異世界ピアノ工房
6 〈祝福〉の効果範囲 ―簡易考察―
「ねぇ、クロード……本当に大丈夫なんだろうね?」
手際よくピアノの掃除を進める蔵人に対して、ライザは不安げに問いかけた。
「心配するなよ。掃除ひとつでピアノをダメにするほど腕は悪くないし、ちゃんと戻せるから」
「いや、あたしが気にしてるのは〈祝福〉のほうさ。ピアノがそんなふうになるの見たことないから、大丈夫なのかなって……」
「ふむう……」
それは蔵人も考えないではなかった。
200~300年経過したピアノが、こうもいい状態で保持されているのがその〈祝福〉のおかげだとすれば、それは非常に有用な技術だ。
しかし……、と蔵人はピアノの周りに視線を巡らせる。
溜まったりまとわりついたりしたホコリに汚れたクロスを見たあと、視線がしばらく鍵盤に固定され、ほどなくため息が漏れた。
「でも、こうしないとまともに弾ける状態にはならないからな」
「えー、そんなことないだろう? だってクロードは昨日、あんなに凄い演奏をしたじゃないか」
「あれはこの状態のピアノに合わせたからな」
たしかにそれなりの形にはなったと思うが、それはこの状態に合わせて選曲した結果であり、聴く人が聴けば眉をひそめるような演奏だっただろう。
力業のロックンロールならともかく、繊細な指使いを要求される曲、たとえばショパンのピアノソナタやラフマニノフのピアノ協奏曲などを弾くのは非常に困難であると言っていい。
たとえ調律が合っていたとしてもだ。
「鍵盤の高さはガタガタ、打鍵の深さもまちまちだ。これを調整するには、こうやって鍵盤を引き出す必要がある。掃除のためだけでなく、な」
ピアノというのは時間が経てば調律が狂うのと同じように、鍵盤の高さや弾いたときに鍵盤が沈む深さも微妙に狂ってくる。
そして人の指先というのは非常に敏感で、100分の1ミリ単位のズレであっても明確な違和感となるのだ。
なので、調律の際に鍵盤の調整も同時に行なわれる、ということはよくあることだった。
状態によってはむしろ調律よりも調整のほうが重要と言えるかも知れない。
「昨日だってもうちょいこいつの状態がマシならもっと盛り上がったと思うぞ?」
「そうなの?」
昨日の演奏にしても、鍵盤の高さにかなりのばらつきがあったせいで、ロックンロールを弾いているにもかかわらずグリッサンド――鍵盤の上を一音一音区切らず隙間なく指を滑らせ流れるように音高を上げ下げする奏法――があまり使えなかったし、鍵盤の動きが少し鈍くなっているせいでトリル――2本の指でふたつの音を交互に弾く奏法――も多用できなかった。
数オクターブに及ぶグリッサンドや高速のトリルなど、強烈なアクセントになる奏法がもっと使えれば、昨夜はもう少しばかり白熱した夜になっていただろう。
「それに調律は必要なんだろ? 見れば弦交換の形跡もあるし。だったら調整だって何度か行なわれているはずだ」
「んー、そうかもしれないけど……」
調律が定期的に行なわれ、そして弦交換が何度か行なわれているということは、〈祝福〉とやらの状態保持が及ばない部分があるということになる。
完全にメンテナンスフリーにならないのであれば、ピアノを維持するために必要なことくらいはしても問題ないはずだ。
もし鍵盤引き出し、掃除くらいでその〈祝福〉とやらの効果が切れるのなら、そんなものは必要ない。
「心配するな。なにかあっても俺がなんとかしてやるから」
仮に〈祝福〉とやらがなくなって、ピアノの劣化が始まるのだとしたら、そのときは蔵人の技術で修復してやればいい。
ピアノ職人とはそのために存在するのだから。
「むぅ……。アンタがそう言ってくれるなら、いいんだけど……」
蔵人の言葉が嬉しかったのか、口調は不機嫌を装っていたが、ライザの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「とりあえず掃除の続きだ。ホコリはこの辺に一旦落としといてもいいか?」
「うん、大丈夫。じゃああたしが落ちた分をまとめて捨てるようにするよ」
「おう、助かる。おっとそうだ」
蔵人はバッグから不織布のマスクを2枚取り出し、1枚をライザに渡した。
「なに、これ?」
「マスクだよ。ホコリが舞うからな……っていまさらだけどな」
蔵人が手本を見せるようにマスクを身に着けると、ライザもそれに倣って問題なく装着できた。
「あ、全然苦しくない。こんな薄いので大丈夫なの?」
「ああ。例えば……そうだな、あのテーブルクロス。ああいう布を何枚も重ねるより、これ1枚のほうが効果は高い」
「そんなに!?」
こちらの世界の標準的なマスクがどういったものかわからないので、手近な物で軽く説明しておく。
もしかするとこのマスク1枚で、蔵人の正体について勘ぐられる可能性もあるのだが、そんなことよりもライザをホコリから護ってやるほうが重要だろう。
蔵人はクロスでピアノを軽く拭いながらホコリを落としていった。
床に落ちたホコリはライザが箒で掃き集めていく。
「ふぅ……こんなもんかな、いまのところは」
掃除機なりエアーコンプレッサーなりがあればもっとましだったのだろうが、いまはできる限りのことをやっていくしかない。
「あ、クロード、その布巾貸して」
「ん? おう」
ピアノの掃除が一段落ついたところで、ライザに言われて汚れたクロスを渡した。
彼女は小走りに少し離れた場所に行くと、すぐに戻ってきた。
「はい、【浄化】しといたよ」
「おお、助かる!」
ライザは〈祝福〉に影響を及ぼさないであろう場所まで離れて、魔術を使ってクロスを汚れを取り除いてくれたようだ。
ここからの作業のために新しいクロスを取り出そうとしていたところなので、絶妙なタイミングだったといえる。
「ねぇ、もうその鍵盤元に戻すの?」
クロスを渡しながらそう尋ねるライザに対して、蔵人は軽く頭を振った。
「いや、まだやることがある」
彼女から綺麗になったクロスを受け取りながらそう答えた蔵人は、改めてピアノに視線を落とした。
手際よくピアノの掃除を進める蔵人に対して、ライザは不安げに問いかけた。
「心配するなよ。掃除ひとつでピアノをダメにするほど腕は悪くないし、ちゃんと戻せるから」
「いや、あたしが気にしてるのは〈祝福〉のほうさ。ピアノがそんなふうになるの見たことないから、大丈夫なのかなって……」
「ふむう……」
それは蔵人も考えないではなかった。
200~300年経過したピアノが、こうもいい状態で保持されているのがその〈祝福〉のおかげだとすれば、それは非常に有用な技術だ。
しかし……、と蔵人はピアノの周りに視線を巡らせる。
溜まったりまとわりついたりしたホコリに汚れたクロスを見たあと、視線がしばらく鍵盤に固定され、ほどなくため息が漏れた。
「でも、こうしないとまともに弾ける状態にはならないからな」
「えー、そんなことないだろう? だってクロードは昨日、あんなに凄い演奏をしたじゃないか」
「あれはこの状態のピアノに合わせたからな」
たしかにそれなりの形にはなったと思うが、それはこの状態に合わせて選曲した結果であり、聴く人が聴けば眉をひそめるような演奏だっただろう。
力業のロックンロールならともかく、繊細な指使いを要求される曲、たとえばショパンのピアノソナタやラフマニノフのピアノ協奏曲などを弾くのは非常に困難であると言っていい。
たとえ調律が合っていたとしてもだ。
「鍵盤の高さはガタガタ、打鍵の深さもまちまちだ。これを調整するには、こうやって鍵盤を引き出す必要がある。掃除のためだけでなく、な」
ピアノというのは時間が経てば調律が狂うのと同じように、鍵盤の高さや弾いたときに鍵盤が沈む深さも微妙に狂ってくる。
そして人の指先というのは非常に敏感で、100分の1ミリ単位のズレであっても明確な違和感となるのだ。
なので、調律の際に鍵盤の調整も同時に行なわれる、ということはよくあることだった。
状態によってはむしろ調律よりも調整のほうが重要と言えるかも知れない。
「昨日だってもうちょいこいつの状態がマシならもっと盛り上がったと思うぞ?」
「そうなの?」
昨日の演奏にしても、鍵盤の高さにかなりのばらつきがあったせいで、ロックンロールを弾いているにもかかわらずグリッサンド――鍵盤の上を一音一音区切らず隙間なく指を滑らせ流れるように音高を上げ下げする奏法――があまり使えなかったし、鍵盤の動きが少し鈍くなっているせいでトリル――2本の指でふたつの音を交互に弾く奏法――も多用できなかった。
数オクターブに及ぶグリッサンドや高速のトリルなど、強烈なアクセントになる奏法がもっと使えれば、昨夜はもう少しばかり白熱した夜になっていただろう。
「それに調律は必要なんだろ? 見れば弦交換の形跡もあるし。だったら調整だって何度か行なわれているはずだ」
「んー、そうかもしれないけど……」
調律が定期的に行なわれ、そして弦交換が何度か行なわれているということは、〈祝福〉とやらの状態保持が及ばない部分があるということになる。
完全にメンテナンスフリーにならないのであれば、ピアノを維持するために必要なことくらいはしても問題ないはずだ。
もし鍵盤引き出し、掃除くらいでその〈祝福〉とやらの効果が切れるのなら、そんなものは必要ない。
「心配するな。なにかあっても俺がなんとかしてやるから」
仮に〈祝福〉とやらがなくなって、ピアノの劣化が始まるのだとしたら、そのときは蔵人の技術で修復してやればいい。
ピアノ職人とはそのために存在するのだから。
「むぅ……。アンタがそう言ってくれるなら、いいんだけど……」
蔵人の言葉が嬉しかったのか、口調は不機嫌を装っていたが、ライザの口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「とりあえず掃除の続きだ。ホコリはこの辺に一旦落としといてもいいか?」
「うん、大丈夫。じゃああたしが落ちた分をまとめて捨てるようにするよ」
「おう、助かる。おっとそうだ」
蔵人はバッグから不織布のマスクを2枚取り出し、1枚をライザに渡した。
「なに、これ?」
「マスクだよ。ホコリが舞うからな……っていまさらだけどな」
蔵人が手本を見せるようにマスクを身に着けると、ライザもそれに倣って問題なく装着できた。
「あ、全然苦しくない。こんな薄いので大丈夫なの?」
「ああ。例えば……そうだな、あのテーブルクロス。ああいう布を何枚も重ねるより、これ1枚のほうが効果は高い」
「そんなに!?」
こちらの世界の標準的なマスクがどういったものかわからないので、手近な物で軽く説明しておく。
もしかするとこのマスク1枚で、蔵人の正体について勘ぐられる可能性もあるのだが、そんなことよりもライザをホコリから護ってやるほうが重要だろう。
蔵人はクロスでピアノを軽く拭いながらホコリを落としていった。
床に落ちたホコリはライザが箒で掃き集めていく。
「ふぅ……こんなもんかな、いまのところは」
掃除機なりエアーコンプレッサーなりがあればもっとましだったのだろうが、いまはできる限りのことをやっていくしかない。
「あ、クロード、その布巾貸して」
「ん? おう」
ピアノの掃除が一段落ついたところで、ライザに言われて汚れたクロスを渡した。
彼女は小走りに少し離れた場所に行くと、すぐに戻ってきた。
「はい、【浄化】しといたよ」
「おお、助かる!」
ライザは〈祝福〉に影響を及ぼさないであろう場所まで離れて、魔術を使ってクロスを汚れを取り除いてくれたようだ。
ここからの作業のために新しいクロスを取り出そうとしていたところなので、絶妙なタイミングだったといえる。
「ねぇ、もうその鍵盤元に戻すの?」
クロスを渡しながらそう尋ねるライザに対して、蔵人は軽く頭を振った。
「いや、まだやることがある」
彼女から綺麗になったクロスを受け取りながらそう答えた蔵人は、改めてピアノに視線を落とした。
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