悪役令嬢のままでいなさい!
☆最終話 そして、花は咲く
走ってきた私の気配に気が付いて、白金髪の髪をした青年がゆっくりと振り返る。どうやら文庫本を読んでいたようだ。
懐かしいカバーの本。タイトルは、不思議の国のアリス。
私は恋人である彼の姿を見ただけで、胸がとても暖かくなる。
「……待たせた?」
「いえ、大丈夫ですよ」
こういう時、彼はいつも分かりやすい嘘をつく。本当ならもっと早く着くつもりだったのに、私は思ったよりも遅くなってしまった。
「もう、気を遣うのはなしにして。自分でも遅刻したって分かってるんだから」
「……そうだな、少しだけ遅かったかな。会えて良かったよ、八重」
「……ありがと」
そう言って。
二人で河川敷を歩いた。
東雲先輩――ツバキは、どうやら車ではなく電車でここまで来てくれたらしい。私も今はゆっくり二人で過ごしたかったから、急ぐことは考えなかった。
桜の蕾が徐々に色づいて。枝の先で膨らんでいる。地面には緑が芽生え、次の新しい季節を待っている。
「八重の引っ越しはいつになるんだ?」
「そんなに遅くないわ。卒業したら一週間ぐらいでツバキのいる街に移る予定」
ふふん、ちょっと私を褒めて欲しい。
優秀な人を追いかけるのは楽じゃない。
だけどそこに彼がいると思えたから、しんどい気持ちがあったとしても私は努力することができたのだ。
「……そうか」
ツバキは、愛しそうに私を見る。
その眼差しには、もう過去の冷たい色はない。穏やかに寄せて引く波の、きらめく海の浅瀬のようだ。そんな彼の優しい変化が嬉しくて、私は頭の奥が痺れそうになる。
「八重、君はみんなと離れて平気?」
彼の気遣う質問に、私は爽やかに笑った。
「……うん、少しは寂しいかも」
でも、これで本当のさよならになるわけじゃない。
私たちは少しだけ距離が遠くなるだけで、心と魂は培った絆で結ばれている。そのことが分かっているから、悲しいなんて思わなくていい。
振り返れば、いつだって思い出の中の彼らがいて。ページを捲れば数々の出会いは鮮明に蘇る。
生きている限り、必ず会える。
そう信じている。
「私たちは、全然終わっていないんだもの。だから、無理に寂しく思う必要なんてどこにもないのよ」
「……そうだね」
ツバキが私の答えに微笑む。
彼が差し出してきた手に私の手を重ねて。上を見ると空が青とオレンジの綺麗なグラデーションになって広がっていた。
その壮麗な美しさに圧倒された。
水のせせらぎと、澄んだ風。果てしないほどの高い空の向こう。
この流れる川は、どこまでゆくのだろう。これから先、どんな未来が待っているんだろう。
考えただけで、胸が一杯になる。
「……八重、言いたいことがあるんだ。聞いてくれるかい?」
「なあに?」
「――僕と、結婚しないか?」
それは、いつかに交わしていた口約束。
その記憶を思い出し、予想もしていなかったプロポーズに私は少し戸惑う。
妖狐に握られている掌が、指先まで熱くなる。
涙が出るほどに。私の心が喜びに燃える。
もう止まらない。止まる必要なんかないって、私自身が分かってる。
「こんな場所でごめん。瀬川とか、他のアヤカシに邪魔をされない所でどうしても言いたかった」
ツバキは申し訳なさそうに言う。
だけど、その熱い眼差しに射抜かれそう。
「ううん、そんなこと気にしない……」
不思議だけど、あなたへの答えはとっくに知っていた。
悪役令嬢(アリス)はもう夢から覚めた。不安な未来なんか分からなくても、現実(いま)を生きる覚悟なんてとっくにできてる!
私は勢いよく答えた。
「ツバキ、一緒に生きよう!」
うんざりするくらいの時をかけて、あなたに云おう。
この感情も、決意も、私の人生を全て遣って教えていくんだ。
いつしか、幸福の華は咲く。
窮地でも、絶望の中でも小さな花は咲いている。
それを見つけるのはすごく大変かもしれないけれど、探すことは諦めたくない。
この先どんなに辛いことがあっても、それさえ分かっていれば大丈夫。
……あなたとそっと喜びを数えて生きていきたい。
私と妖狐は誓いの口づけを交わす。
あなたに触れて。繋ぐ想いが届いたことを知って嬉しくなる。
そこに、足音がした。
振り返ると、まだ幼い女の子のアヤカシが――ピンク色の髪を風に任せて道路の向こうに立っていた。
初夏に着るような白いワンピース。裸足でどうやってここまで歩いてきたんだろう。こんなに遠くまで……。
「八重……、」
ツバキが息を呑む。
その幼子の淡い笑顔に、枯れかけていた桜の木と思念で話した時のことが思い出されて。
最後にその正体を悟り、私は言葉が出なくなる。
「あの桜なの……?」としばらくしてようやく訊ねることができた。
穏やかな時間だった。
かつて廃神社にいた大樹の桜のアヤカシはふんわりと笑う。両手をのばして、愛らしく抱っこをねだる。
まだ喋ることもできない……この世に産まれたばかりの彼女を見て、思いが込み上げてしまう。私たちは急いで駆け寄って。ツバキが二人とも抱きしめる。
ずっと桜のことを見守ってきた妖狐もまさかといった表情で。私たちは感無量で泣きそうだった。
明けの明星が空で輝く。
さあ、笑え。
……不格好でも笑っていよう。
喜びも、悲しみも全部集めて。
そうやって、みんなでこの世界を今日も生きていくんだ。
END
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