前出生の人類の平均年齢は一三四歳ですから、まだ生涯の五分の一程度しか経過していない計算ですが……もう気にする年齢なのですか?


 まぁ、この辺りは感性の問題ですか。
 しかし、言われずとも「おばさん」などと呼ぶつもりはありませんでしたが……。


「承知しました。では、今後はその様に呼ばせていただきますね、お姉ちゃん」
「んんッ」


 どうしました?


「……お姉ちゃん?」
「一旦ストップ。……鼓膜が妊娠しちまう……」


 何やらとんでもない事を口走りませんでした? 今。


「……精神に著しい異常をきたす様であれば、やはり『万笑喜氏』か『ご主人様』あたりの方が良いのでは……」
「ぃや、うん、うん……大丈夫。引き続きお姉ちゃん続行で、何卒」


 綺麗にプリン頭の天辺を見せて頼み込んできた。
 何やら感極まっている様にぷるぷる震えていますが……本当に大丈夫ですか、この人。


 可能な限り、二人称単数形で呼びかける必要のある言い回しは避けた方が良いやも……いえ、しかし、それだと万笑喜氏の要望をないがしろにする事に……そうですね、控えめに、呼ぶ様にしましょう。


「では……他に、私に対する要望はございますか?」
「そうだな……その畏まった喋り方、どうにかならないか? 確かに義理の弟って最初は多少距離があるものだろうけど、お前のその冷静な声のトーンで敬語は少し遠すぎる様に感じる。一人称も『僕』とかそれっぽく……」


 ああ、これは新たに記録を参照するまでもなく、理解できる要求ですね。


 家族として、親近感が欲しい。
 即ち、もう少し砕けたコミュニケーションを欲している、と。
 愛玩用のホムンクルスを欲する方としては、至極真っ当な要望です。


 ……では、こほん。
 少年らしいテンションと笑顔を作りまして、


「うん、わかった!! 僕、これからこんな感じでいくね!!」


 ぅおう、びっくりした。
 いきなり真顔で頭を引っ掴まれたので首でももぎ取られるのかと。
 多少力が強い気がしますが、これは頭を撫でてくれている様です。
 目上の者が目下の者の頭を撫でる、と言う行為は親愛の現れであると記録にありますし、お気に召していただけた様で。


「完璧だ。完璧だよ。もうこれだけで充分だよ。ありがとう。本当にありがとう……!! こんな素敵生命体が我が家にいるだなんて本当にもう……!!」


 何の感涙なんです?


「……って、あ、すごく大事な事を忘れてた。名前、まだ付けてなかった」


 ああ、そう言えば、まだ命名してもらっていませんでしたね。
 最初はパニック、落ち着いてすぐに私が要望の聞き取りに入ってしまいましたから、今更になってしまったのも無理はありません。
 正味、私側としては余り拘りのある話ではないので、私の方もすっかり忘れていました。


「で、どんな名前が良い?」


 この件に関して特別して要望する事は無いので、お好きな様に……と言う言い回しは、私に家族的親近感を求めているこの人に対する返答としては、不適切ですね。
 少し変えて……それっぽく。


「お姉ちゃんが付けてくれる名前なら、何でも嬉しいな!!」




 ――――私が生まれて初めて電話をかけた先は、呼吸困難に陥った万笑喜氏を助けるための119番でした。




   ◆




 姓は万笑喜まえむき
 名は幸助こうすけ


 万笑喜幸助。


 こちらが私の名前として決定しました。


 ネーミングの理由としては万笑喜氏いわく「アタシの幸福を助長する奇跡の産物」「これからの生涯、何かあっても、たくさんの幸運に助けられる幸せ者になって欲しい」、以上二点、だそうで。


「気に入ってもらえたのなら、アタシも頭を捻った甲斐があるよ。幸助」


 退院の支度を済ませながら、万笑喜氏が上機嫌そうに笑っていますね。


 ええ、まぁ、彼女の言う通り。
 今、私の胸中には「愛着」と呼ぶべき感情が湧いています。


 ……最初は「名前など、個体識別の簡易化以上の意味合いは無い。どうでも良い。拘るものでも無い」、そんなないがしろに思っていたのですが……こうして与えられ、実際に呼ばれてみると、存外、悪くありません。


 特別感、とでも言うのでしょうか。
 今までのフラスコ生活の中で、私が私的に所有する物はこの肉体だけでしたから……成程、これが「プレゼントをいただく」と言う感覚ですか。初体験ですね。
 論理的な解釈は少々難しいものですが……これこそが、喜びや、嬉しい、そう言った感情であると。


 このメモ帳の切れ端で代用された命名紙、それなりに大事にさせていただきます。


「んじゃあ、帰ろうか。いきなりハードな場面に遭遇させて悪かった。もう大丈夫。ああ言う不意打ちがあると覚悟しておけば、ギリ耐えられっから」


 不意打ち? 何の話ですか?
 ……もしや、まだ何やら脳あたりに後遺症が残っているのでは……?


「お姉ちゃん、本当に大丈夫? 無理してない? もう少し休んだ方が……」
「んんッ……心配そうに上目使いで袖を引っ張る義理の弟ォ……!!」
「お姉ちゃん!?」


 万笑喜氏がまた胸を押さえて倒れてしまい、退院日が延びた。



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