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異世界ピアノ工房

平尾正和/ほーち

9 1分の長さ

 ――テンポ。
 いろいろな意味のある言葉だが、こと音楽用語におけるテンポとは、1分間に刻まれる拍数を指すもので、BPM――Beats Per Minute――と同義である。
 例えばテンポ60なら1分に60拍となり、1拍あたりの長さがちょうど1秒になる。
 先ほどフィルが“30分”と口にするまでこちらの時間に関してあまり考えていなかったが、1度そこに意識が向いてしまうと無視できない事柄だ。
 極端な話、1日が何時間で、1時間が何分だろうが、生活に支障をきたさなければそれほど気にすることではないのかもしれない。
 しかし音楽に携わる者にとって、1分の長さというのは非常に重要なのだった。

「なぁ、タイマーってあるか?」

 ミルクトーストを食べ終わり、コーヒーを飲んでひと息ついたところで、蔵人はライザに尋ねてみた。
 最悪砂時計でもあればいいと思っていたのだが……。

「タイマー? キッチンタイマーでよければ厨房にあるけど」
「あるのか!?」

 たぶんないだろうと思いつつも訊いてみたところ、キッチンタイマーという意外な言葉が飛び出してきたことに、蔵人は驚きの声を上げてしまう。

「そりゃ、一応飲食店だしあるにきまってるじゃないか。すぐに使うのかい?」
「できれば」
「わかった、ちょっと待ってて」

 そう答えると、ライザはコーヒーカップと小皿を持って厨房へと小走りに駆け込んでいった。

(というか、怪しくないのかな、俺)

 いきなり現われてピアノを弾き、金も払わず食事と宿泊をしたうえに、ピアノの掃除と調整を行った。
 通りすがりのピアノ職人などそうそう現われるものではなかろうが、ライザはとくに不審がらず蔵人に付き合ってくれている。
 いまも、突然タイマーがあるかと訊けば素直に答え、すぐに用意してくれるというのだ。

(単純に人がいいだけなのか、それともなにか察しているのか……?)

 だが藪をつついて蛇を出すのも怖いので、自分から探りを入れる勇気はいまのところない。
 なので、細かいことは気にせず目の前の作業を粛々と進めることにしたのだが、時間の概念に関してはどうしても気になったので、先に疑問を解消しておきたいと思ってしまった。
 タイマーがなければ諦めるか後回しにしようと思っていたのだが、すぐに用意してくれると言うし、ちょっとした確認ならそれこそ1分ほどで終わることなので、先に済ませることにしたのだった。

「はい、おまたせ」

 軽く息を切らせながら戻ってきたライザの手には、つまみの付いた小箱のようなものがふたつ持たれていた。

「こっちが1時間用で、こっちが12分用だって。細かい時間計るなら12分用がいいってフィルが」
「なるほど、ゼンマイ式か……」

 キッチンタイマーと聞いて蔵人が思い浮かべたのは、デジタル表示のものだったが、少なくとも目に付く範囲に電化製品らしき物は見つからなかったので、その手のものはないだろうと思っていた。
 そこで次に思いついたのが砂時計だったが、ゼンマイ仕掛けにつてはすっかり失念していた。
 どちらのタイマーも中央のつまみを回し、戻るまでの時間を計るというタイプの物だった。
 それぞれの文字盤にはアナログ時計のように数字と線が刻まれ、12分のほうは0から11まで、60分のほうは0から55まで5倍数のみが表示されている。

(つまり、1時間は60分ということか)

 そこがわかったからといって1分の長さが確定するわけではない。
 元々地球における1時間の長さは、自転1周にかかる時間を1日の長さ=LODレングス・オブ・デイとし、それを24分割したものである。
 その1時間ををさらに60分割、すなわちLODを1440分割したものが1分ということになる。
 つまり大元となる自転周期が地球と異なっていれば、同じ時間単位を使っていたとしても、1分の長さに違いがでてくるのだ。
 しかしいまの蔵人にこの世界の自転周期を確認する方法はない。
 そもそもこの世界が惑星であるかどうかも定かではないのだ。
 だが1分の長さについてはいずれ無視できなくなる問題なので、とりあえず体感で計っておくことにしたのだった。

「このつまみを回せばいいんだな?」
「そうそう。どれくらいにする?」
「1分半くらいで」
「じゃあ12分の奴がいいね」

 ライザから受け取った12分用タイマーのつまみを1分半に合わせて手を離すと、ジジジ……とゼンマイの作動音が鳴り始めるとともに、少しずつつまみが戻っていく。
 そこから蔵人は1秒間隔でトン……トン……と、テーブルを指で叩き始めた。
 とはいえ彼には絶対的な時間感覚もなければ、人並み外れたリズム感があるわけでもない。
 1秒の長さというのは正確に計るとなると結構長いのだ。
 そこで蔵人は、頭の中で1秒を4分割した拍、すなわちテンポ60の十六分音符を刻みながら、1拍目でテーブルとトンと叩いた。

(1……2……3……)

 タイマーのつまみが1を示したところで数を数え始める。
 継続的に鳴り続けるぜんまいの作動音と、等間隔で鳴らされるテーブルを叩く音が、客のいない静かな店内に響く。
 奥の厨房ではフィルが仕込みをしているため、ときおりまな板を叩く音や水を流す音、なにかを炒めるような音が漏れ出ているが、蔵人の耳には入っていない。
 どうやらライザもふたつの音に意識を囚われているようで、緊張した面持ちで蔵人を見つめていた。

(57……58……59――)

 ――ジリリリリリ!

「ひゃぁっ!?」

 けたたましく鳴り響くタイマーの音に、ライザは飛び上がるように驚いた。
 タイマーの音はしばらく鳴り続けたあと、自然に止まった。

(とりあえず1分の長さに大きな差はない、か)

 蔵人に卓越したリズム感がないとはいえ、頭の中でなんとなく一六分音符を刻んでいれば、1分程度なら実は素人でもかなり正確に計ることができる。
 次に蔵人は自分の手首を押さえ、脈を測った。

(とくに問題はないな)

 人の時間感覚というのは心拍数によってかなり左右される。
 コンサートなどで普通に演奏しているつもりが、随分と走っている――テンポが速くなっている――ということはよくあるのだが、それは緊張によって心拍数が跳ね上がっていることが原因だ。
 普段の心拍数を把握しているわけではないが、極端に速くなっているとは感じられないので、問題はないと判断した。
 これでキッチンタイマーが狂っていれば目も当てられないが、今回のことはあくまで蔵人の中の価値基準を測るための、いわば自己満足的な実験なので、とりあえずはこれでよしとすることにした。

「タイマーありがとな。助かったよ」
「あ、うん。お役に立てたんならよかったよ……」

 ライザは先ほどの驚きがまだ落ち着かないのか、胸に手を当てて呼吸を整えながら答えた。
 その際、彼女が軽く首を傾げたのは、蔵人がなんのためにキッチンタイマーを使ったのか、おそらくは理解できなかったからだろう。
 しかしライザは特に追求することなく、キッチンタイマーを返しに厨房へ行った。

「さて、そろそろ作業再開といくか」

 キッチンへと向かったライザを見送ると、蔵人は立ち上がり、調律道具の入ったバッグを開いた。

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