♯影冤の人〜僕は過去で未来のキミと、二度出逢う〜
傀儡女編 刀傷の子狐
翌日。
未明から降り続ける雨は舗装などまだ無いこの時代の、乾ききった地面をぬかるみに変えている。
まだ夜も明けきらぬ早朝に目覚めたヒロキは、隣で気持ち良さそうに雑魚寝しているコハルをそのままに、あくびしながら長屋の玄関を出ようとしたところで立ち止まる。
「うわ……寒いし、泥だらけだな。かまどの火も簡単に着かないぞ、こりゃ……」
不満を漏らしながらも、ヒロキは敷地内の大きな建物へと雨の中を走る。
工房と呼ばれることの多いこの建屋は、一般民家に多く見られる竪穴式ではあるが天井は段違いに高く、金床を始めとする作業スペースは広くとられている。
「おはようございます……すいません、遅くなりました」
びしょ濡れで玄関をくぐり抜けた先に、腕組みをした三十代の男性の姿を見かけて、ヒロキは反射的に挨拶をする。
「……遅いぞ、ヒロキ。お前以外、弟子達は全員集まっているぞ」
立っていたのは昨夜、ヒロキに厳しい言葉を投げかけたヨシイエである。暗い室内では、直垂姿の数人の男達が忙しそうに駆け回っている。
「……すいません、すぐ火を起こします」
「……かまどの火は、既に着いている。お前は、他の兄弟弟子の邪魔にならないよう、部屋を片付けておけ」
ヨシイエはそれだけ言うとくるりと背を向け、工房の奥へと向かう。部屋の中央に鎮座する巨大なかまどの周りを数人の男性が取り囲み、火を起こす作業を眺め見たヒロキは小さなため息をつくと、身近なところから整理を始める。
ほどなくして、部屋の奥から一人の老人が現れる。
「皆の衆、おはようさん」
「おはようございますっ」
見た目は小柄な六十代だが、身体つきのしっかりした老人が声をかけると、部屋の中の空気が張り詰める。忙しそうに作業をしていたヒロキと弟子達も手を止めて挨拶をする。
「……皆んな、元気そうで何より……それでは神棚に祈りを捧げたら、今日も元気に仕事しようかね」
部屋の中を見渡しながら発した老人の言葉を皮切りに、鍛冶場は目が覚めた様に動き出す。
「……おや、ヒロキ。ゆうべも遅くまでご苦労さん。首尾はどうかね? 」
ひたすら仕事場の整理をしていたヒロキの元に、老人が声を掛けてくる。ヒロキは首を横に振りながら、申し訳なさそうに答える。
「お預かりした刀を使い続けて、もうすぐ一年……始めた頃は、かなりの数の妖魔を切ることが出来ましたけど……ここ最近は、さっぱりです」
「魑魅魍魎のみならず、人の放つ悪い気……邪気を断ち、その身に蓄えることの出来る金属『オモイカネ』……ワシ以外にこれを扱う事の出来る者が現れる事を、どれだけ待ち望んだことか……」
老人はヒロキの肩を叩きながら、優しげな表情を浮かべている。
「人心は乱れ、荒みきったこの平安の世に……稲荷大明神に祈って直ぐにお前さんが現れた事は、正しく神のお導きだと思ぅておる。
焦る事はない、地道に頑張ってくれよ」
そう語る老人とヒロキを、ヨシイエ始め数人の兄弟弟子達は、怨みがましい目付きで眺めている。
弟子の一人が、おもむろに口を開く。
「あんな顔の師匠、見たことがない……『オモイカネ』を扱える事は、そんなに大事なんですか? ヨシイエさん」
「……少なくとも、一条天皇より作刀を命じられた守り刀は、『オモイカネ』でなければいけないらしい……俺が扱う事が出来れば、あんな若僧にデカイ顔はさせないんだがな……」
ヨシイエはそう言うと、悔しそうに腕組みした手に力が入る。
「親父である師匠……三条宗近の後継者は、この俺以外に無い……今に見てろよ」
雨が降り続ける中、三条宗近の工房が夜明けと共に槌を打ち始めた頃、隣の長屋でゆっくり寝ていたコハルも眼を覚ます。
「……ハクション……うぅ寒い。『春眠暁を覚えず』とは、いかないですねぇ」
コハルはそう言うと震える身体を動かし、身体を温めながら土間に降りる。
「出来れば、かまどの火を点けっぱなしにしたいところですけど、都の方で何回も火事があったから怖いですねぇ……長屋全焼させたら、ヨシイエさんに何言われるか……あら? 」
食材を保管していた器を覗いたコハルは、中身が無い事に気付いて途方に暮れる。
「食料が無い……最近は忙しくて、川に魚獲りも行ってなかったからな……どうしよう」
タイミングよく、コハルのお腹がキュルキュルと鳴る。
「うぅ……ひもじい……昨日の妖魔を退治出来てれば、しばらく食べ物に困らなかったのにぃ……」
力が抜けた様にヘナヘナと土間に座り込むコハル。
しばらくの間、うつむいてため息をついていたが、隣から聞こえる槌の音に顔を上げる。
「……ヒロキ様だって何にも食べていないから、お腹空いているはずなのよね……お魚獲ってきたら、喜ぶかしら……」
コハルはしばらく考え込んだ後に、おもむろに立ち上がる。
「そう言えば、雨の日はお魚がよく釣れるってヒロキ様言ってた。
よぅし、動けるうちに行ってこよう。うんっ」
そう言うとコハルは釣竿と籠を準備して、西にある鴨川へと雨の中を歩きだす。
シトシトと、冷たい春の雨が降り続いている。
平安京の東側の塀にほど近い場所を南北に流れる鴨川。コハルは川に沿って南下し、魚の釣れそうなポイントを見つけると糸を垂らす。すると、次々と魚が針にかかり釣り上げられて行く。
「あっ、また掛かったぁ。面白いほど良く釣れるわ。籠に入るかしら? 」
コハルは雨に濡れるのも構わず釣り続け、小一時間程で籠いっぱいの魚を釣り上げる。
「大漁、大漁。そろそろ、帰りますか」
そう言ってコハルが、ふと周りを見渡してみると、川べりに赤い何かがある事に気がつく。
「……あれ何? 」
コハルが恐る恐るそれに近づいてみると、そこには血にまみれた一匹の子狐が横たわっている。
「……大変、まだ生きてるかしら……」
子狐はピクリとも動かないが、わずかに腹が上下していることから生きている事がわかる。コハルは優しく抱き上げると家路を急ぐ。
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