虐められていた僕はクラスごと転移した異世界で最強の能力を手に入れたので復讐することにした
53・覚悟と信念
足が進む。嫌いだったこの場所も、清々しい気分でいられる。
軽い足取りで向かうは鉄格子の扉によって閉じられた地下室。
未来の絶望を叩きつけ、心をへし折られたが、幼馴染の激励によって再び前に進むことを決めた。
「大丈夫かい?」
心配しているウルドが後ろから声をかけた。
それに対し、薫はいつになく自信に溢れ強気な瞳をぶつける。昨日の間に逞しくなった薫の眼を見て、自分の行いが野暮であると自覚する。
湿度が高く蒸し暑い地下室の鉄格子の前、一度立ち止まり、心を落ち着けて扉を開く。そして、立ち塞がる部屋の悪夢に宣戦布告とばかりに言い放つ。
「さて、捲土重来と行きますか」
扉が開かれる音は地下室に響き渡る。昨日の薫なら、この時点で怨嗟の嗚咽が鼓膜を揺らしていた。
だが今は違う。力強い言葉が、励ましの言葉が今も囁かれているように聞こえてくる。
もう怖くない。たとえ大切な人が目の前で殺されようとももう動じない。
それは絶対にあり得ない。何故なら薫がそうさせないから。
「…………え?」
だが、薫を招いたのは待ち構えていた光景とはかけ離れていた。
漆黒に包まれた空間は、澄み切った空とそよ風が草木を揺らす丘の上に変わっていた。
空気が美味しく、眩暈とした視界には一面の緑が目を癒す。
「どういうこと?」
手で日差しを遮ると、丘の頂上にある一本の大樹が確認できた。
横の広がりが大きい広葉樹だ。そのあたりは日差しが遮られ日陰になっている。その日陰には異様な存在感を際立たせるティーテーブル。
薫は丘を登り始める。特に理由はないが、何故か足が引き寄せられていた。そして、テーブルのある場所まで行くと、途轍もなく凄まじいマナの気配を感じた。
しかし、嫌な感じはしない。細胞の一つ一つが踊りだしそうな、愉快で活発なマナだった。
薫は傍にある大樹に手を当てる。見た感じ相当の年月が経っているようだが、手から感じるのとても生き生きとした生気を感じ、マナもそこから出ているのだと感じ取れた。
瞳を閉じ、肌でその力を感じていると、
「あーそーぼー!」
「うわぁ!?」
突然背後から勢いよく抱き着かれ、大樹に身体をぶつけそうになる。
体制を整え、振り返って声と体当たりの主を確認する。
白い髪に童顔で金色の瞳を宿した少女。身長は百二十センチくらいか、彼女の頭が臍当たりにある。白いワンピースが動き回る彼女に合わせ、風に揺らされている。
「君は?」
「アテネだよ!」
アテネ。走り回る少女は元気にそう名乗った。
薫が思い浮かべるのは知恵や芸術、戦略を司る守護女神。凄いのだろうけど、自分の周りを走り回る彼女は、女神というより、ただの元気な女の子だ。
そして、薫の袖を引き、先ほど同様遊ぼと強請る彼女に、薫は一度アテネを落ち着かせる。
「ちょ、ちょっと待って。その前に幾つか質問していいかな?」
「質問? いいよー」
首を傾げクエスチョンマークを頭上に浮かべると、それを吹き飛ばす勢いで質問を許した。
そんな彼女に愛らしく思いつつ、疲れを感じそうになって苦笑いを浮かべた。
ちょっと待ってと、アテネは純白の椅子に座り、テーブルに手を添えるとティーセットと茶菓子が現れた。大気を集めて作り上げたように見えたその菓子をつまむ少女に、薫は「それで」と話を切り出して、
「ここはどこなんだい?」
「ここ? ここは〖丘上の神殿〗だよ」
「〖丘上の神殿〗……あんまり神殿って感じしないけど」
薫が思い浮かべる神殿はたくさんの石柱が屋根を支えているタイプの神殿だ。それにパルテノン神殿と言えば尚更そちらを思い浮かべる。
だがここは、丘の上という点では適しているが、神殿というにはかけ離れている。
イメージとの相違に歯痒さを感じるが、それについてアテネから説明が入った。
「まーここは玄関だから。本殿は『聖域』にあるよ。多分カオルの思い浮かべた感じのやつ」
「『聖域』って、いやそれよりなんで僕の名前を?」
二つの疑問が浮き出るが、薫は思わず名乗っていないのにアテネが名前を呼んだことに反応してしまった。薫の反射的な質問にアテネは逆に首を傾げながら、
「あれれーウルから聞いてないの? アテネは一部始終見てたよ。カオルが泣いていた時も女の子と抱き合ってた時も」
言われて思い出す幼馴染の抱擁に照れと気恥ずかしさを感じて赤くなる。
一旦昨日の事は忘れようと顔を振って、
「君は何者なんだい?」
「アテネはアテネ。ただの女神だよ。ここは『聖域の入り口』。正確にはその一つなんだけど。ウルから話聞いてない?」
「ウルってウルドさん? 確かに『聖域の入り口』という風には聞いたけど、それって例えなんじゃないの? 当人によって呼び方が変わるって」
「そうなの! 『悪夢の間』とか『冥界の狭間』とか酷いよー。あれはただ単にアテネに会う資格がなかっただけなのにさ」
頬を膨らませてご立腹な様子のアテネ。その様子すらも愛らしく思いながら、現状と彼女の存在について黙考する。
いくつかの呼び名の中でここは『聖域の入り口』というのが公認らしく、そこにいる少女は女神。
信じがたいが、ここは『聖域』の玄関で、彼女は神、つまりはエンスベルと同じ存在であるらしい。
『聖域』の存在は知っていたが、まさかこんなにも速く踏み入れるとは思いもしなかった。それに、神の存在はエンスベルしか認知していなかった為、他の神という存在に驚きを隠せないでいる。
「〖丘上の神殿〗は『聖域』につながるアテネの私有空間なの。カオルはここに入る資格を得たんだよ」
「資格? 何も持ってないけど」
「〖丘上の神殿〗はアテネの従者、つまりは神使になり得る可能性を持った人のみ入ることが許されるんだよ。許されない場合はその人にとって最悪の光景を刻みつける」
「最悪の光景……あれは、本当に起こることなの?」
「未来が見えたのなら起こる確率が高いよ。けど、カオルがここにいるってことはその未来に立ち向かう覚悟を持ったんだよねー」
「つまり、ここに来る条件ってのは……」
「心の強い人、意思の強い人、揺らがない信念と覚悟を持ち合わせている人」
一つ一つ、菓子を口に運んでは提示する条件。薫の心境の変化によって手にしたそれが資格であると告げられて、
「『聖域』が存在と、君の言葉が全て本当だとして、君は一体ここで何をしているの?」
空いていた席に薫も座り、彼女が美味しそうに食べているクッキーを一つ手にとって質問を投げかける。
『聖域』の事や、女神についてなどはこの世界では空想のものとして知られ、それが薫の目の前に存在しているのだが、それ程驚くことはない。なにせ、空想と思われていた世界、異世界に薫はいるのだから、ファンタジーの産物が存在していたとしても、十分に考えられる。
だから、一々真偽の証明をするよりも、これからの話を進める。
おそらく、薫にとって彼女は、今後重要な存在になると、根拠はないが感じていた。
投げかけられた質問を受けると、彼女の金色の双眸が薫を捉えて、ニヤリと笑い、
「だ、か、ら、アテネは神使、つまり契約者を探しているのー」
「契約者?」
「あまり詳しくは聖域規定で話せないんだけど、アテネの従者となる人を探しているのー」
「それで、契約者を探してどうするつもり?」
「それは聖域規定で言えないのー。けどけど、これはカオルにとっても良い話なんだよ」
薫の質問に答えることは出来ないアテネは、悪戯っ子のような笑顔で持ちかけた。
当然薫は首を傾げる事しか出来ず、その反応を受け取ってから、
「カオルが見た光景はほぼ必ず起こると言ってもいいの」
言われて思い出す『死』の世界。その世界を薫に見せた張本人が実現すると言って、全身の毛が逆立つ感覚を覚える。
固めた覚悟が僅かに揺らぎかけ、それでもと再び固める薫に、アテネは「だから」と紡いで、
「アテネと契約しよー。アテネと契約すれば未来を変えるだけの力、権能が手に入るの」
「権能……それは、君の優しさなのかな?」
途端に彼女から笑顔が消えた。空気が震え、無垢な眼は冷たく、そしてもう一度笑みを浮かべた時は、それはもう子供の笑顔ではなくて、
「残念だけど、これは契約。相応の対価をカオルから貰うの」
潰されそうな重みを持つ冷たい声は、薫に冷や汗をかかせるほどの圧力を持っていた。
そして、恐る恐る探るように、
「対価って……」
「ある人は人体の一部を、ある人は感情を、ある人は記憶を払った人もいたの。でもそれは単に差し出せば良いという訳ではないの」
「と、言うと?」
「美味しいお菓子にはお金がかかるの。強い権能を得るには、その分の対価を必要とする。それは、量や質で変化するの。けど、何を差し出しても、カオルはカオルでなくなるの」
それは薫にとっては最悪の不利益で、彼女にとっては隠しておきたい事実だ。だが、アテネはその一切を隠さずに打ち明ける。
「僕が僕でなくなる……」
「そ。感情でも記憶でも失えば見える世界はぐんと変わるの。いきなり目が見えなくなったら生活の仕方が変わるのと同じなの」
「つまり、権能という力を得る代わりに、僕は人間として、僕を構成する何かを失うって事でいいのかな?」
「そうなの。価値観、思想、性格……どう変化するかは分からないけど、少なくとも薫が守りたい人は守れるよー」
彼女は薫の望みを叶えようとしている。叶えられる力を与えようとしていて、その対価もしっかり説明している。
だが、アテネの少なくともという言葉が引っかかって、
「少なくともって?」
「……」
アテネは無言でカップを傾けて、一度間を区切ると、
「誰かを助けるには、時に誰かを犠牲にしなくちゃいけないの。カオルはその犠牲を受け入れる事になるの」
犠牲の許容。犠牲を失くすではなく、犠牲を少なくするという考え方。
それは薫の思想とすれ違うものだ。
それが世界の理だとしても、薫の言っていることが綺麗事だとしても、
「ごめんだけど、君と契約は出来ない」
強く拒絶の言葉を言い放つ事が今の薫には出来た。薫の周りには、仕方がないと切り離せる人はおらず、犠牲を受け入れる行為は、今の薫を信じて、支えてくれる人を失望させてしまうからだ。
「僕は君が提示した最悪の未来を変えるよ。けど、それは女神の神使じゃなく、ちーちゃんが凄いと言ってくれた相沢薫として、だ」
強くて勇気を、逞しい覚悟を持った自分。
傍に居たいと言ってもらえた自分。
支えになって上げたいと、心から囁いてもらえた自分。
そんな自分を今は肯定し、これからもそうありたいと思っている。
だからこそ、彼女の提案は呑めない。
「…………」
薫の決意にアテナは俯いて、
「ぷっ、アハハハハハハ!」
笑う笑う。その姿は再び無垢な表情に戻っていて、彼女の哄笑に気取られていた。
そして、お腹を抑えて尻目に涙を浮かべるほどに笑いきり、落ち着くと片目を瞑り、
「カオルって面白ーい。いいよー。カオルのやりたいようにやってみればいいの。いや、むしろやってほしいの」
その童顔からは考えられない嫣然とした表情で、
「じゃあカオルがアテネの力を求めるまで、カオルの奮闘を俯瞰させてもらうの」
彼女は立ち上がり、薫の傍に移動する。
薫は座り、彼女が立っていて、丁度目の高さが合う。
金色の双眸に自分が映されて、吸い込まれそうな圧力を感じる。
「カオル、手貸して」
「手? こう?」
言われるがまま、アテナの前に右手を出すと、アテネの小さな手が薫の手をとって、きめ細かい肌感を感じて赤面する薫を気にせず、手の甲に何か指でなぞる。
「これは許可証なの。カオルには〖丘上の神殿〗の本殿に招待するの」
「本殿に入る許可証……」
手の甲に銀光を出しながら浮かび上がる紋様は、梟の顔を彷彿とさせるシンプルなデザインで、数秒光り輝いた後は、何事もなかったかのように消えていく。
「その許可証は一度きり使用できるの。次来るときはアテネと契約を結ぶときなの」
「君とはまた会いたいけど、そういう事ならもう会いたくないかな」
はしゃぐアテネと苦笑する薫。
そして、そろそろ御暇しようと立ち上がって、
「ねぇアテナ……僕はどうやって帰ればいいの?」
「……アテネと遊ぶといいのー!」
絶対嘘だなと思いつつ、薫はアテネの無垢な眼で向ける懇願を断る事が出来なかった。
流石の薫も、三時間も付き合わされる事になるとは思いもしなかった。
********************
瞼を開けると、そこは光源がない湿気た空間だった。
新鮮な空気は再び苔臭さで汚染される。
「……」
「カオル君……」
ウルドの呼び掛けに、薫は意識と現実の時間差に混乱してしまったが、何故かそれ程機に止める事に感じなかった。
そんな事気にならないほどに、薫の心は達成感や満足感に近しい何かで満たされていた。
それは自分の中だけでなく、雰囲気で滲み出ていて、ウルドの顔に笑みが浮かぶ。
「おめでとうカオル君。その様子だと上手くいったんだね」
上手くいったかどうかは分からない。が、少なくとも納得のいく結果にはなったと思う。
だからこそ、迷いの無い顔で言う事が出来る。
――薫の覚悟と信念を。
「救ってみせますよ。全て、この手で」
軽い足取りで向かうは鉄格子の扉によって閉じられた地下室。
未来の絶望を叩きつけ、心をへし折られたが、幼馴染の激励によって再び前に進むことを決めた。
「大丈夫かい?」
心配しているウルドが後ろから声をかけた。
それに対し、薫はいつになく自信に溢れ強気な瞳をぶつける。昨日の間に逞しくなった薫の眼を見て、自分の行いが野暮であると自覚する。
湿度が高く蒸し暑い地下室の鉄格子の前、一度立ち止まり、心を落ち着けて扉を開く。そして、立ち塞がる部屋の悪夢に宣戦布告とばかりに言い放つ。
「さて、捲土重来と行きますか」
扉が開かれる音は地下室に響き渡る。昨日の薫なら、この時点で怨嗟の嗚咽が鼓膜を揺らしていた。
だが今は違う。力強い言葉が、励ましの言葉が今も囁かれているように聞こえてくる。
もう怖くない。たとえ大切な人が目の前で殺されようとももう動じない。
それは絶対にあり得ない。何故なら薫がそうさせないから。
「…………え?」
だが、薫を招いたのは待ち構えていた光景とはかけ離れていた。
漆黒に包まれた空間は、澄み切った空とそよ風が草木を揺らす丘の上に変わっていた。
空気が美味しく、眩暈とした視界には一面の緑が目を癒す。
「どういうこと?」
手で日差しを遮ると、丘の頂上にある一本の大樹が確認できた。
横の広がりが大きい広葉樹だ。そのあたりは日差しが遮られ日陰になっている。その日陰には異様な存在感を際立たせるティーテーブル。
薫は丘を登り始める。特に理由はないが、何故か足が引き寄せられていた。そして、テーブルのある場所まで行くと、途轍もなく凄まじいマナの気配を感じた。
しかし、嫌な感じはしない。細胞の一つ一つが踊りだしそうな、愉快で活発なマナだった。
薫は傍にある大樹に手を当てる。見た感じ相当の年月が経っているようだが、手から感じるのとても生き生きとした生気を感じ、マナもそこから出ているのだと感じ取れた。
瞳を閉じ、肌でその力を感じていると、
「あーそーぼー!」
「うわぁ!?」
突然背後から勢いよく抱き着かれ、大樹に身体をぶつけそうになる。
体制を整え、振り返って声と体当たりの主を確認する。
白い髪に童顔で金色の瞳を宿した少女。身長は百二十センチくらいか、彼女の頭が臍当たりにある。白いワンピースが動き回る彼女に合わせ、風に揺らされている。
「君は?」
「アテネだよ!」
アテネ。走り回る少女は元気にそう名乗った。
薫が思い浮かべるのは知恵や芸術、戦略を司る守護女神。凄いのだろうけど、自分の周りを走り回る彼女は、女神というより、ただの元気な女の子だ。
そして、薫の袖を引き、先ほど同様遊ぼと強請る彼女に、薫は一度アテネを落ち着かせる。
「ちょ、ちょっと待って。その前に幾つか質問していいかな?」
「質問? いいよー」
首を傾げクエスチョンマークを頭上に浮かべると、それを吹き飛ばす勢いで質問を許した。
そんな彼女に愛らしく思いつつ、疲れを感じそうになって苦笑いを浮かべた。
ちょっと待ってと、アテネは純白の椅子に座り、テーブルに手を添えるとティーセットと茶菓子が現れた。大気を集めて作り上げたように見えたその菓子をつまむ少女に、薫は「それで」と話を切り出して、
「ここはどこなんだい?」
「ここ? ここは〖丘上の神殿〗だよ」
「〖丘上の神殿〗……あんまり神殿って感じしないけど」
薫が思い浮かべる神殿はたくさんの石柱が屋根を支えているタイプの神殿だ。それにパルテノン神殿と言えば尚更そちらを思い浮かべる。
だがここは、丘の上という点では適しているが、神殿というにはかけ離れている。
イメージとの相違に歯痒さを感じるが、それについてアテネから説明が入った。
「まーここは玄関だから。本殿は『聖域』にあるよ。多分カオルの思い浮かべた感じのやつ」
「『聖域』って、いやそれよりなんで僕の名前を?」
二つの疑問が浮き出るが、薫は思わず名乗っていないのにアテネが名前を呼んだことに反応してしまった。薫の反射的な質問にアテネは逆に首を傾げながら、
「あれれーウルから聞いてないの? アテネは一部始終見てたよ。カオルが泣いていた時も女の子と抱き合ってた時も」
言われて思い出す幼馴染の抱擁に照れと気恥ずかしさを感じて赤くなる。
一旦昨日の事は忘れようと顔を振って、
「君は何者なんだい?」
「アテネはアテネ。ただの女神だよ。ここは『聖域の入り口』。正確にはその一つなんだけど。ウルから話聞いてない?」
「ウルってウルドさん? 確かに『聖域の入り口』という風には聞いたけど、それって例えなんじゃないの? 当人によって呼び方が変わるって」
「そうなの! 『悪夢の間』とか『冥界の狭間』とか酷いよー。あれはただ単にアテネに会う資格がなかっただけなのにさ」
頬を膨らませてご立腹な様子のアテネ。その様子すらも愛らしく思いながら、現状と彼女の存在について黙考する。
いくつかの呼び名の中でここは『聖域の入り口』というのが公認らしく、そこにいる少女は女神。
信じがたいが、ここは『聖域』の玄関で、彼女は神、つまりはエンスベルと同じ存在であるらしい。
『聖域』の存在は知っていたが、まさかこんなにも速く踏み入れるとは思いもしなかった。それに、神の存在はエンスベルしか認知していなかった為、他の神という存在に驚きを隠せないでいる。
「〖丘上の神殿〗は『聖域』につながるアテネの私有空間なの。カオルはここに入る資格を得たんだよ」
「資格? 何も持ってないけど」
「〖丘上の神殿〗はアテネの従者、つまりは神使になり得る可能性を持った人のみ入ることが許されるんだよ。許されない場合はその人にとって最悪の光景を刻みつける」
「最悪の光景……あれは、本当に起こることなの?」
「未来が見えたのなら起こる確率が高いよ。けど、カオルがここにいるってことはその未来に立ち向かう覚悟を持ったんだよねー」
「つまり、ここに来る条件ってのは……」
「心の強い人、意思の強い人、揺らがない信念と覚悟を持ち合わせている人」
一つ一つ、菓子を口に運んでは提示する条件。薫の心境の変化によって手にしたそれが資格であると告げられて、
「『聖域』が存在と、君の言葉が全て本当だとして、君は一体ここで何をしているの?」
空いていた席に薫も座り、彼女が美味しそうに食べているクッキーを一つ手にとって質問を投げかける。
『聖域』の事や、女神についてなどはこの世界では空想のものとして知られ、それが薫の目の前に存在しているのだが、それ程驚くことはない。なにせ、空想と思われていた世界、異世界に薫はいるのだから、ファンタジーの産物が存在していたとしても、十分に考えられる。
だから、一々真偽の証明をするよりも、これからの話を進める。
おそらく、薫にとって彼女は、今後重要な存在になると、根拠はないが感じていた。
投げかけられた質問を受けると、彼女の金色の双眸が薫を捉えて、ニヤリと笑い、
「だ、か、ら、アテネは神使、つまり契約者を探しているのー」
「契約者?」
「あまり詳しくは聖域規定で話せないんだけど、アテネの従者となる人を探しているのー」
「それで、契約者を探してどうするつもり?」
「それは聖域規定で言えないのー。けどけど、これはカオルにとっても良い話なんだよ」
薫の質問に答えることは出来ないアテネは、悪戯っ子のような笑顔で持ちかけた。
当然薫は首を傾げる事しか出来ず、その反応を受け取ってから、
「カオルが見た光景はほぼ必ず起こると言ってもいいの」
言われて思い出す『死』の世界。その世界を薫に見せた張本人が実現すると言って、全身の毛が逆立つ感覚を覚える。
固めた覚悟が僅かに揺らぎかけ、それでもと再び固める薫に、アテネは「だから」と紡いで、
「アテネと契約しよー。アテネと契約すれば未来を変えるだけの力、権能が手に入るの」
「権能……それは、君の優しさなのかな?」
途端に彼女から笑顔が消えた。空気が震え、無垢な眼は冷たく、そしてもう一度笑みを浮かべた時は、それはもう子供の笑顔ではなくて、
「残念だけど、これは契約。相応の対価をカオルから貰うの」
潰されそうな重みを持つ冷たい声は、薫に冷や汗をかかせるほどの圧力を持っていた。
そして、恐る恐る探るように、
「対価って……」
「ある人は人体の一部を、ある人は感情を、ある人は記憶を払った人もいたの。でもそれは単に差し出せば良いという訳ではないの」
「と、言うと?」
「美味しいお菓子にはお金がかかるの。強い権能を得るには、その分の対価を必要とする。それは、量や質で変化するの。けど、何を差し出しても、カオルはカオルでなくなるの」
それは薫にとっては最悪の不利益で、彼女にとっては隠しておきたい事実だ。だが、アテネはその一切を隠さずに打ち明ける。
「僕が僕でなくなる……」
「そ。感情でも記憶でも失えば見える世界はぐんと変わるの。いきなり目が見えなくなったら生活の仕方が変わるのと同じなの」
「つまり、権能という力を得る代わりに、僕は人間として、僕を構成する何かを失うって事でいいのかな?」
「そうなの。価値観、思想、性格……どう変化するかは分からないけど、少なくとも薫が守りたい人は守れるよー」
彼女は薫の望みを叶えようとしている。叶えられる力を与えようとしていて、その対価もしっかり説明している。
だが、アテネの少なくともという言葉が引っかかって、
「少なくともって?」
「……」
アテネは無言でカップを傾けて、一度間を区切ると、
「誰かを助けるには、時に誰かを犠牲にしなくちゃいけないの。カオルはその犠牲を受け入れる事になるの」
犠牲の許容。犠牲を失くすではなく、犠牲を少なくするという考え方。
それは薫の思想とすれ違うものだ。
それが世界の理だとしても、薫の言っていることが綺麗事だとしても、
「ごめんだけど、君と契約は出来ない」
強く拒絶の言葉を言い放つ事が今の薫には出来た。薫の周りには、仕方がないと切り離せる人はおらず、犠牲を受け入れる行為は、今の薫を信じて、支えてくれる人を失望させてしまうからだ。
「僕は君が提示した最悪の未来を変えるよ。けど、それは女神の神使じゃなく、ちーちゃんが凄いと言ってくれた相沢薫として、だ」
強くて勇気を、逞しい覚悟を持った自分。
傍に居たいと言ってもらえた自分。
支えになって上げたいと、心から囁いてもらえた自分。
そんな自分を今は肯定し、これからもそうありたいと思っている。
だからこそ、彼女の提案は呑めない。
「…………」
薫の決意にアテナは俯いて、
「ぷっ、アハハハハハハ!」
笑う笑う。その姿は再び無垢な表情に戻っていて、彼女の哄笑に気取られていた。
そして、お腹を抑えて尻目に涙を浮かべるほどに笑いきり、落ち着くと片目を瞑り、
「カオルって面白ーい。いいよー。カオルのやりたいようにやってみればいいの。いや、むしろやってほしいの」
その童顔からは考えられない嫣然とした表情で、
「じゃあカオルがアテネの力を求めるまで、カオルの奮闘を俯瞰させてもらうの」
彼女は立ち上がり、薫の傍に移動する。
薫は座り、彼女が立っていて、丁度目の高さが合う。
金色の双眸に自分が映されて、吸い込まれそうな圧力を感じる。
「カオル、手貸して」
「手? こう?」
言われるがまま、アテナの前に右手を出すと、アテネの小さな手が薫の手をとって、きめ細かい肌感を感じて赤面する薫を気にせず、手の甲に何か指でなぞる。
「これは許可証なの。カオルには〖丘上の神殿〗の本殿に招待するの」
「本殿に入る許可証……」
手の甲に銀光を出しながら浮かび上がる紋様は、梟の顔を彷彿とさせるシンプルなデザインで、数秒光り輝いた後は、何事もなかったかのように消えていく。
「その許可証は一度きり使用できるの。次来るときはアテネと契約を結ぶときなの」
「君とはまた会いたいけど、そういう事ならもう会いたくないかな」
はしゃぐアテネと苦笑する薫。
そして、そろそろ御暇しようと立ち上がって、
「ねぇアテナ……僕はどうやって帰ればいいの?」
「……アテネと遊ぶといいのー!」
絶対嘘だなと思いつつ、薫はアテネの無垢な眼で向ける懇願を断る事が出来なかった。
流石の薫も、三時間も付き合わされる事になるとは思いもしなかった。
********************
瞼を開けると、そこは光源がない湿気た空間だった。
新鮮な空気は再び苔臭さで汚染される。
「……」
「カオル君……」
ウルドの呼び掛けに、薫は意識と現実の時間差に混乱してしまったが、何故かそれ程機に止める事に感じなかった。
そんな事気にならないほどに、薫の心は達成感や満足感に近しい何かで満たされていた。
それは自分の中だけでなく、雰囲気で滲み出ていて、ウルドの顔に笑みが浮かぶ。
「おめでとうカオル君。その様子だと上手くいったんだね」
上手くいったかどうかは分からない。が、少なくとも納得のいく結果にはなったと思う。
だからこそ、迷いの無い顔で言う事が出来る。
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