生意気な義弟ができました。

鈴木ソラ

気になる先生ができました。〈番外編2〉




先生の項に付けられていた痕が、やはり、あの噂の証明になっている。誰かが俺と同じものを見て話を流したのか、それとも、そんな根も葉もない噂が出回っているときに偶然、俺がアレを見てしまったのか。どちらにしろ、タイミングが悪い。


「あーきーひーとー」

ふいに名前を呼ばれ、ハッと我に返る。隣を見れば、いつものように凛太が俺の机に寄りかかってこちらを見ていた。

「珍しいじゃん、秋人がぼーっとしてるって」
「……別に、少し考え事してただけだ」

平常を装わねば、勘の鋭い凛太にはすぐ様子がおかしいとからかわれてしまう。俺は机の上に一時間目の教材を出して、いつも通り授業の準備をする。すると凛太がその中からテキストをひとつ持ち上げてニヤリと笑った。

「秋人クン?一時間目は古典じゃなくて数学ですよ」
「……………………間違えただけだろ」

俺はイラッとしてテキストを奪い返そうと手を伸ばす。が、もちろんそれは空をかいてテキストはひょいと俺から距離をとる。

「うっそだー、いつもの秋人ならそーんな間違いしないけど?」
「いいから返せ。返さないとこの間のテストの点おばさんにバラすぞ」

俺がそう脅すと、凛太の手はピタリと止まる。その隙にテキストをパシッと取り返して、俺は溜息をついた。そんなことをしている間に、一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴る。教室中がガタガタと動き出し、慌てて席に戻る生徒が数名。そんな中、教室の扉を開けて鴨野先生が入ってくる。

「よーし、授業始めるぞー」

そう言って、早速黒板にカツカツとチョークで数式を並べていく。俺はその後ろ姿をじっと見つめた。無意識に視線は先生の首元に寄ってしまう。

結局、あの噂はまだ少し生徒の間を漂っている。先生は恋人がいるかどうかについては口を開かないし、どうせ俺が見たもの以外なんの確証もない噂なのだから、すぐに忘れられるだろう。

「よーし、これ昨日やった公式。はいじゃあ和田くん、このaの意味はなんだったかな」

先生は一通り公式を書き終えると振り返って、昨日の質問を根に持っているかのようにあのお調子者の生徒を指名する。教室にはいつも通りの空気が流れている。

というか、教師という立場でありながらあんな分かりやすいところに痕を残しておくというのは、如何なものか。いや、先生は教師である前に一個人なのだから、恋人もいれば性行為だってするだろう。けれど何かが、俺の中に引っかかっている。

「昨日やったばっかなのに忘れたの?仕方ないなあ」

そこで俺は昨日凛太が言っていたことを思い出した。所謂ギャップというやつだ。一見恋愛とは無縁そうな鴨野先生が、首にキスマークを付けていたというイメージとの隔たりは、通常よりも強く印象に残るものである。

「楠木くん?聞いてる?」

気づけば机の前まで先生が来ていて、心配そうな顔でこちらを覗き込んできていた。俺はハッと我に返る。

「…えっと、すみません、聞いてませんでした」
「珍しいね、どこか体調でも悪い?保健室行く?」
「いや、大丈夫です」

俺がそう答えれば、先生は安心したようにまた授業を再開する。

情報通な凛太でさえ噂の根拠を知らないのだから、アレを見たのは俺だけなのだろうか。












「真澄ちゃんの彼女ってさ、絶対歳上だよなー」

いつも通りの昼休み、心地のいい春日和の風が吹き抜ける屋上で凛太が言った。さっき購買で買ったメロンパンを頬張りつつ、その口は楽しそうに喋る。

「…まだいるって決まったわけじゃないだろ」
「そーだけどさ、火のないところに煙は立たないって言うじゃんか」

凛太は珍しくそれっぽいことを言った。

「そんでさ、ちょこーっといろいろ聞き回ってみたんだけど、キスマーク見たって奴がいるらしいんだよな」

凛太の口から出たワードに思わず、俺はその顔を見てしまった。

「お?なに?興味アリ?」

凛太はニヤリと口角を上げた。俺は視界の端に視線を逃がす。

「…………いや、別に、」
「でもホントかなー、そんなの聞いたら見てみたくね?秋人クン」

俺の話を聞かずに、こちらを覗き込んで凛太はそう問う。サラリと金色の髪が揺れ、よく見れば碧眼であることも伝わる。その両目でじっと見つめられ、俺はまたもや逃げるように視線を流した。

「…やめとけ、そんなくだらないこと」
「えー、クールぶっちゃって。ってか、俺もそんな熱烈な彼女ほしー」

凛太は俺から視線を外して何もない空を見ながらそう言った。どう見ても呑気な態度で、どれもこいつの口から出るものは本気かどうか疑わしい。

そんな幼馴染は友人に用があるらしく、メロンパンを食べ終えればすぐに屋上を下りて行った。取り残された俺は呆然と空を見上げたり、校舎の中から聞こえる笑い声に耳を澄ませたりして暇を潰した。やがてそれにも飽きて教室に戻ろうと思えば、その道中、準備室から出てくる鴨野先生を見かけた。俺はふと何か違和感を感じて思わず立ち止まる。

いつもワイシャツの先生が、今日はラフなティーシャツを着ている。いや、朝まではワイシャツだったか。

最初はそんなどうでもいい違和感で立ち止まったが、すぐに目を疑うものを見て、俺は先生の方に向かって早足で踏み出た。

────キスマーク。

しかもあんなに堂々と。

俺が近づいていくと先生はこちらを振り返ってぽかんとしたが、無視して俺はその手首を掴んで準備室に引き戻した。ピシャンと扉を閉めれば、先生は驚いた顔で俺を見る。その開いた胸元には、いくつかの小さな痕が主張している。

「なに、考えてるんですか」

生徒が先生に対して利くような口ではないが、俺はそんなことも気にしないくらい、正直衝撃を受けていた。

「……えっ……え…?」

先生は訳が分からないと言うように、困惑した表情で俺を見上げる。

「服、どうしたんですか」
「……ふ、服……?えっと、さっき水道で遊んでる生徒注意しに行ったら、事故で水被っちゃって…風邪ひくから着替えたんだけど……、え…?」

先生は着替えるまでの経緯を説明するも、未だ混乱したような目で俺を不安げに見る。俺はその目を見て、なぜだか溜息をつきたくなった。先生の手首を掴んだままの右手から、俺は力を抜く。

「…………着替えてから会ったの、俺の他に誰かいますか」
「…いや?今ここで着替えたし、楠木くんだけだけど…どうして?」

まだその首に堂々と付けられた痕の存在に気づいていないのか。いや、それも無理はないのかもしれない。正面の首や鎖骨に付けられたものはまだ目立たないが、後ろの項やらに付けられたものは誰が見てもキスマークだと分かってしまう。

「………キスマーク、晒してどうするんですか、教師のくせに」

こんなに生意気な口を叩いたのは初めてかもしれない。

そんなことを思ってから先生に視線をやると、先生はこれでもかと言うくらい顔を真っ赤にして俯いていた。俺はその様子に、なんだか腹の中をかき混ぜられるような浮き立った感覚を覚える。

「………い、…いつからっ…?」

俺に問いているのか、それとも自分の過去の記憶に問いているのか。どちらにせよ、すごく動揺しているようだった。

「そんな堂々と晒してるのは今日だけですよ、いつもはまぁ、大丈夫です。たぶん誰も気づいてない、と思います」

混乱した様子の先生を落ち着かせるために、俺は慰めの言葉をかける。

「……ど、どこっ?き、キスマーク…」

先生は慌てた様子で自分の首元を触る。

「前のはそんな目立たないですけど、一番目に付くのは、ここです」

先生の項に手をまわして指でそれをなぞると、先生はビクリと肩を揺らした。その反応に思わず、俺はすぐに手を引っ込める。

「………………あ…ありがとう…教えてくれて…。…なんか…楠木くんには、みっともないとこばっか見せちゃってるな…」

ずっと顔を赤くしたまま、困ったように笑って首元を押さえる。俺はその様子を見て、また心の中で溜息を吐く。

「…俺のジャージ持ってきます、とりあえずそれ着て首隠してください」
「……た、助かるよ…ほんと、ありがとう」

先生の白い肌には、何度見てもやはりいくつかのキスマークが存在を主張している。顔も名前も知らぬ先生の恋人が、まるで先生の周囲に牽制でもしているかのようだ。相当、独占欲が強いらしい。

「…でも、びっくりしたよ。すごい形相でこっち来るから、なんか怒られると思っちゃった」

先生は、少し苦笑いでそう言う。

「…怒る?」

俺が?先生を?
逆だろう。本来なら先生が生徒を叱るべき立場のはずだ。俺が先生に対して憤りを覚えるなんて、そんなこと。


─────いや、そうか。俺は先生に怒っているのか。こんな頼りない人に、俺は憤っているのか。じゃなきゃ、この、胸がざわつくような居心地の悪さに説明がつかない。

「ま、まあ、怒られたも同然だよね…教師なのに…ごめん」
「……………いえ」

まだ恥ずかしそうに顔を赤くして、先生は落ち込むように俯く。なんだか俺が、悪いことをしたような気になる。

「…気をつけてください。学校なんて、どこで誰が見てるか分からないんですから」

俺がそう言うと、先生は黙ってうなづいた。午後の授業では先生が俺のジャージを着ていることについてクラス中が騒いだが、偶然通りかかっただけで深い意味は無いと誤魔化しておいた。




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