悪役令嬢のままでいなさい!
☆43 彼の肖像は、ハイネの詩集が似合うだろうか
き、気のせいかしら……、
……なんだか、狐の方から不穏な気配がしているような……。
笑顔が引きつった私。視線があっている狐の妖気が、徐々に変化していく。
どんどん黒いオーラが出ているように見えた。
「………………」
――マイナス253℃。
無言の東雲先輩は、氷の上に佇んでいる。
思わず、私が後ずさりをしてしまったのは、そこからとてつもない冷気を感じたからだ。
恐ろしいナニカが……目覚めようとしている。
危機察知能力が反応しているのは、私だけじゃないようだ。
鳥羽君は顔色を変えて立ち上がったし、柳原先生は慌てて私の背後に隠れた。
……私の、後ろに、とびこんでかくれた。
ちょっと、なんで生徒を防壁にしてんですか!?
「これは、随分とまあ……、」
至極ゆっくりと。
東雲先輩は、私の方を一瞥して壮絶に嗤った。
――こちらの背筋に冷たいものが滑り落ちる。
カワウソよりも危険な狐に、引き気味になったのは私たちだ。余計な刺激になることは一言も口にするまいと、一同は固唾を呑んだ。
「――僕の、可愛い八重に……なんという無体を働いてくれたものだ」
東雲椿、在籍は私立慶水高校三年生。
彼の印象といえば、胡散臭い笑顔の腹黒王子さま。
……だと、すっかり思い込まされていたことに、たった今気が付いてしまった。
腹黒なんて優しいレベルじゃない。
この男の本性は、たおやかな王子様でも紳士でもない。
「……く、はは……、
よりにもよって、月之宮の最後の姫君へ……なんという暴挙ができたものだ!」
――そんな台詞が響いたと思ったら。
東雲先輩の逆立った金髪から、半透明の獣耳が出現した。
ふぁさり、と扇に広がったのは狐の尾である。
複数ある尾を、のんびり数えられる余裕はないけれど、ぱっと見でも5本以上は確実にある。……目の錯覚であってほしい……。
想像以上だった狐の実力に、私は気が遠くなりかかった。
「…………」
満身創痍な天狗が、東雲先輩の尾を直視して絶句している。
唇を引き結び、顔色がどんどん悪くなっていく……。
もしかして、鳥羽君も気楽に学校生活してたけど、狐の強さを知らなかったの?
「……参ったな、東雲が完全に素に戻っちまってるよ。
好きな子を怖がらせないよーに、あんだけ神経質になってたのになあ……」と柳原先生は哀れむように言った。
――狐の爪先が少し尖って、黒く染まっていく。
歪められた口端からは犬歯が覗き、怒りに燃えた目の瞳孔はくっきり開いていた。
目元に影をつくったのは、はらりと落ちた前髪だ。
荒波と潮風にもまれた白き流木のような、そんな立ち姿であった。
優美ではないけれど、品性と野性味のある美しさ。
「……その罪、万死に値すると思えよ。畜生が」
狐は、マリアナ海溝よりも底冷えのする声で告げた。冷酷な表情だ。
――てめえ、ぶっ殺す。
と一方的に処刑宣言をした東雲先輩は、殺気をあらわに争いの現場へ向かっていく。
鬼とカワウソ。
ただ今の両名の争いは、
瀬川の出した水の蛇を、鬼が木刀一本で木端微塵にしたところだった。
八手先輩は大よそにテレポートの出現箇所を感知できるようで、瀬川は少し戦闘に苦労しているようだ。
東雲先輩がやって来ることに気が付いた瀬川は、焦って上空に退避する。
態勢を整えようと、残像を沢山残しながら瞬間移動しているカワウソの少年に――。
――東雲先輩が忌々しそうに足元から拾い上げて、フルスイングで投げた剛速球の石が見事に直撃した!!
「――あっづう!?」
これは痛そう。
カワウソの悲鳴が、グラウンドに響き渡った。
もう一瞬の早業だったけれど、私の見間違いでなければ投石はオレンジの炎にくるまっていた。……隕石のようなもんじゃん!
火焔石が命中したカワウソは、熱さと衝撃にビックリ仰天して地上へと墜落した。固い氷で強かに腰も打ち付けた。
八手先輩が見つけて、白茶のくせっ毛をした少年に歩み寄る。
たじろいだ瀬川は逃げようと地べたを這ったが、彼によって子犬を運ぶように、襟首を掴んで持ち上げられた。
瀬川はぎゅうっと首が締まってしまい、顔色悪くジタバタもがいた。
口汚く罵られても、八手先輩はそんなに気にしていない。
狩人と捕まった得物の図だ。カワウソもテレポートすれば逃げられそうなのに……あ、東雲先輩がしっかり第二弾の氷をスタンバイしてる……。
辺りを見渡せば、投げつけるには丁度よさげなサイズの氷が、グラウンドにゴロゴロ転がっていた。
炎をセットにしなくても、先輩なら瀬川のアバラ骨くらい折りそう。
「……これは、どうすればいいんだ」
八手先輩は、途方に暮れたように呟いた。
そこまで深く考えて、手元にぶら下げたわけじゃなかったらしい。
「……八手。それは此方で料るものだ」
腕組みをした東雲先輩に、鬼は「そうか」と頷いた。
素直な八手先輩は、ガタガタ震えるカワウソを狐の近くにぽいっと放り捨てた。
東雲先輩の姿を仰いで、瀬川は叫んだ。
「んで、なんで……こんな所に、九尾なんかいるんだ!?」
狐――いや、九尾の狐は、頭を抱えたくせっ毛の少年を容赦なく革靴で踏みつける。凄まじく恐ろしい笑みも浮かべた。
「それも見抜けぬ若造が、思い上がったな。
水獣風情が……梅雨の間に、貴様の水渡りで信仰を持ったまま逃亡される手間を思えばこそ、夏まで泳がせてやろうと思っていたのだが……。そこまでの知恵すらなかったとは、誠に笑わせてくれるじゃあないか!
そのカボチャ頭を買い被った僕も耄碌したもんだ」
東雲先輩のセリフを聞いて、
雪男が手のひらで顔を覆った。……もう、こいつは手遅れだと云わんばかりの仕草である。
この態度から察するに、生徒会顧問の柳原先生は、東雲先輩の怖い性格を知っていたらしい。
「俺、この間の辻本の口調と今、すごく既知感が……」
「……気づかなかったことに、した方がいいと思うわ」
食堂の出来事を回想してしまった天狗に、私は目を宙に浮かせた。
多分、あの時の東雲先輩は、辻本君の性格に似せるつもりは全くなかったのだろう。
天狗にそれとなく忠告をしに来て、あまりの鈍さに呆れ果てたのだ。
金髪碧眼という人目を引く姿では、瀬川に見つからないようにするのに苦労したに違いない。
「彼女の心が落ち着くまで、ゆっくり口説いていこうと思った僕の真心を……よくぞここまで踏みにじれたもんだなあ?
いっそ天晴だ、これで僕はまた、八重の警戒心を解くところからやり直しか!」
狐に腹立たしげにゲシゲシ蹴られて、「ひぎゃあ!」とカワウソは叫んだ。
……あれ?
さっきから東雲先輩、白波さんの名前呼んでないんだけど……?
…………なんだか、見たくない現実があるような気が。
鳥羽君が平坦な声で言った。
「色んな意味で、お前の男運ってすげーな」
止めて。……直視したら苦労しそうな予感がするから。
憂鬱そうな柳原先生が、オイルライターで煙草に火をつける。
「……月之宮にとったら、自分は下賤の身だって苦悩してたからなあ……。ハイネの詩集が似合いそうだって自嘲してたことあるぞ」
そこで、宮沢賢治と察しがつく辺りが嫌だ!
「柳原、この事情知ってんのかよ」
「……はっは。鳥羽よ、他人の恋路には深入りはしない方がいいぞ」
煙草を咥えて、柳原先生は悲哀のこもった口調で鳥羽君に言った。
「知らない方がいいことってあるもんだ。……カワウソの次に東雲にボコられるのは、誰になるか、とかな」
天狗は、真顔になった。吹き抜ける風が、黒いポニーテールを流した。
深刻な表情になった2人の男。
そこから視線を外すと、狐が、カワウソの少年を空高く何度も蹴り上げてコンボをきめているところだった。
炎の異能を使わない理由が、手加減というよりも思う存分いたぶってやろう、という目論見に感じられて。
何故だろう、今までの瀬川の所業を差し引いても。……その光景は、なんだか虐待の図式に見えてしまった。
複雑な心境で、それを眺めていた私に。一人の影が近づいてきた。
「……月之宮」
赤毛。斜めに切られた前髪。黒檀の木刀を肩にのせた体格のいい男子。
八手先輩は真剣な顔つきで私に言った。
「何か、困っていることはないか」
……へ?
聞き間違いかと思ったけれど、真っ直ぐな視線に射ぬかれた。真面目に彼は、とんでもない事を言った。
「月之宮を尾行しきれなくなったから、ここに入ってきたのだが……」
「び…………」
尾行って、つまり……。
「ずっとストーカー、してたんですか」
「そういうことは、得手なものでな」
八手先輩は、堂々と頷いた。寡黙な面持ちだ。
「先ほど、月之宮が校門から消えた時には肝を冷やしたぞ。騒ぎになっているようなので、顔を出したら東雲がオレを見つけて『なぜ都合よく、お前が出てくるんだ』と般若のようになってな……」
あれ……?そういえば、美談のように聞こえてたけど、東雲先輩だって普通にストーカーなんじゃ……。
……何も知らない私をアヤカシ二名が追いかけている所を、仮にでも想像したら、ショックで目眩がしそうになった。キャンプファイヤーのジェンカか!
始末に負えないのは、こうして助けられているものだから、文句が言えないことだ。
「約束のとおり。魔王とやらの首をすぐにはとらず、月之宮の付近で控えて、いつ呼ばれてもよいように見守ることにしたのだが……その説明をしたら、しこたま殴られてしまった」
あなたは一休さんですか。
「ちゃんと事情を聞きたかったからな、煩い羽虫もいなくなったことだ。何か、できることはないか?」
さぞや困ってることだろう、と期待に満ちた視線を注がれて。
私は、チラリと。
狐によってカワウソが天高く吹っ飛ばされる光景を眺めて……八手先輩に、云った。
「……もう、ないです」
「……そうか」
八手先輩は、非常に残念そうな声を出した。
このアヤカシの執拗なストーカー行為を止めようとするだけの気力は、私には残ってやいなかった。
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