悪役令嬢のままでいなさい!

顔面ヒロシ

☆69 花崗岩 (2)





 バタバタ足音を立てながら、月之宮邸の廊下を裸足の少年が走っていく。
汚れたシャツもズボンも着たままで、長い廊下を急いで走り抜けた五季は、慌てて一室のドアを開けた。
「信次兄さんが倒れたって本当か!」


 仕事の終わりに慌てて飛び込んだ病室で叫ぶと、中に居た他の人間がしいーっと口に人差し指を当てた。
 横になっていた信次が目を開けて苦笑する。ごほっと咳をして掠れ声を上げた。


「……いづぎはいつでも元気ですねえ」
「俺のことなんかより信次兄さんだ!」
「ああ、また心配をかけてしまってすみません。五季は工場から真っ直ぐここまで走ってきたんですか?」


 体力のある五男某は、それに頷く。
 目に入ったのは前回倒れたときと同様に痩せてしまった信次の姿だった。きつく歯ぎしりをしたくなった五季の心には、役に立てなかった自分への後悔も含まれている。
 戦闘機の部品を作る工場の手伝いをしていると言ったって、こういう月之宮家的な仕事の依頼は一切舞い込んでこないのだ。物の怪退治も余力を残すためにしばらく休業している。
 今の陰陽師の敵は、完全に人間が相手になっていた。


「わが軍に、ほどほどという言葉はない。テキトーに仕事をしないで、我ら身命をとして作業にあたった結果がこのザマだ」
 職場からずっと付き添いをしていた一守が、眉間にシワを寄せて言った。
 いつかの青火が雪男の伝手で取り寄せたショウガとヨモギ配合の葛湯を女中メイドが作って、信次に飲ませようとしているところだ。
……だが、食の細っている信次は殆ど嚥下えんげできない。


「一守兄さんだって、いつの間にこんなに痩せたんだ!」
「……うるさい」
「こっちは心配してものを言ってるんだぞ!」
「心配する暇があったら、少しでも働きたまえ。勉強でもしてろ」
「働きすぎた結果が信次兄さんじゃないか!いくら自分の部下だからって、そうやって追い詰めていたというのなら、俺は一兄に共感できないぞ」


 軽い口論になってきた2人の会話を遮ったのは、信次の咳の音だ。


「……信次は軽い夏風邪だ。そのうちに良くなるとも」
 深々とため息をついた一守。


 それに安心するどころか、五季は胸騒ぎを覚えた。
無表情を決め込んでいる一守に何か大きな隠し事をされているような予感がする。前回危篤になった時よりも、更に死という暗い影が信次に忍び寄っているように思えた。
 夏風邪というこの言葉は、兄の希望的観測なのではないだろうか?


「兄者――、何か隠し事をしてないか?」
「何を?」
「一兄は、俺たちと違って未来予知ができるだろう。もしかして、この戦争の勝ち負けについて重大な秘密を握っていたりするんじゃないのか?」
「……そりゃあね。私だって職務上の秘密は多々持っていたりはするとも」


 一守はまるで煙草の煙を吐き出すように、息を吐き出した。
短髪はカラスの濡れ羽色をしていて、黒の涼やかな目元と揃いになっている。


「一守兄さんは嘘つきだ。信次兄さんがこんなに苦しそうにしているのに、夏風邪だなんて嘘を言う」
 目を見開いた一守。


「じゃあな、大佐。俺、梢佑の子守りに行ってくるから――」
「それには及ばないよ」
「なんでだ!」
 視力が落ちてきた関係上、聴覚が過敏になっている一守は、イライラしながら五季に告げた。


「ほら、あちらを見たまえ。梢佑の方からこっちにやって来た」
 その指摘にドアの方へと視線を移すと、小さな背丈の五歳児が目元を潤ませて部屋に入ってきたのが見えた。
仮にも病人の室に子どもが入ってはダメだろう。
そんなことを思った一同が梢佑を追い出そうか迷った瞬間、小さな幼児はこう叫んだ。


「とーさま!」
「……なんだい? 我が息子よ」
「しょーすけは、そかいにいきたくはありません!」
「後にしてくれ。今は聞きたくはない」
 頭痛を覚えた一守の反応に、その腹部に飛びついた梢佑は大きな声で再度こう言った。


「とーさま。しょーすけは、そかいにいきたくありません!」
「忙しい中手配してやったというのに、なんて親不孝な息子だ。お前の好きな女中も一緒に疎開そかいさせてやると言っているのに、どこに不満がある」
「しょーすけは、とーさまといっしょにここでたたかいます」
「五歳の子どもに何ができるっていうんだね。残念ながらお前の手は要らないよ」
 立派な戦中の子どものセリフを、一守は一笑に付した。


「……見たまえ、大の大人ですら衰弱する世の中だ。子どもはおとなしく山に行って畑を耕している方がよかろう」
「いやだ、しょーすけはとーさまといっしょにいる!」
「全く、聞かない子だ」
「とーさまといっしょにいる!いっしょが、いい!う、わああああああん」


 仕舞いには泣きだしてしまった梢佑の態度に、一守は抱きしめてやりたいのを我慢することになった。ここで甘やかして都会の近くに実の子を置くことはできないのだ。
他の家も我が家の動向を見て、色々判断をするだろう。もしも、我が家が霊能力に甘えてのんびりしていたら、近所の子どもたちの疎開行きが先送りになるかもしれない。


大声で泣きわめいている梢佑を放っておいて、五季は部屋の中を見渡して眉を潜めた。


「……あれ、今日も青火さまはうちに顔を出してこないのか」
 これで一週間になる。
あからさまに舌打ちをしたのは一守だ。


「青火さまも前はもう少し余裕があったのに、社にこもったまんまじゃないか。そんなに仕事が溜まっているのか?」
 五季はこう言った。


「なあ、一守兄さん……って、」
 五季が一守にこのことを問いかけようとしたところ、父親の彼はもう梢佑を連れてこの部屋から出て行くところだった。病人への配慮というよりも、都合の悪いことを訊ねられそうになったから逃げ出したようにしか見えない。


「これぐらい、応えてくれてもいいじゃないか……」
 学生の自分と軍人の一守。
立場の違いを突き付けられた五季は、バタンと閉じた扉を睨み付けたのだった。







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