彼女は、オレの人肉を食べて強くなる。
弱りゆくクレハ
3日が経った。
都市の中に入る方法は思いつかなかった。なので、都市の外にある貧民街に住みついていた。職はない。物乞いをやっていた。日本で物乞いなんかやっても、たいした収入は得られないだろう。セパレートでは違う。貧しい者を助力しようとする善意があった。
それはティナ教の教えが、セパレートで幅をきかしているからのようだ。ティナ教は癒術という魔法を使うが、金をとらない。それを見てもわかるように、施しは善行とされるのだった。まるでキリスト教のようだな――という印象を受けた。
キリスト教も、もとは乞食にたいして寛容だった。むしろ、乞食という存在そのものが、職業と化していた面もある。そうでなくなったのは、偽乞食のせいだ。ホントウは困窮していない。なのに、施しをもらおうとする。そういう連中が増えた。結果、施しがなくなったのだ。
物乞いをやっていれば、一日分の食糧を得るぐらいは出来た。クレハには毎日、オレの腕の肉を与えた。しかし、クレハの体調はいっこうに回復しなかった。傷が深すぎるせいもある。それ以上に、心臓を摂取していないからだった。クレハの体調は日に日に悪くなっていくようだった。
「血では足りぬ。心臓が欲しい」
オレは今日もクレハを背負って、物乞い稼業だ。
クレハの素性を聞かれたときは、オレの妹だと応えるようにしている。この偽妹の弱っている姿は、人の哀れを誘うようだ。だから乞食としてやっていけているのかもしれない。
「心臓を食べるってなったら、人を襲わなくちゃいけないだろ」
「うむ」
「オレにはムリだぜ。人を襲うなんて」
弱っているクレハにはもう、人間を襲うチカラも残されていないようだった。
「心臓を食わねば、元気が出んのじゃ」
「オレの肉でもダメなのか?」
「深手をおいすぎた。この傷のダメージを回復させるためには心臓を食わねばならん」
クレハの腹の傷はすこしずつ閉じている。今ではもう臓器が露出しているなんてことはない。さすがオークといったところだ。だから、心臓を食べなくとも回復するのではないかと期待している。
「時間が経てば完治するんじゃないか?」
「いいや。ダメじゃ。今は順調良く傷は閉じておるが、日に日に体力が落ちておる。そのうちまた傷が開くと思う」
「心臓って言われても、すぐ用意できるもんじゃないしなぁ……」
オレがとるべき選択肢は4つ。
1つ目は、人間を殺して心臓を得ることだ。クレハは動けない。なら、オレが殺人をおかすしかない。これは非常に勇気のいることだ。
2つ目は、オレの心臓をクレハに捧げることだ。こっちの選択肢も勇気のいることだ。自分を殺さなければならないのだから。
3つ目は、クレハのことを見捨てて逃げることだ。イチバン頭のいい選択肢だと思う。たしかにクレハにはいろいろと世話になった。しかしクレハは、オレのことを食おうとしている。ここでクレハを捨てれば、オレは自由を手に入れることが出来る。が、クレハの「1人にせんでくれ」という言葉が、オレを捕えて離さなかった。
4つ目。
このままクレハの自然回復を期待する――ということだ。今、オレがとっている選択肢は、この4つ目だ。
「えぐ……えぐ……」
と、クレハが泣きだした。
「どうしたんだよ? 傷が痛むのか?」
一度クレハのことをおろした。安い娼館の多くある通りだった。人目を避けたかった。裏路地に入った。石造りの壁にはさまれた細い通路だった。ゴミ箱代わりの樽が置かれていた。
「オヌシ。今、我を放り出して逃げようとしたじゃろう」
「え、いや……」
カラダが弱っていることで、老獪さよりも稚拙さが前面に出て来ているようだ。が、機微を読む鋭さは健在だった。
「心臓が欲しいなんてもう言わぬ。言わぬから、1人にはせんでくれ」
置いてかれとぉない、と涙声で言った。
「わかってる。置いてったりしないから」
見捨てて逃げようと思ったことを後悔した。ずっと老獪だと思っていたのだが、クレハはもしかすると、酷く寂しがり屋なのかもしれない。
「腹が減った」
クレハは涙を隠そうともせず、口を開けた。可愛らしい小さなキバが見えた。
オレはブリオーの袖をまくりあげた。腕をクレハの口元にもって行く。ガブリ。食らいついてくる。痛い。だが痛みよりも、愛おしさが大きかった。自分の肉でクレハの命がつながっているのだ。クレハはオレなしでは生きていけないのだ。無力なクレハは、ただ単純に可愛かった。
「なんだか立場が逆転してしまったみたいだ」
「大見得切って、オークの群れから出てきたのに、我ながら情けない」
「群れに戻るか? 謝ったらカムイも受け入れてくれるんじゃないか?」
「あんなヤツに下げる頭などない。それに我を疎んじている群れに戻るなんて、プライドが許せん」
「そうか」
腕の肉がゴッソリとなくなっている。骨まで見えていた。だが、問題ない。オレの傷の回復速度はさらに増しているのだ。この程度の傷も、たちまち戻っていく。まるでクレハが衰弱していくたびに、オレが元気になっているかのようだった。
「オヌシに約束する」
「なにを?」
「もうオヌシの心臓を食おうとは思わん。大人になったら殺そうとも思わん」
「ホントに?」
その言葉は、オレの心臓を跳ねあがらせるほどにうれしかった。
「うむ。今オヌシに見捨てられたら、その肉を食らうことすら出来なくなる。じゃから、見捨てんでおくれ」
まるで親を求める子供のようだ。
こんなに寄る辺なさを感じさせるクレハは、見ていて辛かった。
「見捨てない。オレのこと食わないんなら、見捨てるわけないじゃないか」
この瞬間。
はじめてオレとクレハの関係が変わった。「飼い主と家畜」ではなくなった。互いに対等な立場に立つことが出来たのだ。
「この味さえあれば、それ以上のものは望むまい」
それを聞いたときは、ちょっとガックリきた。
「オレっていう人間じゃなくて、ヤッパリ味のほうが優先なんだな」
「トウゼンじゃ。オヌシの味は、この世のものとは思えぬ。最高の魅力じゃからな」
その意味が、今ではわかる。
オレの目玉を食っただけで1時間も絶頂したオークがいるのだ。壮絶な味をしているのだろう。
表通りでパン屋が売り歩いていた。どうやら都市の中で焼き上げたパンを、都市の外にまで売り歩いてくれているようだった。2つ買った。
「クレハは、やっぱりこういう人間の食べ物はムリなのか?」
「オークは人肉以外のものを摂取するのは、カラダに毒じゃ」
「そうか」
遠慮なく2つとも、オレの胃袋におさめた。スッカリ冷めて固くなっていた。味もしなかった。「都市の中の売り残りなんだよ」とパンを売り歩いていた女性が教えてくれた。それでも空腹をまぎらわせるためには役立ってくれた。
急に、周囲がざわつきはじめた。人の住まうところは、いつだって活気があった。が、何か不吉な喧騒を感じた。
「どけどけッ」
と、重装備の騎士たちが町の中に入ってきていた。見てすぐにわかった。聖肉守騎士団だ。クレハの表情が硬直してしまっていた。オレはすぐに、クレハにフードを目深にかぶせた。
「やだね。またオーク騒ぎかい」
と、パン売りの女性は眉をしかめていた。
「また、って以前にもあったんですか?」
「この都市には、有名なオークの話があるんだよ。知らなかったのかい?」
「ええ」
聖肉守騎士団が来ているので、そうそうに立ち去りたかった。だがパン売りの女性はオレのブリオーをつかんで、話を続けた。
「十数年前ね。男のオークと女の人間が、訪れたことがあったのさ。人間のほうは腹に子供を宿していた。オークとの子供だったのかもしれないね。で、男のオークのほうは、ずいぶんと弱っていた。二度と人間を食わないと女に約束したらしいんだね」
「それ、実話なんですか?」
まるでおとぎ話みたいな設定だな、と感じた。
「さあね。私は実際に見たわけじゃない。けど、この周囲には見たって人もいるし、実話なんだと思うよ。そのときも聖肉守騎士団がやって来てね。弱っている男のオークを殺したんだ」
話に引き込まれていた。
どことなく今のオレたちの状況に似ていたからだ。
「女性はどうなったんですか?」
「消えちまった」
「消えた?」
「そうらしいよ。腹を大きく膨らませていたのに、忽然と消えちまったそうだ。聖肉守騎士団もその妊婦を探したはずなんだけどね。どこにもいやしなかった。もしもその子供が生まれていたら、オークと人間の混血なのかもしれないねぇ」
……って話だよ、とパン売りはそう締めくくった。
「ありがとうございます。いい話が聞けました。オレたちは急ぐんで」
「そうかい。気を付けてね」
「はい」
パン売りは別の客を捕まえて、パンを売っていた。
「クレハ。急ごう」
「……」
「クレハ?」
聖肉守騎士団を見て、体調が悪くなったのかもしれない。クレハはオレに体重を預けて、「ふーふー」と呼気を荒げていた。今の状態で聖肉守騎士団に見つかったら、クレハは、その場で殺されてしまうだろう。さきほどのパン売りから聞かされた男のオークみたいに。
「大丈夫か?」
「うにゅ?」
ボーッとしていたようだ。オレはクレハを背負って、聖肉守騎士団たちから距離をとることにした。
こんなこともあろうかと、脱出ルートは確認済みだった。娼館通りを歩き、途中で脇道に逸れる。裏路地を何度か突き抜けて行くと、貸馬屋がある。馬を借りるほどのお金はない。イザというときは馬を奪っても、逃げるつもりだった。
しかし。
貸馬屋にも聖肉守騎士団たちがいた。逃走手段が抑えられているのだ。そこまでするということは、ここにオークがいるという確実な情報を入手したのかもしれない。
「この町は包囲されておるな」
クレハがそう呟いた。
正気を取り戻したようだ。
「わかるのか?」
「聖肉守騎士団どもは足が遅い。じゃから何かしらの作戦を行うときは、必ず包囲作戦をとる」
「気づかなかったのか? 鼻がきくんだろ」
「ヤツらも、我らの鼻がきくことぐらい承知しておる。砂や草をすりつけて、臭いを消しておる」
「どうすりゃいい?」
「間隙を見つけて逃げ出すしかあるまい。商人などに化けて包囲網を突破するのが正解じゃろうが……」
フードを脱がされたら素性がバレる。以前、森で聖肉守騎士団に囲まれたときは、クレハが囮となってくれた。そのおかげで上手く脱することが出来た。が、今はオレとクレハの2人しかいない。
「それに、もう一点気になることがある」
「なんだ?」
「森で囮役をやったときに、我の顔を見られたやもしれん。見られぬようにはしていたんじゃが」
クレハはそう言うと、懐から木彫りの仮面を取り出した。
「戦闘になるときは、仮面をつけてるのか?」
「うむ。しかし前回は、外されてしもうてな。顔を見られただけで、我がオークだとバレるやもしれん」
「それはマズイな」
クレハの顔は目立つ。異様に美しいからだ。この町でも、それなりにウワサにはなっているようだ。聖肉守騎士団に顔を見られているなら、すぐに素性がバレるだろう。
「まぁ、しばらくは町の中で、身をひそめるのが吉じゃろう。あわてて逃げ出そうとすれば、逆に怪しいしな」
「それもそうか」
オレたちのすぐ近くと、聖肉守騎士団の騎士が通過していった。クレハがオレの服の袖をギュとつかんでいた。すべての寄る辺をなくしてしまったこの娘を、オレが守らなくてはならないと思わせられた。
都市の中に入る方法は思いつかなかった。なので、都市の外にある貧民街に住みついていた。職はない。物乞いをやっていた。日本で物乞いなんかやっても、たいした収入は得られないだろう。セパレートでは違う。貧しい者を助力しようとする善意があった。
それはティナ教の教えが、セパレートで幅をきかしているからのようだ。ティナ教は癒術という魔法を使うが、金をとらない。それを見てもわかるように、施しは善行とされるのだった。まるでキリスト教のようだな――という印象を受けた。
キリスト教も、もとは乞食にたいして寛容だった。むしろ、乞食という存在そのものが、職業と化していた面もある。そうでなくなったのは、偽乞食のせいだ。ホントウは困窮していない。なのに、施しをもらおうとする。そういう連中が増えた。結果、施しがなくなったのだ。
物乞いをやっていれば、一日分の食糧を得るぐらいは出来た。クレハには毎日、オレの腕の肉を与えた。しかし、クレハの体調はいっこうに回復しなかった。傷が深すぎるせいもある。それ以上に、心臓を摂取していないからだった。クレハの体調は日に日に悪くなっていくようだった。
「血では足りぬ。心臓が欲しい」
オレは今日もクレハを背負って、物乞い稼業だ。
クレハの素性を聞かれたときは、オレの妹だと応えるようにしている。この偽妹の弱っている姿は、人の哀れを誘うようだ。だから乞食としてやっていけているのかもしれない。
「心臓を食べるってなったら、人を襲わなくちゃいけないだろ」
「うむ」
「オレにはムリだぜ。人を襲うなんて」
弱っているクレハにはもう、人間を襲うチカラも残されていないようだった。
「心臓を食わねば、元気が出んのじゃ」
「オレの肉でもダメなのか?」
「深手をおいすぎた。この傷のダメージを回復させるためには心臓を食わねばならん」
クレハの腹の傷はすこしずつ閉じている。今ではもう臓器が露出しているなんてことはない。さすがオークといったところだ。だから、心臓を食べなくとも回復するのではないかと期待している。
「時間が経てば完治するんじゃないか?」
「いいや。ダメじゃ。今は順調良く傷は閉じておるが、日に日に体力が落ちておる。そのうちまた傷が開くと思う」
「心臓って言われても、すぐ用意できるもんじゃないしなぁ……」
オレがとるべき選択肢は4つ。
1つ目は、人間を殺して心臓を得ることだ。クレハは動けない。なら、オレが殺人をおかすしかない。これは非常に勇気のいることだ。
2つ目は、オレの心臓をクレハに捧げることだ。こっちの選択肢も勇気のいることだ。自分を殺さなければならないのだから。
3つ目は、クレハのことを見捨てて逃げることだ。イチバン頭のいい選択肢だと思う。たしかにクレハにはいろいろと世話になった。しかしクレハは、オレのことを食おうとしている。ここでクレハを捨てれば、オレは自由を手に入れることが出来る。が、クレハの「1人にせんでくれ」という言葉が、オレを捕えて離さなかった。
4つ目。
このままクレハの自然回復を期待する――ということだ。今、オレがとっている選択肢は、この4つ目だ。
「えぐ……えぐ……」
と、クレハが泣きだした。
「どうしたんだよ? 傷が痛むのか?」
一度クレハのことをおろした。安い娼館の多くある通りだった。人目を避けたかった。裏路地に入った。石造りの壁にはさまれた細い通路だった。ゴミ箱代わりの樽が置かれていた。
「オヌシ。今、我を放り出して逃げようとしたじゃろう」
「え、いや……」
カラダが弱っていることで、老獪さよりも稚拙さが前面に出て来ているようだ。が、機微を読む鋭さは健在だった。
「心臓が欲しいなんてもう言わぬ。言わぬから、1人にはせんでくれ」
置いてかれとぉない、と涙声で言った。
「わかってる。置いてったりしないから」
見捨てて逃げようと思ったことを後悔した。ずっと老獪だと思っていたのだが、クレハはもしかすると、酷く寂しがり屋なのかもしれない。
「腹が減った」
クレハは涙を隠そうともせず、口を開けた。可愛らしい小さなキバが見えた。
オレはブリオーの袖をまくりあげた。腕をクレハの口元にもって行く。ガブリ。食らいついてくる。痛い。だが痛みよりも、愛おしさが大きかった。自分の肉でクレハの命がつながっているのだ。クレハはオレなしでは生きていけないのだ。無力なクレハは、ただ単純に可愛かった。
「なんだか立場が逆転してしまったみたいだ」
「大見得切って、オークの群れから出てきたのに、我ながら情けない」
「群れに戻るか? 謝ったらカムイも受け入れてくれるんじゃないか?」
「あんなヤツに下げる頭などない。それに我を疎んじている群れに戻るなんて、プライドが許せん」
「そうか」
腕の肉がゴッソリとなくなっている。骨まで見えていた。だが、問題ない。オレの傷の回復速度はさらに増しているのだ。この程度の傷も、たちまち戻っていく。まるでクレハが衰弱していくたびに、オレが元気になっているかのようだった。
「オヌシに約束する」
「なにを?」
「もうオヌシの心臓を食おうとは思わん。大人になったら殺そうとも思わん」
「ホントに?」
その言葉は、オレの心臓を跳ねあがらせるほどにうれしかった。
「うむ。今オヌシに見捨てられたら、その肉を食らうことすら出来なくなる。じゃから、見捨てんでおくれ」
まるで親を求める子供のようだ。
こんなに寄る辺なさを感じさせるクレハは、見ていて辛かった。
「見捨てない。オレのこと食わないんなら、見捨てるわけないじゃないか」
この瞬間。
はじめてオレとクレハの関係が変わった。「飼い主と家畜」ではなくなった。互いに対等な立場に立つことが出来たのだ。
「この味さえあれば、それ以上のものは望むまい」
それを聞いたときは、ちょっとガックリきた。
「オレっていう人間じゃなくて、ヤッパリ味のほうが優先なんだな」
「トウゼンじゃ。オヌシの味は、この世のものとは思えぬ。最高の魅力じゃからな」
その意味が、今ではわかる。
オレの目玉を食っただけで1時間も絶頂したオークがいるのだ。壮絶な味をしているのだろう。
表通りでパン屋が売り歩いていた。どうやら都市の中で焼き上げたパンを、都市の外にまで売り歩いてくれているようだった。2つ買った。
「クレハは、やっぱりこういう人間の食べ物はムリなのか?」
「オークは人肉以外のものを摂取するのは、カラダに毒じゃ」
「そうか」
遠慮なく2つとも、オレの胃袋におさめた。スッカリ冷めて固くなっていた。味もしなかった。「都市の中の売り残りなんだよ」とパンを売り歩いていた女性が教えてくれた。それでも空腹をまぎらわせるためには役立ってくれた。
急に、周囲がざわつきはじめた。人の住まうところは、いつだって活気があった。が、何か不吉な喧騒を感じた。
「どけどけッ」
と、重装備の騎士たちが町の中に入ってきていた。見てすぐにわかった。聖肉守騎士団だ。クレハの表情が硬直してしまっていた。オレはすぐに、クレハにフードを目深にかぶせた。
「やだね。またオーク騒ぎかい」
と、パン売りの女性は眉をしかめていた。
「また、って以前にもあったんですか?」
「この都市には、有名なオークの話があるんだよ。知らなかったのかい?」
「ええ」
聖肉守騎士団が来ているので、そうそうに立ち去りたかった。だがパン売りの女性はオレのブリオーをつかんで、話を続けた。
「十数年前ね。男のオークと女の人間が、訪れたことがあったのさ。人間のほうは腹に子供を宿していた。オークとの子供だったのかもしれないね。で、男のオークのほうは、ずいぶんと弱っていた。二度と人間を食わないと女に約束したらしいんだね」
「それ、実話なんですか?」
まるでおとぎ話みたいな設定だな、と感じた。
「さあね。私は実際に見たわけじゃない。けど、この周囲には見たって人もいるし、実話なんだと思うよ。そのときも聖肉守騎士団がやって来てね。弱っている男のオークを殺したんだ」
話に引き込まれていた。
どことなく今のオレたちの状況に似ていたからだ。
「女性はどうなったんですか?」
「消えちまった」
「消えた?」
「そうらしいよ。腹を大きく膨らませていたのに、忽然と消えちまったそうだ。聖肉守騎士団もその妊婦を探したはずなんだけどね。どこにもいやしなかった。もしもその子供が生まれていたら、オークと人間の混血なのかもしれないねぇ」
……って話だよ、とパン売りはそう締めくくった。
「ありがとうございます。いい話が聞けました。オレたちは急ぐんで」
「そうかい。気を付けてね」
「はい」
パン売りは別の客を捕まえて、パンを売っていた。
「クレハ。急ごう」
「……」
「クレハ?」
聖肉守騎士団を見て、体調が悪くなったのかもしれない。クレハはオレに体重を預けて、「ふーふー」と呼気を荒げていた。今の状態で聖肉守騎士団に見つかったら、クレハは、その場で殺されてしまうだろう。さきほどのパン売りから聞かされた男のオークみたいに。
「大丈夫か?」
「うにゅ?」
ボーッとしていたようだ。オレはクレハを背負って、聖肉守騎士団たちから距離をとることにした。
こんなこともあろうかと、脱出ルートは確認済みだった。娼館通りを歩き、途中で脇道に逸れる。裏路地を何度か突き抜けて行くと、貸馬屋がある。馬を借りるほどのお金はない。イザというときは馬を奪っても、逃げるつもりだった。
しかし。
貸馬屋にも聖肉守騎士団たちがいた。逃走手段が抑えられているのだ。そこまでするということは、ここにオークがいるという確実な情報を入手したのかもしれない。
「この町は包囲されておるな」
クレハがそう呟いた。
正気を取り戻したようだ。
「わかるのか?」
「聖肉守騎士団どもは足が遅い。じゃから何かしらの作戦を行うときは、必ず包囲作戦をとる」
「気づかなかったのか? 鼻がきくんだろ」
「ヤツらも、我らの鼻がきくことぐらい承知しておる。砂や草をすりつけて、臭いを消しておる」
「どうすりゃいい?」
「間隙を見つけて逃げ出すしかあるまい。商人などに化けて包囲網を突破するのが正解じゃろうが……」
フードを脱がされたら素性がバレる。以前、森で聖肉守騎士団に囲まれたときは、クレハが囮となってくれた。そのおかげで上手く脱することが出来た。が、今はオレとクレハの2人しかいない。
「それに、もう一点気になることがある」
「なんだ?」
「森で囮役をやったときに、我の顔を見られたやもしれん。見られぬようにはしていたんじゃが」
クレハはそう言うと、懐から木彫りの仮面を取り出した。
「戦闘になるときは、仮面をつけてるのか?」
「うむ。しかし前回は、外されてしもうてな。顔を見られただけで、我がオークだとバレるやもしれん」
「それはマズイな」
クレハの顔は目立つ。異様に美しいからだ。この町でも、それなりにウワサにはなっているようだ。聖肉守騎士団に顔を見られているなら、すぐに素性がバレるだろう。
「まぁ、しばらくは町の中で、身をひそめるのが吉じゃろう。あわてて逃げ出そうとすれば、逆に怪しいしな」
「それもそうか」
オレたちのすぐ近くと、聖肉守騎士団の騎士が通過していった。クレハがオレの服の袖をギュとつかんでいた。すべての寄る辺をなくしてしまったこの娘を、オレが守らなくてはならないと思わせられた。
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