生意気な義弟ができました。
気になる先生ができました。〈番外編1〉
今年の春は、例年より暖かいとどこのテレビ番組でも取り上げていた。少し開けられた窓の隙間から、生暖かい風に乗って春の陽気が吹き込む。
「楠木くん」
窓の外を眺めていれば、黒板の前から名前を呼ばれる。俺は外の景色からそちらへ視線を移した。
「6月にやる文化祭の出し物、前に出て決めてもらってもいいかな」
そう言ってプリントを手渡してきたのは、今年クラス担任になった鴨野 真澄 先生。生徒にも低姿勢でそう頼むのは、他と比べてまだ教職4年目の若手だからだろうか。俺ははいと返事をして席を立った。
「クラスでやる出し物、何か案ある人は手挙げて。ちなみに注意事項は───」
黒板の前に立って、淡々とプリントに書いてあることをクラスメイトに伝える。みんなは静かに俺の話を聞いてくれているようで、少し考える時間を与えれば案もいくつか出てきた。話し合いが終わった頃には、先生は職員室へ呼ばれて教室を出て行ったようだった。ちょうど授業の終わりを告げるチャイムも鳴ったので、教室は一斉に騒がしくなる。俺はプリントに決定事項を記入してから、その喧騒に紛れて教室を出て職員室に向かった。
「鴨野先生」
職員室の扉を開けて、一番手前のデスクに座る先生に声をかける。俺の存在に気づいたようで、こちらを振り返って真っ先に申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、さっきまで電話対応してて…話し合い全部楠木くんに任せちゃったね…」
「いえ、一応委員長なんで、これくらいのことは」
俺がプリントを手渡せば、先生はそれに目を通してから、担任確認の欄に自分の名前を書いてサインをした。
「クラスメイトの推薦で委員長になっちゃったけど、ほんとに大丈夫?楠木くんってたしか生徒会の方も会計担当してたよね」
ペンを置いて、先生は俺の顔を見た。
「はい、でも大丈夫です。去年も委員長やったから大体仕事は分かってますし、生徒会の方は会計って言ってもまだ先輩の補佐くらいですし」
実際のところ、そこまで大変という訳でもない。それに、こういうのは誰かしらが仕切らないと話が進まないものだ。
「でも後期になったら、生徒会も2年生中心で組織して仕事こなすんだよね?もし大変になったら、後期からでも委員長変われるからその時は言ってね」
物腰柔らかく笑って、そう言葉をかける。
記憶によれば確か、先生は生徒会の担当だった気がする。今年の新任式で、生徒会担当として紹介されていたと思う。まだこの学校の勝手もよくわからないらしいが、任せて大丈夫なのだろうか。
用も済んで職員室を出ようと振り返ると、先生が声を上げて後ろから俺を呼び止めた。
「忘れてた、あともう一個頼み事があって…、文化祭当日のさ、係のことなんだけど、今週中にクラスで分担決めておいて欲しいんだ」
そう言って、先生は新しいプリントを机から出して俺に見せた。俺はそれを受け取って目を通す。
「分かりました、決まったらまた先生に見せます」
「うん、お願いします」
先生は丁寧にそう言って、また笑った。
翌朝、教室に入ると気のせいかいつもより落ち着きのない空気が漂っているような気がした。とりあえず自分の席につくと、すぐさま友人が声をかけてくる。
「秋人、なんで教室がこーんなざわついてるか気になんない?」
楽しそうな様子でニヤニヤとそう問いかけてくるのは、腐れ縁の幼馴染、桐谷 凛太。アメリカと日本のハーフで、明るい金髪が今日もよく目立つ。
「気にならなくないけど、聞いたところで凛太は教えてくれるのか」
「んー、今日の課題写させてくれたら教えてやるかな〜」
「なら別にいい」
ふざける凛太に冷たく言い放つと、凛太は慌てたように俺の机を叩いた。バンッと音を立てて机が揺れる。
「ち、ちょっと秋人クン?ウソだから、ウソだから言わせてっ?むしろこっちが言いたくてたまらないから言わせてっ?」
「ならさっさと言え」
凛太は、今日もクールだなぁ、とか冷やかしながら、教室の不自然な空気のわけをペラペラと喋り始めた。
「それがさ、気になる噂が昨日クラスに出回って」
小声で、ひそひそ話でもするかのように口元に手を立ててそう話した。どうせ教室中その話で持ち切りなのだから密かにする必要も無いのに。
「真澄ちゃんに、恋人がいるって噂」
俺はそれを聞いて、唖然とした。
"真澄ちゃん"とはもちろん、担任の鴨野先生のことだ。クラスの奴らが勝手にそう呼んでるらしい。本人も嫌がらないので、周りはみんなそう呼んで親しんでいる。
「……なんだ、そんなことか」
「そ、そんなことって、驚かねーの?」
凛太は、興味を失くした俺に小柄な体で詰め寄った。
「だってだって、あの真澄ちゃんだぜ?鈍感で天然、恋愛とは無縁そうなあの真澄ちゃん!」
よくもまあ、まだ出会って一ヶ月ほどしか経っていない先生のことをそこまで知っているものだ。確かにまぁ、少し頼りないところはあるとは思うが。
「別に、いたっておかしくないだろ。そこまで騒ぎ立てる話じゃない」
「そーだけど、女子はちょっと寂しがってたぜ?ほら、真澄ちゃん可愛いって女子から人気だし」
一般成人男性を、しかも教師に対して可愛いと称すのはどうなのだろうか。まぁきっと見た目とかの話ではなく、言動や雰囲気を見てそう言っているのだろう。それならまだ納得はいく気がする。決して可愛いとは思わないが。
「その噂どこから出たんだ?」
「え?んー、俺も友達から聞いただけだからよく知らねー」
「なら信じるのも馬鹿馬鹿しい話だな」
俺がそう切り捨てれば、ちょうどチャイムが鳴った。凛太は冷たい態度な俺の愚痴を零しつつ、席へ戻って行った。
少しすれば、いつもの調子で鴨野先生が教室の扉を開けて入ってくる。
「おはよう、じゃあ出席とるよー」
そう言って名簿を机の上に出したところで、クラスのお調子者の一人が、元気よく手を挙げた。先生は、ポカンとしながらもその生徒の名前を呼んで用を問う。
「真澄ちゃんに恋人がいるってホント?」
はっきりとそう聞かれると、先生はあからさまに驚いて名簿を床に落とす。その様子に、教室中に笑いが溢れた。
「……へっ?こ、恋人……?って…、ぜ、全然関係ない話でしょ和田くんっ!」
先生は、一瞬驚きながらも、ふざけた質問をした生徒を叱りつけた。それもまったく怖くはないので、クラスメイトはみんな楽しそうだ。先生は気を取り直して、落とした名簿を拾って出席をとり始めた。
結局、その噂の真偽は謎のままだった。
放課後、頼まれていた分担を早速決め終えたので、帰り際にプリントを提出しに職員室へ寄ることにした。けれど訪ねた職員室に鴨野先生の姿は無くて、聞けばどうやら数学準備室にいるらしい。
準備室が隣り合わせに配置され、少し影の薄い校舎の隅まで来た。数学準備室と表記された扉を軽くノックすれば、中から鴨野先生の返事をする声が聞こえたので、俺はガラリと扉を開ける。
「先生、分担決め───」
そこまで言って中に立ち入ろうとすると、先生は慌てて声を上げた。
「あっ、ちょ、っと待って楠木くん!」
その場で止まるように両手でジェスチャーされ、俺はピタリと止まる。
「そ、そこ、足下に大事な資料が置いてあって……えーっと、ちょっと待っててくれるっ?」
俺の足下を指さして、散らかった資料を踏まないように慎重にこちらへ駆け寄ってきた。どうやら見てみれば、この部屋は数学についての資料で散らかり放題らしい。先生が俺の足下の資料を退かすと、ようやく足の踏み場ができた。
「ごめんごめん、えっと、なんだっけ?」
俺の前に立って、先生は用を聞く。こうして並んで立つと、先生が俺よりも小柄で背が低いことに気づく。
「…あぁ、えっと、分担決め終わったのでプリントを持ってきたんです」
「えっ?もう決めたの?早いね」
そう言って、ペンを取りに行こうと机の方に向かう。が、先生の目にはまだ取り残された足下の資料が見えていないようだった。
「ちょ、先生、そこ───」
「えっ、」
先生の腕を掴んで資料を踏みそうになるのを阻止しようとするが、先生は呑気に足下を見ないままこちらを振り返る。同時に、俺の体は一気にガクンと下に引っ張られた。
「い、てて……」
そう唸る声が聞こえて、俺は反射的に瞑った目を開く。倒れた先は床ではなくちょうど棚だったようで、アルミ製の棚に思いっきりついた両腕がヒリヒリと痛む。俺の膝の下には、元凶となった資料らしきものが下敷きになっている。が、それよりも、俺と棚に挟まれるように倒れ込んだ先生が、頭を打ったのか後頭部を抱えているようだった。
「…………資料、気をつけるのは先生の方じゃないですか」
俺がその様子を見て少し呆れながら言うと、先生は苦笑いでごめんと一言謝った。先生が起き上がろうとすると、先生の服の襟が棚の金具部分に引っかかっているのが見えた。
「ちょっと待ってください先生、なんか、引っかかってます」
「えっ?えぇ?」
混乱する先生を無視して、俺は先生の襟に手をかけた。
襟の隙間から先生の項が覗く。思っていたよりもずっと白くて細い。そしてそこには、目立つ痣があった。いや、痣というよりも──────キスマーク。
「楠木くん?も、もういいかな?」
困惑したような声にハッと我に返り、俺はすぐさま手を離した。
「…はい、大丈夫です」
俺は立ち上がって、先生に手を差し伸べた。先生はありがとうと言って手を取り立ち上がる。
「…あー…資料ぐっちゃぐちゃだ…」
苦笑いで先生は散らかった床を見つめた。
痕の存在に、気づいてないのか。
「…なんでここ、こんなに散らかってるんですか」
わざわざ聞かなくてもよかったが、他に言うことも無くて、いや、今見たものから意識を背けたかったからか、俺はそんな質問をした。
「俺が散らかしたんじゃないよ?ずっと放置されてたみたいで、時間があるときに片付けようと思ったんだけど…」
「この有り様ですか」
俺が溜息をつけば、先生はまた困ったように笑う。本当に頼りない人だ。
「あっ、楠木くん、血……」
先生は、突然俺の腕を見て目を丸くした。そう言われ自分の腕を見れば、ヒリヒリと痛んだ箇所から、血が滲んでいた。
「……大丈夫です、ちょっと擦りむいたくらいですし」
俺がそう言うも、先生は俺の手首を掴んで準備室を出るよう促した。
「いや、ダメだって、保健室行こうっ」
そう言って強引に連れ出すので、俺は大人しく言うことを聞くことにした。保健室に行って怪我の経緯を説明すれば、鴨野先生は養護教諭に、生徒に怪我をさせるなと注意を受けているのを見た。先生は俺にも何度も情けなく謝ってきた。
なんだか落ち着かず、腹の中がザワつくようだ。
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