令嬢は呪術師 〜愛しき名に精霊は宿る〜

サカエ

36.第二章 カロア川の精霊⑭

 ――とはいえ。

「はあぁ〜。水がぜんっぜん動かないのよ〜」
 メリチェルは夕食後のテーブルに突っ伏していた。
「再試験までまだ半月あるんでしょう? だいじょうぶだよ、メリチェルちゃん。毎日がんばってるんだからさ」
「わたしにはきっと才能がないんだわ、ベルタさん」

 テーブルクロスに頬をのせた目の前に、一輪の野の花を生けたガラス瓶がある。
「エグリスム・グランジェメル・ヴェナディウス・サザルゾン・ゲインデラマウス・デミスタリアス・ゼア・フィグジョン・デイタラスタアス・マダルラカアス・マクス・ランシェ・ゾラニウス・マギョウラ・スモルス――」
 小さな花びらが一枚浮いた瓶の水の表面は、滴をたらしたほどのゆらぎもない。

「はぁ〜……」
「ためしに自己流でやってみろ。それはカロア川の水だ」
 部屋の片隅の長椅子で、食後のコーヒーを飲んでいたロギが言った。

「カロア川の水……」

 メリチェルは顔をあげ、姿勢を正した。
「エランダス……デジャンタン。トロメラウディ・メギデスタ・マグデュスタ。ジャデウス・ナザルス・オルディオス」

 メリチェルは一旦そこで窓の外を見た。日が落ちてよく見えないが、そこにはカロア川の流れがある。

「メリチェル……カロアラ。ゲニウス・カロア――――きゃっ!」

 水がまるで命を宿したように、まとまって瓶から伸びあがり跳ねとんだ。魚のような形状になった水の塊はメリチェルのドレスの胸元を濡らすかと思いきや、くるりと一回転してすっぽりと瓶に戻る。水が飛び出た勢いで空中に跳ねあがった花だけが、はらりとメリチェルの蜂蜜色の髪に降りおちた。
 テーブルの上には、一滴もこぼれていない。

「えっ、なに、メリチェルちゃん……余裕で動かせるじゃない。ええーこんなの初めて見たよ! まるで水が生きてるみたいだね。魚みたいだったよ!」
「……自分でもちょっとびっくりしたわ」
「これで合格だね!」
「ちがうのよ……これじゃだめなの、ベルタさん。これは間違ったやり方なの」

「べつに間違っちゃいねえだろ……。おどろいたぞ、おい」
 ロギは身を乗り出すようにして見ていた。

「でもレオニード先生が、固有名詞を術式に入れこむことを禁止するっておっしゃったのよ。だからこの文言じゃだめなの。それに、試験に出る水は地下水で、カロア川の水じゃないの。いくらカロア川の精霊さんとなかよくなっても無駄なのよ」
「カロア川の精霊となかよく〜?」
「ええ。姿絵を書いてみたり、心の中でお話してみたりするの。そんなことを繰り返していると、だんだん精霊さんが『いる』ような気がしてくるのね。川が生きてるような気がしてくるの。川が生きていて、人とおなじように喜んだり、悲しんだり、眠くなったり、お腹がすいたり……。どんなことが好きなのか、どんなことに怒るのか、口癖はなんなのか、だんだんわかってくるの。はじまりはわたしの想像なんだけど、だんだん想像じゃなくなってくるの。わたしの描いた絵姿が、生きて、動いて、しゃべるの」

「……おい、だいじょうぶか?」

「わたし、おかしくなんかないわよ。だってそういうものなんだもの」
「おまえ、本格的に変だったんだな」
「変じゃないわよ……。もういいわよ。この話はわかってもらえない話だって知ってるもの。くじらちゃんは生きてるのよって言ったときと、みんなおなじ反応をするわ。くじらちゃんはぬいぐるみだけど、生きてるのよ。『ある』んじゃないのよ、『いる』のよ」

「精霊の話はわからないけど、くじらちゃんの話はわかるよ、メリチェルちゃん」
 ベルタは子供時代をなつかしむように、目を細めやさしい笑顔になっていた。
「あたしも子供のころ大切なお人形があったもの。まだあるもの。死ぬ時はお棺に入れてもらうつもりだよ。汚い人形だって主人も息子たちも言うけど、あたしにはかけがえのない子だよ。そんなにその人形が好きなら、同じような新しいのを買えだなんて男どもは言うけど……。たとえ見た目が寸分変わらない人形があったって、あの子はあの子しかいないんだよ。あの子は生きてるんだから。たったひとりの存在なんだから」
「そうなのよ! ベルタさん! 大切な、たったひとりの存在なの。ベルタさんのお人形はなんてお名前なの?」

「ライラだよ。それはそうと、くじらちゃんはおうちにあったのかい?」
「それが――」

 メリチェルが眉を曇らせたそのときだった。大きな音を立てて玄関扉が開き、遅番だったセロロスがひどく真剣な表情で駆け込んできた。

「どうしたの? あんた」
「火事だ」
「えっ」

「学院が火事だ。主幹教諭室から出火したらしい。ただの火事じゃない――術式だ。誰かが術式で教諭室に火を放って、結界で消火を阻んでる――!」


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