BLIZZARD!
第二章49『逆説』
「俺を、過去に送る……?」
翔の目の前に居る相棒にそっくりな存在、ニヒの口から出たその言葉に、翔は思わずその内容をオウム返しする。そうして問いかける翔の頭の中は、突然のその事態にもはや思考力を失いかけていた。だが、そんな自らの頭の働かない状況においても、翔はそのニヒの言葉がおかしいことには気付いていた。
「……嘘だ!」
その疑念を抱いた翔は、思わず目の前のニヒに向かってそう叫んでいた。その声にはあまりにデタラメなことを言い放ったニヒに対しての怒りが込められていた。
──俺を、過去に飛ばすだと? そんなこと、絶対にありえない。
翔がその言葉を信じることが出来なかったのは、ただその話が突飛なものであったからだけではなかった。翔はニヒにその力の存在を告げられるより前に、既に過去へ行く力のことについても考えを巡らせたことがあったのだった。しかし、だからこそ翔はその話が信じられなかった。何故ならば前述の通り、過去に行くなどという行為自体が『ありえない』ものであるからであった。
通常、時の流れというものは過去から今、今から未来へと流れている。その観点から考えるならば、翔の時間跳躍は言うなれば、その流れに乗ったまま自分と対象の物体の時の流れを遅くする、といった力であるといえる。つまりは翔の『時間跳躍』は時の流れに逆らったものでは断じてないのだ。それでもその力はあまりに非現実的に思えるが、実は翔が『時間跳躍』に目覚めるよりも前、人類は既に時の流れを遅くする方法を見つけ出していた。
──『相対性理論』。多分俺の『時間跳躍』も、この原理の応用なんだろう。
翔の指し示したその理論は至極単純に、そして大雑把に言えば『速く動いている物体は時の流れが遅くなる』というものであった。これは何も天文学的に巨大な速さの時にのみ起こり得るのではなく、意外にも普通の人々の生活にも見られる現象であった。
三十年前陸の交通手段として栄えた新幹線という乗り物においてさえも、極微小ながら時間の差は生まれる。仮に光速の半分ほどの速さで動きつづける物体が存在するならば、それに乗った人間は周囲と二倍近くの時間の差が産まれるそうだ。ならば極論、無限に近い早さで動き回る物体は、周囲と何千、何万、何億もの時間の差を生むこととなる。それこそ、自分にとっては一瞬の間に何年もの時間が経つように。
──それが一応、唯一凡人の考えられる『時間跳躍』の仕組みだ。最もそんな超速で動いた覚えは俺にはないし、やっぱり科学だけじゃ語れない『何か』があるんだろうけどな。
その翔の推論は、あまりに非現実的であったが、それでも論は立っていた。未来に行くという方法自体は、もう既に人類の科学は見つけ出していた。それがどれだけ非現実的な話であろうと、それこそ『ありえない』程現実でない話でも、それは科学という理論の上に立っている以上厳密には『可能』になる。しかしそれとは違い、過去に舞い戻ること、つまり『時間遡行』などという行為は、どうやっても『不可能』なのだ。
「……過去の世界に行く、なんてそもそもそんな理論がない。一応、世界中の全粒子が丁度過去の状態に配置される、なんていう天文学的『奇跡』が起きればそれも不可能じゃないが、そんなことを意図的に起こすなんてのはそれこそ理論的にも実証的にも『不可能』だ」
そうして翔が必死にその人類の科学の叡智を羅列するのを、ニヒは退屈そうに聞いていた。その目は翔に何かを語りかけているかのようだった。しかしその語るところを知る術もない翔は、また口を開いて何かの『理論』を話そうとする。その翔の様子を見て、ニヒは諦めたように言った。
「……分かりました。信じていただけないのならそれで結構ですよ。
ただ、これだけは言っておきます」
と、最後に名残惜しそうにニヒはそう付け加えて、その後にこう言った。
「貴方がどれだけ『時間遡行』の存在を信じることが出来ないとしても、それは事実です。何より、時間遡行の何よりの証拠は、貴方の目の前にいるじゃないですか」
そのニヒの言葉の意味を翔が考える暇もなく、ニヒは言い放った。
「……私は、未来の世界から時間遡行をしてここに来たんですよ」
「──っ!」
そのニヒの衝撃の告白に、翔は思わず言葉を失う。
──未来から、来た……? ニヒが、『氷の女王』が……?
翔はもはや、目の前で繰り広げられている超理論についていけなくなっていた。
──ニヒが『氷の女王』だってだけでお腹いっぱいだってのに、オマケにそれが『過去に行け』て、『未来から来た』……?
そうして翔は必死にその情報を整理するが、一つ一つの情報の衝撃が強すぎるためかその思考がまとまることはなかった。
そうして混乱する翔のことを、ニヒは何かを言いたげにじっと見ていた。その視線からまたニヒが何か驚愕の事実を口にするつもりだと察した翔は、ニヒの前に手を置いて言った。
「……ちょっと待ってくれ。今色々と整理してるから。何か言うのは、もう少し後にしてくれねえか?」
しかしそんな翔の言葉を無視し、ニヒはその口を開いた。
「大丈夫ですよ、カケル。理解なんかしなくてもいいんです。ただ私のことを、信じてくれればいいだけですから」
「……っ!」
そのニヒの口調は、かつて翔がその夢の中で聞いた不気味な口調に酷似していた。遠征の途中、恐らく三年分の『時間跳躍』をした直後の夢において、翔は今の状況に似た状況を経験していた。その時ニヒの口から発せられた言葉は、まるで我が子を慈しむ母親のそれであり、また翔がそれまで聞いたどの言葉よりも暖かくて、気持ちが悪かった。
「……理解しなくていい、って言われてもよ。原理が分からない以上、その提案には俺は乗れねえよ」
「だからそこは私を信じて、私に身を委ねてください。大丈夫です。安心してください。私を信じてくれれば、貴方は何もかもが起こる前の、平穏な世界に戻ることができます」
そうして不平を口にする翔だったが、その言葉もあえなくニヒには無視される。ニヒがそう同じような言葉を繰り返すのを聞いて、翔は最早その文句をニヒに伝えることを諦め、仕方なくニヒに尋ねた。
「……ちなみに聞いておきたいんだが、仮に俺がお前のその提案を聞いて過去に戻ったところで、この現状は変わるのか?」
その翔の疑問は、『時間遡行』という現象が起こりえないもう一つの理由である、矛盾のことを指していた。
相反する二つの事柄が同時に存在した時、それは古代中国のある逸話に因んで『矛盾』という名を借りた歪みとなる。この『矛盾』こそ多くの人間を様々な思考実験に追いやっている原因なのだが、過去に戻るなどという非現実的な『時間遡行』においても、当然そんな矛盾は存在する。
代表されるのは『先祖殺しのパラドックス』である。もし人間が過去に戻ることが出来たとして、その過去の世界で自分の母親、もしくは父親、つまりは自らの先祖となる血縁者を殺した時どうなるか、という話である。一見その祖先が殺されて終わりのように思えるが、その祖先が死んだ時殺した自分という存在は生まれることがなくなる。つまりはその祖先が自分に殺されることもなくなるのだ。しかしそれは同時に、祖先を殺す『自分』が再び存在することとなる。ここに逆説、すなわちパラドックスが生まれるのだ。
この『先祖殺しのパラドックス』を始めとして、過去に戻るという行為は様々な不合理を生じる。それらの不合理を説明する明確な論理は未だ存在しない。そもそも『時間遡行』などという超現象が人間の身に起こったことのないため、その実証のしようもないのである。だからこそ過去の世界に行くなどということはより一層『不可能』となる。未だ解明されていない論理のある世界など、人間にとっては存在しないのと同じだからだ。
「……もし仮に俺が過去に戻って、この事態を『無かったこと』に出来たとして。そしたらそもそも、俺はお前とこうして会うこともなく、結果『時間遡行』をすることもなくなる。この矛盾は、どう説明するんだ?」
翔がこの手の話に詳しいのは、かつて平凡な世界で暮らしていた時そういった話にも興味を持ったことがあったからであった。思い返してみるとそんな非現実的なことばかり考えていたかつての翔はは中々時間を浪費していたようだが、結果として今ニヒの言葉に疑問を持つことが出来たのはその時間があったからだ。過去の自分に改めて少し感謝してから、翔は改めてニヒを見る。
その翔の疑問に、ニヒは少し考えてから答えた。
「そうですね……。貴方達にも分かる言葉で言うならば、『並行世界』がその答えになります」
そのニヒの予想外の答えに翔は一瞬面食らったが、すぐにその言葉の意味を推測し納得する。
「……なるほどな。俺が過去に戻って何かを『変えた』時点で、それは別の世界になるってことか」
「その通りです。なので、その意味ではこの現状も『変えられる』んですよ」
翔の言葉にニヒがそう頷いたのを見るに、翔のその推測は当たっていたようだった。
ニヒの言葉から翔が推測したのは、要するに逆説が存在しないようにするために、過去を変えた時点で別の世界線が誕生するという理論であった。その理論ならば確かに矛盾など生まれるはずもない。過去を変えたことによって変わった未来は、かつて体験した未来とは別物なのだから。結果として『時間遡行』の行使者が『時間遡行』をすることへの矛盾も発生さず、結果として世界はなんの問題もなく回っていく。
「……確かにその理論だったら整合性も取れてるな」
そう呟く翔の心は、先のニヒの提案に大きく揺さぶられていた。最初は現実味に欠ける絵空事だと思っていたその提案も、そうして逆説の否定までされた今となってはただの妄言と簡単に切り捨てられるものではなくなっていたのだ。
──ひとまず俺が考えうる疑問は全て解決した。あと残された問題は俺がニヒを信じるか否か、だよな……。
そうして翔は険しい顔でニヒを見る。するとニヒはその思考を見透かしたかのように言った。
「私があなたのことを過去に送ることが出来る、というのは真実ですよ。信じてもらえるかはわかりませんが」
そう笑みを浮かべたまま言ったニヒを前に、翔はその顔をよりいっそう暗くする。そのまるで悪魔の囁きのようなニヒの言葉に、翔がまた心を揺さぶられていたのは事実であった。そしてその心に追い打ちをかけるように、ニヒは続いて言った。
「それに、私が本当に貴方を過去に送れるかどうかなんて、どうでもいいじゃないですか」
「……っ! 何を……」
そのニヒの突拍子もない言葉に、翔は思わず反応する。その声を押し戻すようにニヒは一瞬の間に翔に歩み寄り、そしてその耳元で呟いた。
「……こんな現状を、変えたいんでしょう? もうこんな未来は、耐えられないんでしょう?」
「……ぁ……」
そのニヒの甘美な囁きは、翔の頭の中にあっという間に侵食していった。その呟きに翔が心を揺さぶられているその間に、ニヒは再び口を開く。
「大丈夫ですよ。もう一度、やり直せばいいんです。誰もあなたを妬んだりしない、誰もあなたを嫌ったりしない、誰もあなたを恨んだりしない、あの過去からやり直しましょう」
「……っ!」
その呟きに今度こそ翔が承諾の言葉を口にしようとするが、その口は翔の固い意志によってなんとか閉じられる。そうして躊躇う翔を見て、ニヒは残念そうな顔で呟く。
「何を躊躇うことがあるんですか? 貴方ももう、こんな苦しいところには居たくないんでしょう?」
その言葉に続けて、ニヒは言い放った。
「……もう一度、あの世界で英雄になりましょう?」
「──っ!」
そのニヒの翔の心を奪うような囁きに、翔は険しい顔になって思案する。
──俺は、俺は……っ!
そうしてその幻惑の夜の一幕は、徐々に閉幕へと向かっていくのだった。
翔の目の前に居る相棒にそっくりな存在、ニヒの口から出たその言葉に、翔は思わずその内容をオウム返しする。そうして問いかける翔の頭の中は、突然のその事態にもはや思考力を失いかけていた。だが、そんな自らの頭の働かない状況においても、翔はそのニヒの言葉がおかしいことには気付いていた。
「……嘘だ!」
その疑念を抱いた翔は、思わず目の前のニヒに向かってそう叫んでいた。その声にはあまりにデタラメなことを言い放ったニヒに対しての怒りが込められていた。
──俺を、過去に飛ばすだと? そんなこと、絶対にありえない。
翔がその言葉を信じることが出来なかったのは、ただその話が突飛なものであったからだけではなかった。翔はニヒにその力の存在を告げられるより前に、既に過去へ行く力のことについても考えを巡らせたことがあったのだった。しかし、だからこそ翔はその話が信じられなかった。何故ならば前述の通り、過去に行くなどという行為自体が『ありえない』ものであるからであった。
通常、時の流れというものは過去から今、今から未来へと流れている。その観点から考えるならば、翔の時間跳躍は言うなれば、その流れに乗ったまま自分と対象の物体の時の流れを遅くする、といった力であるといえる。つまりは翔の『時間跳躍』は時の流れに逆らったものでは断じてないのだ。それでもその力はあまりに非現実的に思えるが、実は翔が『時間跳躍』に目覚めるよりも前、人類は既に時の流れを遅くする方法を見つけ出していた。
──『相対性理論』。多分俺の『時間跳躍』も、この原理の応用なんだろう。
翔の指し示したその理論は至極単純に、そして大雑把に言えば『速く動いている物体は時の流れが遅くなる』というものであった。これは何も天文学的に巨大な速さの時にのみ起こり得るのではなく、意外にも普通の人々の生活にも見られる現象であった。
三十年前陸の交通手段として栄えた新幹線という乗り物においてさえも、極微小ながら時間の差は生まれる。仮に光速の半分ほどの速さで動きつづける物体が存在するならば、それに乗った人間は周囲と二倍近くの時間の差が産まれるそうだ。ならば極論、無限に近い早さで動き回る物体は、周囲と何千、何万、何億もの時間の差を生むこととなる。それこそ、自分にとっては一瞬の間に何年もの時間が経つように。
──それが一応、唯一凡人の考えられる『時間跳躍』の仕組みだ。最もそんな超速で動いた覚えは俺にはないし、やっぱり科学だけじゃ語れない『何か』があるんだろうけどな。
その翔の推論は、あまりに非現実的であったが、それでも論は立っていた。未来に行くという方法自体は、もう既に人類の科学は見つけ出していた。それがどれだけ非現実的な話であろうと、それこそ『ありえない』程現実でない話でも、それは科学という理論の上に立っている以上厳密には『可能』になる。しかしそれとは違い、過去に舞い戻ること、つまり『時間遡行』などという行為は、どうやっても『不可能』なのだ。
「……過去の世界に行く、なんてそもそもそんな理論がない。一応、世界中の全粒子が丁度過去の状態に配置される、なんていう天文学的『奇跡』が起きればそれも不可能じゃないが、そんなことを意図的に起こすなんてのはそれこそ理論的にも実証的にも『不可能』だ」
そうして翔が必死にその人類の科学の叡智を羅列するのを、ニヒは退屈そうに聞いていた。その目は翔に何かを語りかけているかのようだった。しかしその語るところを知る術もない翔は、また口を開いて何かの『理論』を話そうとする。その翔の様子を見て、ニヒは諦めたように言った。
「……分かりました。信じていただけないのならそれで結構ですよ。
ただ、これだけは言っておきます」
と、最後に名残惜しそうにニヒはそう付け加えて、その後にこう言った。
「貴方がどれだけ『時間遡行』の存在を信じることが出来ないとしても、それは事実です。何より、時間遡行の何よりの証拠は、貴方の目の前にいるじゃないですか」
そのニヒの言葉の意味を翔が考える暇もなく、ニヒは言い放った。
「……私は、未来の世界から時間遡行をしてここに来たんですよ」
「──っ!」
そのニヒの衝撃の告白に、翔は思わず言葉を失う。
──未来から、来た……? ニヒが、『氷の女王』が……?
翔はもはや、目の前で繰り広げられている超理論についていけなくなっていた。
──ニヒが『氷の女王』だってだけでお腹いっぱいだってのに、オマケにそれが『過去に行け』て、『未来から来た』……?
そうして翔は必死にその情報を整理するが、一つ一つの情報の衝撃が強すぎるためかその思考がまとまることはなかった。
そうして混乱する翔のことを、ニヒは何かを言いたげにじっと見ていた。その視線からまたニヒが何か驚愕の事実を口にするつもりだと察した翔は、ニヒの前に手を置いて言った。
「……ちょっと待ってくれ。今色々と整理してるから。何か言うのは、もう少し後にしてくれねえか?」
しかしそんな翔の言葉を無視し、ニヒはその口を開いた。
「大丈夫ですよ、カケル。理解なんかしなくてもいいんです。ただ私のことを、信じてくれればいいだけですから」
「……っ!」
そのニヒの口調は、かつて翔がその夢の中で聞いた不気味な口調に酷似していた。遠征の途中、恐らく三年分の『時間跳躍』をした直後の夢において、翔は今の状況に似た状況を経験していた。その時ニヒの口から発せられた言葉は、まるで我が子を慈しむ母親のそれであり、また翔がそれまで聞いたどの言葉よりも暖かくて、気持ちが悪かった。
「……理解しなくていい、って言われてもよ。原理が分からない以上、その提案には俺は乗れねえよ」
「だからそこは私を信じて、私に身を委ねてください。大丈夫です。安心してください。私を信じてくれれば、貴方は何もかもが起こる前の、平穏な世界に戻ることができます」
そうして不平を口にする翔だったが、その言葉もあえなくニヒには無視される。ニヒがそう同じような言葉を繰り返すのを聞いて、翔は最早その文句をニヒに伝えることを諦め、仕方なくニヒに尋ねた。
「……ちなみに聞いておきたいんだが、仮に俺がお前のその提案を聞いて過去に戻ったところで、この現状は変わるのか?」
その翔の疑問は、『時間遡行』という現象が起こりえないもう一つの理由である、矛盾のことを指していた。
相反する二つの事柄が同時に存在した時、それは古代中国のある逸話に因んで『矛盾』という名を借りた歪みとなる。この『矛盾』こそ多くの人間を様々な思考実験に追いやっている原因なのだが、過去に戻るなどという非現実的な『時間遡行』においても、当然そんな矛盾は存在する。
代表されるのは『先祖殺しのパラドックス』である。もし人間が過去に戻ることが出来たとして、その過去の世界で自分の母親、もしくは父親、つまりは自らの先祖となる血縁者を殺した時どうなるか、という話である。一見その祖先が殺されて終わりのように思えるが、その祖先が死んだ時殺した自分という存在は生まれることがなくなる。つまりはその祖先が自分に殺されることもなくなるのだ。しかしそれは同時に、祖先を殺す『自分』が再び存在することとなる。ここに逆説、すなわちパラドックスが生まれるのだ。
この『先祖殺しのパラドックス』を始めとして、過去に戻るという行為は様々な不合理を生じる。それらの不合理を説明する明確な論理は未だ存在しない。そもそも『時間遡行』などという超現象が人間の身に起こったことのないため、その実証のしようもないのである。だからこそ過去の世界に行くなどということはより一層『不可能』となる。未だ解明されていない論理のある世界など、人間にとっては存在しないのと同じだからだ。
「……もし仮に俺が過去に戻って、この事態を『無かったこと』に出来たとして。そしたらそもそも、俺はお前とこうして会うこともなく、結果『時間遡行』をすることもなくなる。この矛盾は、どう説明するんだ?」
翔がこの手の話に詳しいのは、かつて平凡な世界で暮らしていた時そういった話にも興味を持ったことがあったからであった。思い返してみるとそんな非現実的なことばかり考えていたかつての翔はは中々時間を浪費していたようだが、結果として今ニヒの言葉に疑問を持つことが出来たのはその時間があったからだ。過去の自分に改めて少し感謝してから、翔は改めてニヒを見る。
その翔の疑問に、ニヒは少し考えてから答えた。
「そうですね……。貴方達にも分かる言葉で言うならば、『並行世界』がその答えになります」
そのニヒの予想外の答えに翔は一瞬面食らったが、すぐにその言葉の意味を推測し納得する。
「……なるほどな。俺が過去に戻って何かを『変えた』時点で、それは別の世界になるってことか」
「その通りです。なので、その意味ではこの現状も『変えられる』んですよ」
翔の言葉にニヒがそう頷いたのを見るに、翔のその推測は当たっていたようだった。
ニヒの言葉から翔が推測したのは、要するに逆説が存在しないようにするために、過去を変えた時点で別の世界線が誕生するという理論であった。その理論ならば確かに矛盾など生まれるはずもない。過去を変えたことによって変わった未来は、かつて体験した未来とは別物なのだから。結果として『時間遡行』の行使者が『時間遡行』をすることへの矛盾も発生さず、結果として世界はなんの問題もなく回っていく。
「……確かにその理論だったら整合性も取れてるな」
そう呟く翔の心は、先のニヒの提案に大きく揺さぶられていた。最初は現実味に欠ける絵空事だと思っていたその提案も、そうして逆説の否定までされた今となってはただの妄言と簡単に切り捨てられるものではなくなっていたのだ。
──ひとまず俺が考えうる疑問は全て解決した。あと残された問題は俺がニヒを信じるか否か、だよな……。
そうして翔は険しい顔でニヒを見る。するとニヒはその思考を見透かしたかのように言った。
「私があなたのことを過去に送ることが出来る、というのは真実ですよ。信じてもらえるかはわかりませんが」
そう笑みを浮かべたまま言ったニヒを前に、翔はその顔をよりいっそう暗くする。そのまるで悪魔の囁きのようなニヒの言葉に、翔がまた心を揺さぶられていたのは事実であった。そしてその心に追い打ちをかけるように、ニヒは続いて言った。
「それに、私が本当に貴方を過去に送れるかどうかなんて、どうでもいいじゃないですか」
「……っ! 何を……」
そのニヒの突拍子もない言葉に、翔は思わず反応する。その声を押し戻すようにニヒは一瞬の間に翔に歩み寄り、そしてその耳元で呟いた。
「……こんな現状を、変えたいんでしょう? もうこんな未来は、耐えられないんでしょう?」
「……ぁ……」
そのニヒの甘美な囁きは、翔の頭の中にあっという間に侵食していった。その呟きに翔が心を揺さぶられているその間に、ニヒは再び口を開く。
「大丈夫ですよ。もう一度、やり直せばいいんです。誰もあなたを妬んだりしない、誰もあなたを嫌ったりしない、誰もあなたを恨んだりしない、あの過去からやり直しましょう」
「……っ!」
その呟きに今度こそ翔が承諾の言葉を口にしようとするが、その口は翔の固い意志によってなんとか閉じられる。そうして躊躇う翔を見て、ニヒは残念そうな顔で呟く。
「何を躊躇うことがあるんですか? 貴方ももう、こんな苦しいところには居たくないんでしょう?」
その言葉に続けて、ニヒは言い放った。
「……もう一度、あの世界で英雄になりましょう?」
「──っ!」
そのニヒの翔の心を奪うような囁きに、翔は険しい顔になって思案する。
──俺は、俺は……っ!
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