悪役令嬢のままでいなさい!
☆193 熱い紅茶と不吉な知らせ
誘われた私が生徒会室に入ると、そこには誰もいなかった。
ガランと空いた場所に、ふかふかクッションの椅子が複数あって、その内の一脚を東雲先輩は私に勧めた。肩をすぼめながらも、そこに座る。
「紅茶でいいですか?」
「……ええ」
訊ねられてそう応えると、先輩は上機嫌にクツクツ笑った。
優美な指先で、ティーポットに茶葉が入れられ、熱いお湯が注がれる。ひっくり返された砂時計から赤い砂が落ちていくのを、私は所在なく眺めていた。
こういう時間って、すごく困る。何を話したらいいのか分からないし。
「……他の役員さんは、どこにいったんですか?」
「みんな方々で仕事をしていますよ。普段から指導してあるので、僕がいなくても回っていきますから」
「面倒見がいいんですね」
「さあ?」
私が笑い出すと、東雲先輩は喉の奥で笑いを転がした。
いつになく彼は機嫌がいい。こういう時の先輩は好きだ。怒っている時はどうしたらいいのか分からなくなるけど、今はなんだか気楽な感じだ。
3分経って、赤褐色の紅茶がティーカップに注がれた。私の鼻先に穏やかな匂いが香り、喉がごくりと鳴る。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
過去に何度も繰り返されたやり取りを、私は初めてのように受け入れた。
いくら旧知の同士だといっても、記憶の欠落した自分にはいつだって新鮮に感じる。そのことについて負い目がないとは云わないけど、少しだけ過去を追い越していくことが嬉しくもあった。
じっと先輩の顔を見ていると、こう言われた。
「何か僕に聞きたいことでもありますか?」
「……あの、」
聞きたいことなら……ある。
ずっと胸に宿していた疑問を解消するなら今だ。それなのに、口を開いた私は明後日のことを訊ねてしまった。
「……みんな、文化祭に張り切っていますね」
「そうですね」
「長生きな先輩には、私たちのことは幼稚に見えていませんか?」
うっわー、何を切り出しているんだろう! 自分!
違う! 私がずっと聞きたかったのはこれじゃないのに!
頭を抱えてぷるぷる震えていると、東雲先輩は己の分の茶器を唇に当てながら、穏やかに微笑んだ。
「みんな些細なことで一喜一憂しているとは思いますが、別にバカになんてしていませんよ」
……意外な答えだった。
驚いた私が目を点にしていると、東雲先輩が告げる。
「むしろ、感性が純粋な君たちのような幼さがたまに羨ましくなることがあります」
「そうなんですか」
「そうですよ、八重」
先輩の発音した自分の名前に、私は恥ずかしくなって目線を泳がせた。低い、低い声で呼ばれて、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「八重?」
「……先輩は、もうあの桜のことは気にしていないんですか」
やっと言えた。
勇気を出して口にした私の言葉に、東雲先輩の動きが止まる。張りつめた空気の中で、床に視線を固定しながら喋った。
「白波さんに、枯れてしまった桜を見てもらったんです。彼女が云うには……誰かによって、もう手が施された後があるって。私たち以外の人があの桜のお見舞いに来たんだって、云うんです。
先輩は、心当たりのある人物は……いますか?」
私の声に、彼は青い眼差しをぐっと深くした。
そこには、悲しみと……根強い怒りと。
深海のような、浅瀬のようなさざめきが揺れ、金色の睫毛が伏せられる。
「……僕は知りませんね」
「……でもっ」
「申し訳ありませんが、それは僕の口にしていいことではありません」
……先輩は何か知っている。
意味深なことを言って、隠し事をするその様子は再会した頃の妖狐の姿にとてもよく似ていた。
「……そんなにあの桜のことが気になるんですか」
東雲先輩の苛立った声に、ゆっくり頷いた。
「はい」
「……アイツは裏切り者だとは思いませんか。アヤカシになるのを勝手に諦めて、僕の手助けなんかして自分勝手に投身自殺を試みるなんて、最悪以外の何でもない。
これでもしも、僕の恋路が実ったら全部アイツのお蔭だって云うんですか。アイツが死んだからだと……」
「先輩」
自嘲しながら口端を上げて、東雲先輩は紅茶を飲み干した。そうして乱暴に二杯目を淹れると、お代わりをする。
どんな顔をしていいのか分からない私に、彼は素っ気なく言った。
「こんなことでは僕も八重も、どう幸せになったらいいのか分からないじゃないか。アイツのやったことは、とんでもない悪手だ。塩なんか送ってくれと頼んだ覚えなんてなかったのに……くそ、」
「先輩、怒っているんですか?」
「当然です。これでもあの桜の付き合いは長かったんですよ」
憮然としたその声に、私は表情をくしゃっと歪めた。
どうしてだろう、涙が出てきそうで落ちてこない。泣いてしまうには、何かが足りなくて、切なくてしょうがない。
そんな半端な泣き顔をした私に、東雲先輩が呟いた。
「要はあの桜は、僕に君を幸せにしろと云いたかったんだろう」
……え?
瞬きをすると、先輩は苦笑した。
「とにかく幸せになりなさい、八重」
「しあわせに……」
呆然と私が言葉を落とすと、妖狐がこちらの頭を乱暴に撫ぜてきたのが分かった。温かい指先が触れ、その温度に眦が熱くなった。
「幸せになっていいんです、君はこれだけ頑張ってきたのだから」
よく頑張りました。そう言われて、私の頬に一筋の涙が落ちてきた。
「私、幸せになっていいのかな」
「いいんです。誰がそれを禁じましたか?」
「こんなにアヤカシを殺してしまったのに……」
「君の側にいる僕らがそれを許しましょう」
ツバキ。私、今度こそ、あなたのことを好きになってもいいのかな。
閉じていた世界が一気に芽吹いていく音が聴こえた。
瞼の奥で光が瞬く。
幸せになりたいと思った。
あの枯れてゆく桜の分まで、懸命に、懸命に。
「……あれ、お客さんですか? 生徒会長」
不思議そうな顔でドアを開けたのは、見覚えのある黒髪の男子生徒だった。その隣には、おっとりとしてそうな女生徒がいる。
「副会長。帰って来ましたか」
「って、何泣かせてるんですか! 誰もいないこんな場所で! しかも二人きり!」
ぎょっとした副会長がそう云うと、髪にゆるふわパーマをかけたお嬢さんが口元に手を当てる。蔑んだ眼差しを東雲先輩に向けた。
「仮にも生徒会室で……不潔……っ」
東雲先輩が怪訝な顔をする。
「まだ服を着てるのになんでそんなことを云われなくちゃならないんですか」
「まだってことは脱がす予定があったんですか、会長!」
叫んだのは副会長だ。ますます侮蔑的な視線になった女生徒に、私は見覚えがあった。いつか屋外でスケッチをしていた時に東雲先輩の隣を歩いていた娘だ。
「…………」
「ああ、八重。紹介しましょう。こちらの騒がしいのが副会長。この誤解の甚だしい女子が会計です」
「俺たちの名前は!?」
「え、そんなものが必要だとでも?」
「地味にヒドイ……」
そっか。生徒会の役員さんだったんだ。
息を呑み込んだ私と会計さんの目が合い、にこやかに会釈される。そこには悪感情は見当たらない。
「初めまして、月之宮さん」
「は、はじめまして……」
見当違いのヤキモチだったことに気が付き、私は真っ赤になった。
ギャアギャア騒いでいる隣に対し、会計の女の子は物腰柔らかに挨拶をしてくれた。その笑顔にちょっと癒されていると、彼女はすすっと目の前に近づいて薄紅の唇を開く。
「……月之宮さん、わたし以前からお伺いしたいことがあったの……」
「はい?」
「会長なんかのどこが良かったの?」
すごい毒舌を聞いてしまった。
絶句してしまった私に対し、会計さんは眉根を寄せながら一生懸命お話しをする。小人のような彼女がそうしているとぱっと見にはほのぼのとしているのに、会話の中身はイラク戦争の砂漠地帯のようだ。
「他人をいつも見下している、あの同じ人間とは思えない嫌味で陰険な男、わたしだったら絶対に御免被るのに……どんな人には云えないような手練手管で捕まってしまったの? お可哀想に……」
涙を拭った彼女の言葉に、東雲先輩が白い目を向けた。
「可哀想なことになっているのはお前の頭です、八重に妙なことを吹き込まないように」
「会長なんかに捕まったら、この先の人生お先真っ暗よ! なんで生徒会なんかに入ったんだろうって、わたしも百回くらい後悔したんだから!」
二学年なんだから鳥羽君辺りにしときなさい!と、恐らく本気のセリフをかけられ、私は目を白黒させた。
「ええと……鳥羽には多分彼女、います」
「……ちっ」
私の言葉を聞いた会計さんは、自分の親指の爪を噛んだ。
呆れた東雲先輩が、机に載っている書類の山を副会長に手渡しながらこう言う。
「帰ってきたのなら、次はこの仕事をやって来なさい。ほら、ここに幾らでもあるんですから」
「そんな馬車馬じゃないんだから少しは休ませてください!」
「昨今では馬の方がよっぽどいい働きをします」
悲鳴を出した副会長と会計に、東雲先輩が書類を押し付ける。それを持った会計さんが舌打ちをするも、東雲先輩はさりげなく無視をして二名を生徒会室から追い出した。
「……僕たち、キスでもしていなくて良かったですね? 八重」
最後の紅茶を飲んでいた私は、肩を竦めた東雲先輩から目を逸らした。
放課後、スマホに着信が一件だけ入っていた。
「……奈々子からだ」
何か不穏なものを感じた私は、人目を避けた場所で奈々子に電話をかけ直す。
しばらくたって、くぐもった彼女の声がした。
『……八重ちゃん? 今、いい?』
「ええ。いいわよ。どんな用事で電話をかけてきたの?」
こちらも小さな声で尋ねると、奈々子は布を押し当てたような発声で早口にこう言った。
『協会からのブラックリストに登録されている凶暴なアヤカシの目撃情報が県内で見つかったわ』
鋭い氷が押し当てられた気分になった。胃の腑が芯から冷えていくような思いに、私は身震いをしてしまう。
「ブラックリスト級……?」
『それも初期ナンバーの旧いタイプよ。目撃された二つ名は、【不滅の迷鬼】。一般的な伝承にはウィル・オ・ウィスプと残っているわ』
奈々子の言葉に、息を呑んだ。
「特徴は?」
『それは分かっていないけど……あたしは一つだけ知っているわ。殺人鬼ウィル・オ・ウィスプはね、ピンクに光る瞳をしているんですって』
「ピンクに光る目……」
呆然と繰り返した私に、奈々子は噛みしめながらそう言うと、『気を付けてね』と喋って電話をぶつりと切った。
冷たい風が外で吹いた。近づいてきた秋の訪れを感じながら、私は真っ白になっていく頭でこの知らせに慄然とするしかなかった。
どうしよう。
どうすればいい?
どこに逃げれば、いや、逃げても無駄だ。
見つかってしまう。追いつかれてしまう。私はいい。問題は、彼女だ――っ
暗やみに光が差し込む。
「あれ? 月之宮さん、こんなところでどうしたの?」
階段の影に隠れていた私を見つけた白波さんが、朗らかな笑顔で声を掛けた。
「……わあ、指がすっごく冷たくなってる!」
救世主のように、底抜けに優しいあなた。
こちらの手に自らの手を重ねた白波さんの声に、私は蒼白な表情で虚ろに呟いた。
「……大丈夫、よ」
そうでなくてはならない。
白波さんの柔和な表情が見える。温かな心拍数も、カラメル色の髪も抱きしめたいぐらいに大事に思っている。
……失ってはならない。
絶対に、絶対に、優しい友達のあなたは。
私が…………、
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