悪役令嬢のままでいなさい!

顔面ヒロシ

★間章――瀬川松葉







 大好きであったはずの主に、何もできなかった。
無意識に、月之宮八重が自分のことを避けていることに気が付いたのは、かなり早い段階であった。
恐らく、その頃にはすでに彼女は東雲のことを気になっていたのだと思う。
何が間違っていたのか、どこから間違えたのか。それはいくら考えても未だに分からない。多分、己には一生分からないままだろう。


 好きだった。
水妖の自分がこの感情に溺れて燃え尽きてしまいそうなほどに、八重さまのことが好きだった。
恋していた。馬鹿だとは思うけど好きで、好きで、好きだった。
他の女子なんて考えられなかった。それぐらいに一筋に好きだった。
 最初に八重さまを異界に連れ込んだ時が1だとするならば、それから100は超えるほどに好きになった。
ずっと自分だけで独占していたかった。こちらを好きになってくれなくても、側にいられるだけで満足しようと言い聞かせていた。
 ……そうであったはずなのに。


 押し倒すこともできず、怖がる月之宮八重に口づけることもできなかった。
周囲はこんな自分をヘタレだと笑うだろう。無理やりに手籠めにだってできたはずなのに、どうしてか躊躇ってしまった。
結論は簡単。
それぐらいに、彼女のことを好きだったというだけの話。
いつの間にか、愛してしまっていたという結論。


「……ボクだけの、八重さまだったのに」
 すごすご家に帰ることもできず、夕方の街を彷徨った松葉は河川敷のほとりで抜け殻のようになっていた。
目を瞑ったって、絵に描けそうなほどに思い浮かべることができる主。
その恐怖に満ちた白い顔を思い返し、松葉は呟いた。


「怖がらせるつもりはなかったのに」
 本当に?
真に自分は、そうだったのか?
意識して欲しいと思っていた。できることなら、怖い男だと思われても良かった。今みたいに、何も感じてもらえないよりはマシだと思っていた。
けれど、思い描いていた未来はこんなにも痛い。
痛くて痛くてたまらない。千切れてしまいそうなくらいに、恋心が強く痛んだ。
草むらに寝転がり、藍色になっていく空を眺めた。


「これからどうしようか……」
 衝動のままに行動してしまったな。
靄に包まれたようになっていくこの先に、松葉は沈黙する。
……と、その時。
持って来ていたスマートフォンが突然に鳴り響いた。


「…………!」
 こんな時に、誰だ。
気が進まないと思いながらも、松葉はスマホの画面を見る。
しかしながら、登録していない電話番号が視界に入り、彼はそこから不穏なものを感じた。
明らかに怪しいと思いながらも、無心でタップして耳に当てる。


「…………誰だよ」
『――こんにちは、瀬川松葉』
 聴こえてきたのは、若い女の声だった。


「……お前は、確か」
 耳と記憶力のいい松葉は、その相手が一体誰なのか瞬時に理解する。
――どうして。この女が。
日之宮奈々子が、ボクにわざわざ電話をかけてくるんだ?


『……あら、あたしのことを覚えていたの。アヤカシ風情が、極めて勤勉なことね』
「……何の用だよ、糞女」


『私は、あなたを誘いに来たのよ。丁度手駒も欲しいところだし、良かったらあたしと組まない?』
「お前、アヤカシのことは嫌いだったんじゃないのかよ」
 以前に暴走したこの女に日之宮邸で襲われたのは記憶に新しいことだった。
好印象とは言い難い奈々子とは話しているだけでも苦痛を感じるほどだが、引っかかる言葉の端々に通話を切る決断ができない。
呆れて吐き捨てた松葉の耳に、衝撃の文句が告げられる。


『だってあなた、八重ちゃんのことが好きなんでしょう?』
「…………!」
 何故コイツがそれを知っている!
総毛立ちそうになった松葉に、奈々子は笑い声を上げた。


「どこでそれを……っ」
『あはは、不用心にも程があるわ! あんな監視カメラが仕掛けてあるところで告白なんかするから、あたしにこうやって悪用されるのよ!』
「……そうだよっ! ボクは八重さまのことが好きだ! だから何だってんだ!」
 八つ当たりのように松葉は叫んだ。
電話越しにこのような大声を出す必要なんかなかったことにすぐに気付くが、後のまつりだ。


『……あたしはね、あの狐に八重ちゃんを渡したくないの』
 ゾッとするほどに低い声で、奈々子は言った。


『あなたは八重ちゃんとずっと一緒にいたい。あたしは………………。利害は一致していると思わなくて?』
 その誘いは、余りにも甘美な響きを持っていた。
 松葉は、唸る。
抑えていたはずの嫉妬の念に、彼は悪辣に口端を上げた。


「……話を聞かせてよ」
 そうして瀬川松葉は、過ちを、繰り返す。
 裏切りは、蜜よりも甘い。







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