いろはな物語

秋原かざや

「ほ」ほのかに香るにおいは

 出かける前に、玄関にある鏡を見ました。
  普段は見ないのですが、つい、足を止めてしまったのです。


 「はあ……」


  思わずため息がこぼれてしまいました。
  ほうれい線が目立ってきてしまいましたね。もうそんな歳なのです。
  仕方ないことだと思っても、女性ゆえ、気になってしまいます。


  ……落ち込んではいられません。
  それに、だんだん暖かくなってきているのですから、外に出て、気を紛らわすのも良いと思うのです。
  そう……なんていうんでしたっけ?
  ああ、思い出しました。そうそう、りふれっしゅというやつですよ。


  さあ、どこから行きましょうか?
  とはいっても、行く場所は決まっています。
  近所にできた百貨店。あら、違ったかしら?
  なんていったかしら………ああ、そうそう。思い出しました。ショッピングモールでしたっけ?
  いろんなお店がいっぱい入っているので、手に入らないものはないんじゃないかしら?
  本当にたくさんあって、出来たばかりはよく、迷子になったものです。


  さて、目当ての食品売り場にやってきましたよ。
  今日は何にしましょうか?
  あら、良いほうれん草。
  おひたしにしても、ジュースにしても良さそうなくらい新鮮ねぇ。
  本当にここのお店は、食材が新鮮で、気に入っています。
  今日は、あの人が好きなシチューにでもしましょうか。
  じゃあ、他にも野菜を買って……、はい、清算も済ませましたよ。


  実は、この後が楽しみなんです。
  好きな本を選ぶというのが、ささやかな楽しみのひとつなんですよ。
  今日はどんな本を買っていきましょうか。
  とはいっても、重い本は苦手ですので、もっぱら文庫本を買っていきます。
  手頃な値段でかつ、小さいのが良いですよね。
  ですが、最近、ちょっと読みづらくなってきたんですよね。
  そろそろ新しい眼鏡を買ってこなくちゃいけないかしら?


  あら、これなんて面白そう。
  じゃあ、これに………。
 「そこの方。そこの綺麗な方」
  え? 誰のことかしら?
 「落ち着いた藍色のワンピースを着た方」
 「え? わたし?」
  思わず声をあげてしまいます。
  だって、綺麗な方だなんて、別の方のことかと思ったのですもの。
 「はい、あなたです」
  やってきたのは、若い店員さん。あら、何か本を持っていらっしゃる?
 「あの、もしご迷惑でなければ、こちらの本もいかがでしょうか?」
  差し出されたのは、あらあらまあまあ!
 「新刊じゃないの」
  お気に入りの作家さんの新刊、しかも、まだ棚に並べていないものじゃなくって?
 「買ってよろしいのかしら?」
 「はい、気に入っていただけたのなら、どうぞ」
  ありがたく受け取りましょう。それにしても、店員さんの微笑み。あの人にちょっとだけ似てるわね。
  もう、あの人は、遠いところに旅立ってしまったけれども……。
 「どうか、なさいましたか?」
  店員さんに心配させてしまったみたい。
 「いいえ。なんでもないの。ただ……あなたが、わたしの亡くなった主人に少し似ていたからつい……」
 「そうでしたか。………あの、差し出がましいのですが、もし、この後、用事がないのでしたら、一緒にお茶でもいかがですか?」
 「えっ? お茶?」
 「あ、えっと、その、聞かなかったことに……」
  顔を真っ赤にしているってことは、あらあらまあまあ、これって、もしかして……。
 「なにもありませんわ。それに、今、一人ですの。家にもだーれもいませんわ。ついでにペットもいません」
  ちょっと、言い過ぎたかしら?
 「どちらで、お待ちすればよろしいかしら?」
  照れ隠しに彼に尋ねます。
 「あ、では、すぐそこの喫茶店で待っていてください。僕もすぐに仕事が終わりますんで」


  そういえば、桜もほころぶ季節だったわね。
  あの人と会ったのも、確か、春だったわ。
  これも何かの縁なのかしらね? ねえ、あなた?


  ゆっくりと喫茶店へと足を運ぶ。
  その足取りは軽やかに。
  重い荷物もなんのその。
  紅茶を一つ頼んで、買ったばかりの本を開く。


  さあ、楽しみましょう。
  きっと、これはあの人からのプレゼント。
  寂しく泣いてた、わたしへの、ささやかな春のときめき。


  いつの間にか、わたしの顔には、素敵な微笑が……。



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