♯影冤の人〜僕は過去で未来のキミと、二度出逢う〜
傀儡女編 おののく視線
空一面を覆っていた灰色雲に切れ目が入り、陽の光が射し込み始めるとしだいに冷たい雨は上がって行く。
何処かから、昼九つ(約午前十二時)を知らせる鐘の音が聞こえて来る頃、ヒロキは工房から提供された賄いを手に、コハルの待つ長屋へと急ぐ。
「コハル、工房から食べ物貰ってきたぞ。一緒に食べようぜ」
長屋の玄関から入ってすぐの土間に、ずぶ濡れのまましゃがみ込むコハルの姿がある。溢れんばかりにその目に涙を溜めた彼女の様子に異変を感じ、ヒロキは怪訝な表情になる。
「……コハル? どうしたんだ? 」
「……ヒロキ様……この子、死にそうなんです」
コハルの目の前には、息も絶え絶えの様子の子狐が横たわっている。ヒロキは雑穀の粥が入った器を座敷に置いてから、子狐の容態を見る。
「……これ、刀傷じゃないか? ひでぇことしやがる……」
「……助けてあげられませんか? 」
訴える様な眼差しを送るコハルの頭を撫でながら、ヒロキは安心させるように笑いかける。
「大丈夫。傷自体は浅いものばかりだから、弟切草で止血して休ませればきっと良くなるよ」
ヒロキの言葉にコハルは嬉しそうな表情になる。
「……良かったぁ」
「それはそうと、コハルはなんでずぶ濡れなんだ? 」
コハルは苦笑いしながら答える。
「食べるものが無いことに気づいて、川へ魚釣りに行っていたんです。雨が降っていると、よく釣れるってヒロキ様言っていたから……」
「子狐は、その時に拾ったのか……川へ水を飲みに来て力尽きたのかもな。
面倒かけたな、コハル」
その後、子狐の傷の手当てを終えた二人は、コハルの釣って来た魚を焼いて少し遅めの昼食をとる。
それから数週間が過ぎる。
子狐はすっかり回復し、コハルの周りを元気に走り回っている。
「おいで、トウキチ。お仕事だよ」
子狐はコハルによってトウキチと名付けられ、一緒に暮らし始めていた。子狐なりに恩義を感じているのか、彼女に相当なついている様でどこへ行くのにもついて回っている。
「もう完全に回復したみたいだな。良かったな、トウキチ……」
そう言って頭を撫でようとしたヒロキの手を、トウキチは手加減なしに噛みつく。
「痛ってぇ。……この、何しやがる」
「トウキチ、ダメ。放しなさいっ」
コハルの言葉に、トウキチは素直に噛みついていたヒロキの手を放し、コハルにすり寄ってくる。
「ダメじゃない、ヒロキ様はトウキチの傷の手当てをしてくれた、恩人なんだからね」
コハルは困った顔でトウキチに言葉をかけながら、手をさするヒロキのそばに近づいていく。
「大丈夫ですか? ヒロキ様。……血が出てる」
「……ったく、恩知らずな狐だな」
ヒロキは痛みに顔を歪めながら不満を漏らしていると、コハルは身につけていた小袖の端を引き裂き、包帯代わりにヒロキの手に巻き付けて行く。
「……悪いな、コハル」
「……いえ……ふふっ」
不意に笑みのこぼれたコハルに、ヒロキは不思議そうに尋ねる。
「……何? 」
「そう言えば、ヒロキ様と出会った時も、こんな事しましたね」
「……あぁ、あの餓鬼に襲われた時のことか……そういや、そんな事もあったな」
「あの時の私は、イケニエとして暗い山中に置き去りにされて……何もかもが怖くて仕方なかった……」
コハルは当時の気持ちを思い出しているのか、徐々に表情が暗くなって行く。
「……その……両親の元に戻りたいと、考えた事はあるのか? コハル」
ためらいがちに尋ねたヒロキの言葉に、コハルはうつむきながら首を横に降る。
「神様に捧げられたはずのイケニエが戻ってきたら、村の人たちは神様に見捨てられたと思ってしまいます。……それに、もう死んだものだと思って忘れられているに違いありません」
「……そんな事……」
コハルはおもむろに顔を上げると、ヒロキに笑いかける。
「……でも、全然寂しくはないんですよ。トウキチもいますし、何より……ヒロキ様がいます。今の私には、帰る場所があるんです」
「……コハル……」
その言葉を聞いたヒロキは、ゆっくりとコハルの頭を撫でながら胸に抱き寄せる。
「ヒ……ヒロキ様……なにを……」
突然の出来事にコハルは顔を赤くする。
「変な事に巻き込んじまって、ゴメンな……」
「謝らないで下さい……私は、本当に感謝しているんですから……」
 そう言うとコハルは眼をつぶる。
「この大きな手で頭を撫でられた時、どれほど嬉しかった事か……ヒロキ様に助けてもらって……良かっ……」
 それまで黙って眺めていたトウキチは焦れた様子を見せ、二人の間に無理矢理頭を突っ込む様にして割って入る。
「ちょっ……なんだ? 」
「きゃっ……くすぐったい。トウキチ、やめて……」
 突然の乱入に驚いた二人は、抱擁を解いてパッと離れる。
「……なんだ、トウキチか……」
「……もう……良いところだったのにぃ……」
 真っ赤な顔で恨めしそうなコハルの視線に気がついたのか、トウキチは二人に背を向けてサッサと歩き始める。
「まてっ、トウキチッ」 
 トウキチの元に駆け寄って行ったコハルは、やがてトウキチとじゃれ始める。その様子を優しい眼差しで眺めていたヒロキは、ふと顔を曇らせる。
「ミキの病気の手がかりを見つけられないまま一年、か……早いとこ、何とかしないとな……」
ヒロキは空を見上げると、何処か遠くを見つめるようにつぶやく。
季節は移り変わり、夏。
南天高く昇った太陽が容赦なく照りつけ、砂埃をあげる大地から更に水分を奪う。
「今日は、暑いのぅ……」
男性の衣装である直垂を身につけ、顔を布で隠した女性……イザヨイは、仕事道具である木彫りの人形を入れた木箱を背負いながら、二条大路を当てもなく歩いている。
「コモチからは今日の予定は何も無いと言われておるし……ヒロキ様の所にでも、行ってみるかのう……」
イザヨイは一人つぶやきながら、平安京東側にある小振りな羅城門をくぐり抜ける。
鴨川に掛かる橋を渡りきったイザヨイは、ふと足を止める。
「あれは……コモチか……? 」
イザヨイは北東の方角に一人で歩く、白い水干姿の人物を見かけて首をかしげる。
「向こうには山以外何も無いはず……何の用事じゃ? ……後をつけてみるか」
そう言ってイザヨイは、距離をとってコモチの後をつけて行く。
やがてコモチは、北の山々の裾野に広がる森の中へと入って行く。それを確認したイザヨイは、森の手前で立ち止まる。
「もし……このまま真っ直ぐ歩いたとして、行き着く先は……鬼堂ただ一つのみ」
イザヨイは強張った声でそうつぶやくと、額に流れる汗を拭う。
「古より徒党を組んで京の都を荒らし回り、数年前に退治されたという『酒呑童子』が根城にしていた場所……コモチ、何をやろうとしておるんじゃ……」
緊張した様子のイザヨイは、意を決した様に「よしっ」とつぶやくと、コモチの後を追って深い森へと踏み込んで行く。
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