観測者と失われた記憶たち(メモリーズ)

奏せいや

登場3

 白うさぎの大きな呼びかけに応じるように彼の背後の空間が歪んだ。波紋が伝わる水面のように。同時に頭を激痛が走る。悪寒が込み上げる。

 狂おしいほどの吐き気と狂おしいほどの目眩を伴って。寒気が走り、心は凍り、身動き取れない。そして、

「オオオオオオン!」

 恐怖が絶頂に達する時、それは歪んだ空間から現れた。

「あっ」

 メモリー。全身に触手を持つ化け物。廊下すらその巨体では狭く、胴体を横にして顔だけを私に向けている。

 頭を天井にこすり付け、赤い一つの目、大きな口を開き雄叫びを上げる。その度に体は竦み息が止まる。恐怖に、呼吸が出来ない。

「アリス、君はいけない子だ。せっかくの我が子をこんな姿に変えてしまって。見てごらん、このおぞましい姿を。不気味な姿を。君がこうしてしまったんだよ、アリス?」

 白うさぎは謳うように言う。目の前の恐怖を、私の罪と罰を見せつけるように。

 もう何度目にもなるこの感覚を、けれど味わう度に初めてのように私は震える。

「あ、あ……」

 全身は硬直し、戦慄は思考することを許さない。指先と唇が意思を離れて震えている。

 怖い。怖い。これが怖い、何よりも。この目が怖い。この声が怖い。あらゆるものが怖い。血の色をした赤い瞳に闇と同じ姿をして、私に見せつけるのだ。恐怖を。

 駄目だ、このままでは。このままでは駄目だ。そう思うのに頭が上手く働かない。一人ではないと信じていた、その心の支えすら裏切られ、私は一人で怯える。駄目だ、このままでは、私……。

 すると白うさぎが手を翳し、興奮した様子で言ってきた。

「さあアリス! この扉を通るんだ、ワンダーランドが君を待っている!」

 私の隣、廊下の横に突如扉が現れた。薄闇の校内で一際目立つ純白の扉が。

「黒い世界にずっといたくはないだろう? このままだとメモリーに襲われちゃう。すぐだ、すぐ殺されちゃうよアリス。殺されるのは嫌だろう? だからさあアリス! 急いで急いで!」

「私は……」

 白うさぎが急かす。ぴょんぴょんと地面を跳ねて、早く早くと扉の前で手招きする。

 メモリーが這って来る。いくつもの触手を用いてほふく前進のように、みるみると、大きな顔を私に近づける。

 このままでは私は狂ってしまう、恐怖に思考を焼き切られ、精神を破壊されて。逃げ場はない、この扉しか。この扉を通って逃げないと、どの道殺される。

 私は動く。多大な恐怖の中必死な思いで動かした。けれどそれは足ではなく、口だった。

「だ、駄目よ……、だめ」

 震えていてうまく喋れない。呂律が回らない。平衡感覚もなくなり自分が立っているのかも不確かな状態で、けれど私は話し続けた。

「だめよ、だって、あなた言ったもの。私がワンダーランドに行けば、世界が変わるって。そんなのは、だめ」

 立っていられなくなり、私はその場に崩れた。けれど、喋り続ける。浮かんだ思いが私にはあったから。

「それはきっと、たいへんな、ことだから……」

 私が深層世界に行ったら具体的にどうなるのか、それは分からない。でも世界が変わるというのなら、そこにも住人がいるのなら、起こるのは混乱だ。そんなのは出来ない。

 すでに、表層世界は変わってしまった。なのに、さらなる変化を起こすことなんて、出来ない。

 息が苦しい。肺が動いてくれない。死にそう。けれど、私は白うさぎを見上げた。

「そうか」

 私の答えに、白うさぎが呟いた、ピンと立てていたうさぎの耳を垂らして。残念そうに。けれど目は諦めておらず、ぎらりと光っていた。

 その表情が、途端に冷静になった声が、怖かった。

「どうやら恐怖が足りないようだ。逃げ出したくなるほどの」

 そう言うとメモリーが叫んだ。肌に感じるほどの息が吹きかかり体がぐらりと揺れる。頭を殴られるほどの悪臭が周囲に満ちて、光り輝く赤い目が殺意を飛ばしてくる。

 そして、私にいくつもの触手を伸ばしてきた。

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