もしも一つだけ願いが適うなら【中】

モブタツ

10

  幸せな時間はいつまでも続かなかった。
  まき姉ちゃんは、ある日突然目を覚まさなくなった。夜中に医師や看護師が病室に駆け込み処置を施した結果、なんとか一命をとりとめたものの、まき姉ちゃんは朝になっても目を覚ますことはなかった。
「忍お兄ちゃん!」
  夕方になると、芽衣とその母親が駆けつけた。
「忍君、こんにちは。まきは…大丈夫なの?」
  俺にそう質問してきた芽衣の母に、俺は黙って首を縦に振って応えた。
  まき姉ちゃんが死んでしまうかもしれない。10歳の俺でも、今の状況を理解することは簡単だった。
  もう、何も喋れない。声が出ない。手は震え、目から出た涙がゆっくりと頬を伝い、膝元に落ちた。
「忍お兄ちゃん…」
  芽衣の声は、掠れていた。
  まき姉ちゃんの口元には呼吸器が付けられ、腕には点滴、ベッドの横には心電図計も置かれていた。
  そんな光景を見て、俺は改めて死の予感を感じてしまった。
「…ごめんなさい」
  何もできなかった俺は、芽衣とその母親に謝罪をした。
「忍君は謝ることないのよ。忍君は、何も悪いことはしていないもの」
「そうだよ!なんで忍お兄ちゃんが謝るの!」
  姉が危篤状態に陥っているのに、芽衣は俺に無理をして笑顔で振る舞った。
  そのぎこちなく、無理矢理作ったような笑顔が…まき姉ちゃんによく似ていた。

「忍。調子はどうだ?」
  芽衣とその母親が帰った数十分後に、俺の父さんが面会に来た。
「……」
  まき姉ちゃんは日が落ち始めた夕方になっても、目を覚ますことはなかった。そのせいで、俺は元気を完全になくし、ほとんど言葉を発することがなくなってしまった。
「…隣の子、まだ意識が戻らないのか」
  俺の元気が無い理由を、父さんはしっかりと理解していた。
「…僕は…何もできなかった」
  まき姉ちゃんの意識がなくなってしまった時、俺はすぐに異変を感じとり、ナースコールを押した。
  医師が駆けつけた後、俺はなにもしてあげられなかった。10歳の少年が、危篤状態の少女を助けてあげることはできないのが当然だが、それでも、何もできなかった自分を、無力な自分を、俺は否定した。
「忍、ナースコールを押したそうだな」
  父さんは、ここに来る前にまき姉ちゃんの母親に会っていたようだ。
「…押した」
「それで充分だ。お前が知らせなかったら、大人たちはまきちゃんが危険だということに気付けなかった。だから…そんなに自分を攻めるな。お前の隣には、生きているまきちゃんがいるだろう?」
  父は優しく笑った。まき姉ちゃんを見て、その後に俺を見た。
「…本当に。お前たちはよく似ている」
「僕…お医者さんになりたい。お医者さんになって、困ってる人を助けたい」
  俺が、医療の専門学校に通うきっかけになった瞬間だった。
「…そうか。お前ならきっとなれるさ」
  あの時、どうして父がまき姉ちゃんを見ていたのかが、未だに分からない。父は寂しそうに笑い、俺を励ましてくれたが、どうして、何度も他他人であるまき姉ちゃんに視線を向けるのかが本当に分からない。
  それは父さんが死んだ今となっては、知る術がなくなってしまった。
「…退院したら、どこか連れて行ってやろう。水族館でも、動物園でもいい。好きなところを選びなさい」
  俺はその言葉を聞き、ある言葉を思い出した。
『私ね。いつか動物園に行ってみたいんだ』
「…動物園がいい」
  まき姉ちゃんのささやかな夢。だから、行くのは、俺だけではなく…
「その時は…まき姉ちゃんと、芽衣も一緒に。」
  隣で眠っている、そのまき姉ちゃんの病気が治り、いつか退院した時、俺とまき姉ちゃんと芽衣で、動物園に行きたい。そこに行って、まき姉ちゃんが描いた動物の絵を見てみたい。
「まき姉ちゃんが退院するまでは…どこも連れて行かなくていいよ」
  だから、まき姉ちゃんが…また絵を描けるようになった時、連れて行って。
  最後の言葉が父さんに聞こえたかどうかは分からない。でも、言わなくても父さんは分かっていた。俺がどれだけまき姉ちゃんと芽衣のことを大切に思っているのかを。
  …俺が誰よりもまき姉ちゃんのことを心配しているということを。
「…そうか。分かった。」
  だから、父さんはそれ以上何も言わなかった。
  そして、父さんの表情は、暗かった。
  何分沈黙が続いただろうか。父さんは一度だけ大きなため息をつくと、俺の近くにあった椅子に座り、こういった。
「忍。お前は今度、手術をしないといけないんだ。その…今はこんな状況だが、頑張れるか?」
  手術。その言葉を聞いて、俺はピンとこなかった。体のどこが悪いのか、なぜ手術を受けないといけないのか。手術をした後はどうなるのかと、様々な疑問が浮かぶ。
  でも、拒否する理由はなかった。
「…頑張る」
  いつも引っ込み思案で臆病だった俺が、初めて決意を固めた。その様子を見て、父さんはかなり驚いた表情で俺を見ていた。
「…まき姉ちゃんが頑張ってるんだから、僕も頑張る」
  隣ではまき姉ちゃんが必死になって生きようとしている。だから、俺も同じように必死になって生きようとしてやる。生きて、まき姉ちゃんが目を覚ました時に「僕だってできるんだぞ!」って自慢してやるんだ。
  こうして、俺は手術することに決めたのだった。

  俺は、彼女を通してかなり成長したと、20歳になった今でも思う。
  もしもあの時、病室を移動することにならなかったら、まき姉ちゃんとは出会わなかったかもしれない。
  もしもまき姉ちゃんの病気が治っていたら、動物園に行っていたのかもしれない。
  もしもまき姉ちゃんが大人になっていたら、一緒にお酒を飲んでいたのかもしれない。
  もしも彼女が生きていたら、一緒に空を見上げていたのかもしれない。
  そして、俺は20歳になった今でも、いや、きっとこの先もずっと、ずっと、想い続けているのかもしれない。


  もしも一つだけ願いが適うのなら、彼女の絵をもう一度見たい、と。




                                              【下】へ続く

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