悪役令嬢のままでいなさい!
☆137 ボクは行かない
「いやじゃ。妾はまだ帰りとうない」
「なんでなのね!」
みんなで戻った旅館の一室で、座布団に座って番茶を飲みながら、蛍御前は唇を尖らせてワガママを言った。彼女に縋りつこうとするのは、遠路はるばる辿りついた女の子カワウソだ。男子達が寝泊まりする予定のこの座敷には、もう仲居さんによって布団が敷かれてある。
「わたしがどれだけ必死にさがしたか主様はなにもわかっていないのね! 置手紙1つで雲隠れされたわたしの身にもなってほしいのね!」
ヘーゼルナッツ色をした白蓮の瞳が涙が出そうなほどに潤んでいる。両手の指先を互いに絡め、顔を俯けた。
「手紙を残したのじゃから良かろうに。夏が終わったら帰るとそこに書いてあったじゃろう」
「そんなことどこにもかいてなかったのねっ!」
はて、と蛍御前の目が泳いだ。むくれた白蓮は懐から取り出した一片の白い紙を突き付ける。それは手紙というにはあまりにも短く、しかも雑紙の裏の走り書きだった。
《タビニデル ソノウチカエル シバシサガスナ》
――電報か!
それを見た私には、社に1人で置き去りにされた女の子カワウソの気持ちがとてもよく分かった。これでは説明書きも何もあったもんじゃなく、不安を煽るような文しか書かれていないではないか。
「そもそも、白蓮はどうやって妾の居場所を突き止めたのじゃ」
不機嫌モードに突入した蛍御前が番茶をすする。その切り返しに、白蓮は疲れた笑顔になった。
「親切なたんていにいらいして、目撃情報をずっと集めてたのね」
「そんな金はなかったはずじゃ」
「人間のたんていとは一言もいってないのね。空をとぶ鳥や地をはう虫、ひっそり息づく小動物からきいて歩いたのね」
そうやって、蛍御前が水渡りで一瞬で移動してきた道のりを白蓮は徒歩とヒッチハイクで捜索してきたのだという。道理で恨めしげな気配を漂わせていたわけだ――その地道な旅路の果てにあったのがバカンスをエンジョイしている神龍であったのなら尚のことタチが悪い。
「とにかく、妾は帰らんからな」
頑固にそう言い張る蛍御前に、わっと白蓮が泣きだした。
「……ひどいのね! ひどいのね! 主様はわたしがここまでくるのにどれだけかかったと思ってるのね!」
ぐずぐず鼻をすする白蓮に、蛍御前はしっしと追い払う仕草をする。まるでキャベツにたかった青虫を見るような目を向けていた。
「蛍御前。せっかく苦労して迎えに来てくれたんだから帰った方がいいんじゃ……」
心を落ち着かせた私がたしなめると、蛍御前は金色の瞳をうっとうしそうに陰らせた。水色の髪はオレンジのランプに照らされて、今は花緑青に近くなっている。
「いやじゃ」
ツンと顎を上げた神龍に、どうしたらいいのか周囲に困惑が広がっていく。ため息をついた柳原先生が、頭が痛そうにこう言った。
「なんでそんなに頑なに居座ろうとするんだ。リゾートなら一通り楽しんだ頃合いじゃないか。思い出だって作ったし、もう八月だって半ばになっただろう」
「妾は元々、九月までは滞在する予定だったのじゃ……。それに、八重に関しては気にかかる心残りがある。あとちょっとだけでいいから、神として手を下す前の猶予が欲しいのじゃよ」
小声でボソボソと語った神龍の言い分はよく理解できなかったけれど、何か彼女なりの考えがあることは受け取れた。
「それは、お前さんじゃなくちゃダメなのか? 東雲や、オレたちが代行することはできないのかい?」
「そなたたちに任せられるものか」
それだけで、蛍御前はこの問答を切り上げるつもりのようだった。そんなにこだわるような何が残っているというのだろう……。神様が処断を下さなくてはならないものが、私たちの前に横たわっているというのだろうか。
唐突に、私は不安になった。
陰陽師として見るならば、アヤカシに惹かれている月之宮八重は失格の烙印を押されてもおかしくはない。それが罪だとするなら、いつか天罰を受けることもあり得るのではないだろか。
「……で。そいつの正体がカワウソだっていうのは本当なわけ?」
半目になった松葉が、疑わしそうにテーブルに肘をついてこう言った。警戒心でピリピリしている。深緑の瞳が、疑心暗鬼に満ちていた。
「なのね!」
「……これまでどんなに探し回っても見つからなかったのに、このタイミングであっさり出て来られると複雑な気持ちになるんだけど。犬とか狸とかじゃなくて、本当に川獺の仲間なわけ?」
「わたしは嘘はつかないのね! わたしの名前は白蓮! お父さんとお母さんは間違いなくカワウソのアヤカシなのね!」
妙なことをカミングアウトされた気がする。一斉に静まり返った座敷の空気に、蛍御前が補足を加えた。
「白蓮はのう。アヤカシの両親から産まれた水妖の二世なんじゃ。……天文学的な確率の稀なる例じゃな。
――妾だって最初に会った時には酷く驚かされた。アヤカシ同士で子が成ることなぞ、絶無に近い故に」と、神龍がため息をつく。
松葉や東雲先輩、柳原先生に八手先輩が驚きの眼差しで、白蓮に視線を集める。注目された彼女は照れて頬を薔薇色に染めた。
「そんなに見られたらてれるのね……」
うん、これはこれで可愛い。
浜辺で睨まれた時にはゾッとしたけれど、こうして眺めていると白蓮からはアヤカシ特有の禍々しさを殆ど感じなかった。すごく綺麗に澄んだ瞳をしている。
「こんなこともあるんですねえ……」
東雲先輩が嘆息をして呟いた。
「彼女の結晶核はどうなっているんですか? 僕らのような怨念から成ったわけではないのでしょう?」
妖狐の疑問に、
「やはり、核の強度は低いようじゃの。こうして人型を保ってはおるが、戦闘になったら簡単に死ぬじゃろうな。たとえ殺されても復活するようなバケモノとは違って、二世は脆くて壊れやすいアヤカシじゃ」と蛍御前が涼しく答える。
「そうですか」
考え込むような顔になった東雲先輩に反し、明るく笑顔になった希未が松葉の背中をバシンと叩く。
「良かったじゃん、瀬川! 念願の仲間が見つかってさ! 今の気持ち聞かせてよっ やっぱり感動した? 一目惚れとかしちゃった? 白蓮ちゃんにお嫁さんになってもらいたいとかおもっちゃう?」
お見合いおばさんみたいなことを言う希未に、白蓮がキュッと反応をする。
「そんな、出会ったばかりではけっこんとか考えられないのね……。でも、なかなかの好青年なのね」
いや、それは気のせいだと思う。
乙女チックに頬を染めた白蓮に、松葉は腐りかけの生ゴミを見つけたような表情を返す。
「……こんなにバカな仲間なら、むしろいない方がマシだったよ」
「キュ!?」
「頭のネジが緩んだバカは、自分の同族だと認めたくないんだけど。っていうか、早く目の前から消えて欲しい。見てるだけでイライラする」
がああああんっと、効果音を立てながら白蓮がショックを受ける。穏やかな空間に亀裂が入り、みんなが凍り付いた。
ツンデレとかではなく、松葉は本気で嫌がっていた。
「そんなこと云うことないじゃん! あんだけ探してたのに!」
「ボクの想像では、もっと知性があったんだけど。なんだよコイツ、ボクの同族っていうより白波小春の同類じゃん」
「私ですか!?」
松葉の悪態に白波さんが驚きの声を上げる。
「だってこれでもこの子はカワウソなんだよ!? せっかく見つけた運命の出会いを、無下にしちゃっていいの!?」
「まあ……運命の出会いはもうしちゃった後だし……」
そこで松葉は、何故か私の方に視線を流した。アーモンド形の瞳が光り、じっと見つめてきた。何だか一歩くらい後ずさりしたくなる。
「ほう、そうか。松葉がそんなに同族を探しておったのなら、妾がカワウソの隠れ里への案内をしてやってもよかったのじゃがのう?」
高圧的な蛍御前のセリフに、ピクリと松葉が身じろぎをした。その雰囲気に呑まれそうになったけれど、慌てたように柳原先生が口を開く。
「ちょっと待ってくれ! 確かあの隠れ里は、太平洋戦争で崩壊したんじゃなかったのか!? 帰ってきたカワウソの話なんて聞いてないぞ!」
「いたんじゃよ。生き残りが」
蛍御前はぴしゃりと言った。
「帰ってきた数は少なかったがのう。かろうじて全滅は免れたのじゃ。今は廃墟と化した隠れ里で静かに暮らしておる。松葉さえ望むのならば、そこの新しい仲間として加えてもらえるように口利きをしてもいい」
意地悪な笑みを浮かべた蛍御前の提案に、松葉は悩むように考え込んだ。
カワウソの仲間と一緒に過ごすのは、瀬川松葉の長年の夢だったはずだ。人間の私の式妖として今は暮らしているけれど、本来だったら同族の方がいいのではないだろうか。
これは手放すべきかな。と思った。
愛着なら沸いている。一生と共に過ごす決意だってとうにしていた。私が死んだ後がどうなるかは分からないけれど、生きている限りはずっと一緒にいてあげるつもりだった。
けれど、それで松葉は幸せになれるのだろうか?
こんな卑屈な私といることで、このアヤカシは幸福だと感じられるのだろうか?
「……ボクは行かない」
くぐもった声で、松葉は蛍御前の差し出した手を拒絶した。
「なぜ?」
私は掠れながらも訊ねた。
「……望むなら、式の契約だって解除するわ。松葉のしたことは許されなくても、神様にだったらあなたを託せられるもの」
上辺の理屈がすらすらと零れ落ちた。本当は、蛍御前のことはそこまで信用してはいないけど……。心の奥底では居なくなってしまうことが寂しいくせに……私は余裕ぶった発言をしてしまう。
「そうじゃな。八重の代わりが欲しいのなら、妾の神使にしてやってもよいぞ。白蓮のツガイとなってもよい。妾は水の神じゃ。水妖として生まれた以上仕えられることを光栄だと思わぬか?」
「今は行かないって云ってるだろ。くどい」
松葉は不快そうに眉間にシワを作った。テーブルについた肘は動かさずに、顔を背ける。
「ボクの仲間なら、もういるし」
ボソッと呟かれた。
――ずっと黙って聞いていた遠野さんが、伏せていた目を上げた。鳥羽も驚きの表情を浮かべ、希未も意外そうに笑う。八手先輩は目をつむり、柳原先生は咳払いをした。山崎さんもおかしそうに苦笑した。
白波さんが嬉しそうに微笑む。まるで全てを包み込む聖母のような微笑だった。険しい顔をしていたのは東雲先輩で、松葉の残留をよく思っていないのが伝わってくる。
そして私は、呆然と松葉を見つめていた。
「だって、あんなに……」
私は雨の中で聞いた松葉の慟哭を忘れたことなんてなかった。ボロボロに火傷した松葉の零した涙だって、ちゃんと覚えていた。
「八重さまが死ぬまでは、この排気ガス臭い下界がボクの居場所だからさ」
松葉の仏頂面なセリフに、蛍御前が愉快そうに爆笑した。
「……そうか! ならば仕方ないの!」
正座をしながら呆気にとられた私に、松葉が笑いかける。熱っぽいオリーブグリーンの瞳がこちらを射り、爽やかに口端を上げた。
「そういうわけですから、八重さま。なるべく長生きをしてくださいね。
たとえおばあちゃんになっても、大好きです」
旅先でそう笑った式妖のカワウソに、私はくらりと崩れ落ちそうになったのだった。
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