悪役令嬢のままでいなさい!
☆287 将来の夢
それは昼休みの食堂で起きた出来事だった。
一人の内気そうな女生徒がお盆でうどんを運ぼうとしているところを、不注意だったのだろう。振り向きざまに日之宮奈々子と衝突してその汁を溢してしまった。
真っ青になった女生徒。奈々子のスカートには液体がかかる。当然ながら、誰もがひどい喧嘩になるのではないかと近い未来を予想した。
けれど、奈々子は一言も文句を云わず、苛立った様子も見せずにその散らばった食べ物と丼を片付けるのを手伝っている現場を私たちは遠くから見かけた。
珍しいことがあるもの、と表現すればいいのか。
それとも、もっと違った言葉で形容した方が望ましいのだろうか。
スッとした眼差しでその姿を見ていた私に、近くにいた希未がぼやくように呟いた。
「……なんかさー、アイツ、最近性格的に丸くなったよね」
手助けに駆け付けようとしている白波さんの襟首を猫の子のように掴んで止めていた鳥羽が、軽く笑う。
「そうか?」
「優しくなったって、云えばいいのかなあ。なんだかすごく変な感じだけど、あんな目に遭わされた八重の親友としては怒っている態度を崩したくないんだけど、でもちょっと、うん。……変わったよ。あの子。
前ならこういうシチュエーションって絶対怒ってたのに」
私は複雑な心境になりながらも小さく呟く。
「そうね。……少し、変わったのかもしれないわね」
そうだとするのなら、それは私と関わったからというより夕霧君のお蔭と言った方が正しいのだろう。
あの日泣いていた奈々子の言葉をフラッシュバックのように思い出し、私はひそかに胸を痛めた。
もしも二人が両想いであったとしても、このままでは結ばれる未来など訪れない。そのことを誰よりも理解している癖に、消極的な行動しか選べない自分がとても卑怯者のように思えて、なんだか暗い気持ちとなった。
けれど、空気が読めない夕霧君に釘を刺しにいくのも違う気がするし、かといって海外逃亡中の兄を捕まえて婚約を解消させるのも難しい。
幼なじみだというのに私のできることなんて実はとても少なくて、その限られた手札が何なのかも分かってなんかいないのだ。
そのことに吐息を洩らしそうになると、同じタイミングで鳥羽がため息を吐いた。
驚いて彼を見つめると、頬杖をついた状態で相手が呟く。
「……なあ、お前ら。進路ってもう考えたか?」
その一言に、みんなが唖然とする。
後ろで知らない生徒の群れが歩いていく。ざわめきと足音。スローモーションで、白波さんが息を呑む。まつ毛が動く。彼女の髪が、対流した空気に舞い上がった。
『進路希望用紙』
鳥羽が取り出したくしゃくしゃのプリントにはそう書かれている。
誤魔化すこともないと思い、私はそつなく答えた。
「私は、東雲先輩と同じ大学を受けるわ。できるなら、兄さんと同じ経済学を学びたいと思うの」
そうだ。妖狐と交わした結婚の約束のことまで言うことはない。少しぶっきらぼうな口調になりながらそう話すと、希未が面白そうにくるっと目を動かす。
……何も喋っていないはず。なんだけど、事情が見透かされているような……。
「かあーーっ やっぱり恋する乙女ってのは違うね! 東雲先輩と少しでも一緒にいたいってことでしょ、妬けるぅ!」
「希未ったらオヤジのようなこと云わないでよ!」
気持ち悪くなって大声を出すと、希未はにししと嫌らしく笑った。
そこに、鳥羽が口を挟む。
「栗村はどうするんだ?」
「もっちろん、親友の八重と一緒の大学! 決まってんじゃん!」
顎に指を当てて決めポーズをした希未に、鳥羽が苦笑いを浮かべる。
「東雲先輩の受けた学校って第一志望はT大だぞ? 月之宮ならともかくお前の頭で行けると思ってんのか? ……ご親友の栗村さん?」
突き付けられた現実に、希未は笑顔を凍り付かせる。しばらく停止した後に、こう口を開いた。
「今からでも頑張って勉強するとか……」
「浪人生になる覚悟があるなら止めねーけど? 月之宮と同学年での現役合格はもう間に合わないんじゃね?」
「……どーしよ」
途方に暮れた声を出した希未の姿に、私は曖昧な笑顔を浮かべるしかなく。やがて、彼女の頭を撫でながら優しく言った。
「そんなに無理をする必要はないんじゃない? 違う学校になっても私は希未のことは親友だと思っているわよ?」
「ううう……」
項垂れた希未は、悔しそうに鳥羽を見た。そして、一分くらい恨めしそうにしていた後にこんなことを云い出す。
「……決めた。私、八重の受けるT大の近所で楽そうな大学に行く。放課後に一緒に遊べればそれでいいや」
「……一気に現実味が増したけど、果たして本当にそれでいーのか?」
あまりの宗旨替えにドン引きしている鳥羽に、希未はやけくその笑いを浮かべる。
これまで大人しく聞き手にまわっていた白波さんが、おずおずと言う。
「あの、杉也君はどこに行きたいの?」
「……」
そうだ。まだ言い出しっぺである彼の進路希望を聞いていない。
私たちの向ける視線から目を逸らした鳥羽は、はっきりとした声で告げた。
「俺は、飛行機の勉強をしてみたいんだ」
「ひこうき、ですか?」
意外な言葉だ。少なくとも、予想していたどのセリフとも違う。
目を瞬かせた白波さんに、鳥羽は意志の強い瞳を返す。
「俺、いつも何も考えずに空を飛んでただろ? でも、もっと本格的にそのことを知ってみたくなったんだ。飛行機を作れなくてもいいんだ。運転してみたいとかじゃなくて、結局は大学での自分探しになるのかもしんねえけど……」
なんか恥ずかしいよな、そう小さく付け足した鳥羽に、白波さんが大声を出した。
「――恥ずかしくなんか、ない!」
唇を引き結んだ鳥羽が驚きの顔になる。そんな彼に、恋人である白波さんが一生懸命に言葉を掛けていた。
「頑張って、探した夢にいいも悪いもないです。人に迷惑をかけてしまうならまだしも、やっと見つけた鳥羽君の夢を笑ったりするはずないじゃないですか!
回り道、しましたけど! 楽なことばかりじゃなかったけど!
きっと、きっと、今の言葉を聞いたら天国のお父さんだって喜んで……っ」
そこで、白波さんの涙腺が決壊しそうになった。
困ったような顔で、云われた意味を理解していない鳥羽が笑う。
「……お前、分かってんの? もしかしたら、離れ離れになるかもしれないんだぞ? この街にしばらく置いていくかも……」
「いいです! いつまでだって、待ちます……っ」
憑き物が落ちたような顔で、鳥羽は涙ぐんだ白波さんを愛しそうに見つめる。
やっと、見つけた場所。
沢山傷つけて、しまったけれど。優しさだけを注げたわけじゃなかったけど。
私は思った。
忘却の彼方にいる行燈さんのことは、多分彼は一生思い出せない。
それでも、重ねた時。人間の社会で、自分の居場所を見つけようとしている彼のことを、誇りに思う。
……そう思うよ、鳥羽。
「お前は、どうしたい? 俺に付いてくるっていうなら、それでも……」
期待を隠した鳥羽に問われて、白波さんは言った。長いまつ毛が上がる。
「私はこの街の近くで、しばらく畑をやってみたいです」
「……畑?」
……一瞬誰もが白波さんが何を言ったのか分からなかった。
「それって、異能がなくてもやるってことか?」
「はい!」
怪訝な顔をした鳥羽に、白波さんが微笑む。
「私、植物のことをもっと知ってみたいんです。そして、美味しいお野菜をみんなに食べてもらいたいの。この力がなくなっても、頑張ってみたい!」
落胆が顔に表れた鳥羽を見て、白波さんは苦笑した。
「ほら、そんな顔をすると思ったから云いたくなかったの」
「……あー、っそ」
本心では、彼女には付いてきて欲しかったのだろう。
悪態をつくのを我慢した鳥羽は諦めのこもった顔で、
「精々頑張れよ、この馬鹿」と捨て台詞を吐く。
「もう、馬鹿って云わないでください!」と赤い頬になった白波さんが叫んだ。
露骨にがっかりした鳥羽の態度に、私は少し気の毒になった。
今のやり取りを聞いていた希未が、にやにやしながら声を掛ける。
「にしし。振られちゃったね、鳥羽」
「うるせえよ」
彼は無表情で希未の頭に拳骨を炸裂させた。
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