陽が昇る前に

沖 鴉者

第一部 軋む歯車  第一章 寝覚めのいい朝に限って その1




 使用人の朝は早い。


 それは勿論、古今東西ありとあらゆる使用人がそうだろう。


 だが殊に彼女の朝は早く、そして濃密だった。


 一時は没落の危機に瀕したものの、王国十二騎士の一角を担うセテモラ家のメイド・オブ・オール・ワークたる彼女の朝は、修飾するに、正に戦争だ。


 生活水の汲み上げから始まり、玄関の掃除や市場への買い出し、郵便物の整理や洗濯、朝食の準備へ至る頃やっと陽が昇り、庭の除草を終えて主人が所有する商会の朝礼に立ち会う頃には、もう全身が凝り固まって来る。


 それが彼女、シズナ・ブランチ・キシャンの日常であり、習慣であった。


 そんな彼女が呆然とある荷馬車の前で立ち止まったのは、それが余りに奇妙な光景だったからに他ならない。


 街の中心地から東へ伸びる大通り、陽光の昇光コロナクィックニングを南に折れ、薄暗い路地を入った一角。


 丁度、商会の朝礼からの帰り道。


 途切れぬ程の人通りこそないものの、それでもポツポツと通行人が遣って来る。
 そんな立地にあって、一際暗さを持つ場所だった。


 恐らく十代であろう――俯せで後頭部しか拝めないが――少年が一人、荷馬車に載っている。


 何をどうすればここまで汚れるのか、放つ悪臭も相当なものだった。


 服や肌の境もなく全身が泥に塗れ、くすんだ金髪には青葉が数枚付着している。


 行商人が着崩れているのは分かるが、それにしても行き過ぎている。


『何これ……行き倒れ?』


 荷馬車が横付けしているのは、スミス・アンド・ブラウン商会、通称SABCと呼ばれる商会だった。
 大陸各地に支店を築き、大幅に販路を拡大させる成長著しい新興企業だ。


 主に服飾産業に強みを持つが、ニリク鉱山で採れる金や銀も取り扱っている。


 社名にその名を刻む二人の創設者、バーナード・スミス氏とリチャード・ブラウン氏の名を知らぬ者は、今や王国にいまい。


 だが一方で、SABCには黒い噂も絶えなかった。


 王国と敵対するフアリカ帝国と繋がっているだとか、違法商業に手を出しているだとか、中には裏社会の資金源そのものである等と言うものもある。


 商会側は“事実無根”と否定しているが、同時に“火のない所に煙は立たぬ”と欺瞞を継続する者もある。


 勿論、警察組織もこの件には関心を示している。


 つい先日も、検知器イミュニティと言う警察組織の立ち入り捜査がこの商会の施設に入ったばかりだ。


 懸けられた容疑は、人身売買。


『これも商品?…にしては汚れ過ぎだしぃ、人数が少な過ぎる。第一、行商で奴隷確保はないと思うんだけど……でもぉ……』


 御者台にはシャイロック・フランクと刻まれた銅板を掲げている。


 だが、それがこの少年である可能性は低く、だとすれば、御者の姿がない事になる。


 中々やり手の行商人なのだろう、荷台には樽や麻袋等かなりの物が載ったままで、その物量たるやかなりのものだ。


 だがそれ故に、キッタナイ少年の姿は一層目を引いた。


 更に言えば、もし彼がシャイロック氏の弟子ならば、起きて番をしているか取引に立ち会っている筈だ。


 単純に氏の温情に助けられた旅人なのかもしれないが、停まっている商会の噂と少年の姿が嫌な結末をシズナに想起させた。


『邪推かも知れないけどぉ……あんな思いをする人間は少なくていぃ………』


 このメイド・オブ・オール・ワークには、実はもう一つの顔がある。


 検知器イミュニティの魔術特化部隊優等生B-Cell No.1704シズナ・ブランチ・キシャン。
 魔術高等学校をトップ成績で卒業した猛者達の集団、優等生B-Cell


 主に凶悪犯罪への対処と組織犯罪に対する攻勢捜査を行う警察組織の一員、シズナはそのメンバーなのだ。


 しかも彼女が詰めている第26区支部は優等生B-Cellの中でも突出して優秀で、他の警察機関の後塵を拝さぬ検挙率を誇っていた。


 前述の通り、検知器イミュニティはSABC所有の幾つかの施設に対し、立ち入り捜査を行った。


 その際施設に立ち入った捜査員達こそ、第26区支部の優等生B-Cellだった。


 “精査案件No.G-3842 SABC立ち入り捜査”と銘打たれた捜索は、大よそ半日を掛けて行われ、結果、優等生B-CellはSABCに対し、白の認定を表向き与えた。


 だが――これは捜査を行った優等生B-Cell独自の考察だが――SABCは綿密に“漂白”をしていた可能性が高かった。


 漂白とは、つまり証拠の隠蔽だ。


 証拠はない。


 いや、証拠がないからこそ証明として成り立っていると言うべきだろう。


 そういう事が、魔術犯罪ではよく起こる。


 よって優等生B-Cellはこの件に対するテンションの掛け方を変え、漂白によってSABC内に生じた帳尻合わせの継ぎ目を探る作業へと捜査を転換していた。


 それは、言うなれば寄木細工を全て最少パーツに分解して行く様な気の遠くなる作業だ。


 だから、そうした背景を鑑みたシズナの行動は早かった。


 素早く辺りを見回し、誰もが私事に急いでいる事を確認すると、荷馬車から少年を引き摺り下ろす。


 躊躇いは、最早消えていた。


 人形の様に滑り落ちる少年を抱き止め、胸に耳を当てると、力強いビートが耳朶を打つ。


 人事不省に陥った者の鼓動とは思えぬ力拍に少々驚いたが、それが骸でない事に安堵したシズナは少年を背負い込んだ。


 目に染みる様な体臭と、草いきれを凝集した様な青臭さがツンと鼻を突くが、洗濯や除草作業に慣れた彼女には何ら苦にならなかった。


 想定よりも小柄で、しかしズシリと重みを宿す少年の躰。


 濃密な筋繊維を彷彿とさせる硬い胸板を背中に感じながら、きっと彼は長年肉体労働に従事して来たのだとシズナは推す。


 名も知らぬ少年を背負い、シズナは家路を急ぐ。


 どこで誰が見ているか知れない以上、急ぐに越した事はなかった。











 シュルリと絹の擦れる音がして、目蓋を開ける。
 陽光を遮るカーテンが目に沁みた。


 ゆっくりと頭を巡らせる。


 木漏れ日の様な光に照らされて、ぼんやりと浮かぶ部屋があった。


 未だ夢の中にいる様な感じがする。
 その誤認を糺す鳥の声も、少し遠くで響いていた。


『………眠い』


 しかし、時間も時間だった。
 時計を見る限り、どう足掻いたってもうすぐ朝食になる。


『……でも起きるの、しんどい』


 15になったその日から、父親の意向により身の回りの世話をしていた全使用人を外された。
 ウェットナースも、ウェイティングメイドも、トゥイーニー達も、それこそ全員だ。


 だからこのまま惰眠を貪る事も可能だが、それは少女の評判を下げるだけ。


 損得勘定がまともに出来れば、どちらが得かは考えるまでもない。


『仕方がない、か……よし!!』


 寝起きの悪さに悩んでいた少女は、その後自発的な目覚めへのルーチンワークを編み出した。


 腹筋を縮めて両足を天に投げ、それをベッドに叩き付ける様にして上体を起こす。
 すかさず伸びに移行。
 上へ上へと組んだ両手を掲げ、脱力すると同時に欠伸を開放する。


 その間、僅か15秒。


 それだけで、リュサック王国第59代王女ミネア・グテ・ブランチ・リュサックは七割方覚醒する。


 だが、この覚醒は時と共に減少する性質を有し、やがて睡魔は捲土重来を期す。


『さってと…』


 腰まで伸びた黒髪を軽く振り、気分も新たに部屋を見回すと、昨夜復習したミネフ式魔術物質好餌系魔力放体学のテキストが出しっ放しになっているのが目に付いた。


 途端、心地良かった目覚めは現実の前に沈む。


『ああそうだ、遂に来ちゃったんだ、この日が……』


 今日程彼女にとって歓迎出来ない日はない。


 最早慣れてしまったキリキリとした胃の痛みも、性質の悪い隣人の様だ。


 リュサック王国国立図書館付属国立魔術大学院第二学年進級試験実技部門。


 長過ぎる正式名を持つこの考査は、並の人間は土俵に立つ事すら許されないインテリジェンスの粋を凝らした舞台だった。


 狭き門の先に狭き道が、その先には更に輪を掛けて狭き門が待っているのは、考えてみれば当然の話なのだが、それにしてもいやはや、ミネアには自信がなかった。


 無論、不断の努力を欠いているわけではない。
 予習・復習・反復学習は習慣化しているし、暇さえあれば詠唱反芻をしている。


 だが、そんな事・・・・はこの舞台に立つ者は皆やっている事であり、そんな並な努力で突破出来る程生易しい考査ではないから、価値ある学位として国立魔術大学院の名は世に轟いているのだ。


『どうしよう……上手くいく気が全然しないよ』


 ネガティブに沈む王女である。


 ところが、その耳朶を鳥の囀りが打った事で、彼女の心に僅かな余裕が生まれ出す。


 絶望的な危機感に迫られた自身と対を成す希望的で解放感に満ちた鳥の声。
 愉しげな旋律に誘われて、思わずミネアは窓を見た。


 ファシリア製のカーテン越しに差し込む陽が、柔らかに頬を射す。


 その向こうに広がる景色を想い、少女の胸は高鳴った。


 今すぐカーテンを引き払いたい衝動をグッと堪え、碧色の瞳を閉じ、耳を澄ます。


 フェードアウトして行く鳥の声を追って聞こえて来るのは、彼女を突き動かす原動力の鼓動。
 その音は、いつだって彼女に希望を与え、力を湧かせた。


 我慢の限界を超えたミネアは目を見開き、カーテンを引き払った。
 貫く様な陽差しが瞳を焼くが、そんなものが何だ。
 笑顔で迎え、ガラス窓を開け放つ。


 そよ風が頬を撫でた。


『ん~…気持ちいい!!』


 よく晴れた日だった。
 朝靄を生む冷えた初秋の空は、桃色から蒼色へと変わるグラデーションで街を包み込んでいる。


 彼女はその中心、“白麗の貴婦人”の異名を持つイリア城にいた。


 幅200mの堀で円形に街から隔離されたそこは盛り土で周辺よりも高い立地になっており、遥か東方の“天嶮”ツァリフ連峰まで窺え、足元に広がる街は当然の様に一望出来た。


 目の前を東に向けて真っ直ぐ走る道幅100mの大通り陽光の昇光コロナクィックニング


 大小様々な商業施設が並ぶそこは、リュサック王国の経済を象徴する通りとして、古今東西にその名を知らしめる。


 その繁栄ぶりを、ある吟遊詩人はこう詠んだ。


――陽の昇る道に大地なし あるのは人と物の波
  黄金きんの瞳の巨狼さえ 此処では値の張る物となる――


 恐ろしい事に、この表現は大袈裟でも何でもなかった。


 馬車が砂埃を舞い上げ、それを蹴散らす様に丁稚の小僧が走り回り、露天商の掛け声や職人達の荒削りな唄が響き渡る。


 そこには物があり、人があり、金があり、活気がある。


 そこに身を置けば理解出来る、大地の存在すら忘れてしまう程の熱に、ミネアもまた魅せられていた。


「さて、着替えと参りま……!?」


 一頻りお気に入りを堪能した少女は窓に手を掛け、しかしふと足元に目を奪われた。


 前述の通り、ミネアの部屋は陽の昇る東向きにある。


 そして、同じく東向きの一階部分には、朝早くから光源が必要となる部屋があった。
 食材調達庫。


 そこは東西南北のあらゆる土地から届く多くの食材が集められた場所。


 今日も、多くのスティルルームメイド達が献上品のチェックに追われていた。


 例えば、黄金色のコーンの樽、麻紐で括られたベーコンの束、小麦粉の詰まった麻袋。 そして勿論、それ等の使用済み。


 ミネアはそこをジッと凝視し、それから窓を閉めた。


 朝食の時間が迫っている。

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