悪役令嬢のままでいなさい!
☆30 独りぼっちの少年
 部活で顔を合わせた魔王陛下は、甲骨文字説を聞いて折りたたみテーブルに突っ伏した。いつもよりパサついた髪。血色の悪い肌は、彼がどれだけ魔導書と睨めっこしていたのかを痛々しいほどに訴えかける。
見当違いの活路にショックを受けてしまった夕霧君は、憐憫感漂う呻き声で。
「レオナルド・ダ・ヴィンチまで調べていたオレは何だったんだ……」
「なんで、そこで巨匠にいったんだよ」
 鳥羽君が突っ込むと、
「手がかりが無さすぎて、五芒星の黄金比くらいしか探す箇所がなかったんだよ」と夕霧君は吐き捨てた。
 ――黄金比。モナリザのことか。……そういえば、ダヴィンチの人体図って五芒星に当てはめられなくもないよーな。
「……いくぞ」
 がた、とパイプ椅子を鳴らし。重々しく立ち上がった夕霧君に、希未が慌てて聞いた。
「どこに行くっての!?」
 彼は、睡眠不足をあらわに告げた。
「オレは、今すぐ図書館に行く」
 これは、大分煮詰まっていると見た。
 いつも泰然としている夕霧君は一心不乱に情熱をあの魔法陣に注いでいるらしい。
足早にドアを開けて部室から飛び出した彼に、私たち4人は顔を見合わせ。各々、急いで彼に合流するために追いかけた。
「……たく、あの魔法陣が出来てから、ろくなことがねえ」
 鳥羽君が、図書館への階段を上りながらそうぼやいた。
「私、夕霧君がこんなに活発な人だなんて知らなかった」
 そんな一言を、白波さんが笑顔で口にする。鳥羽君が、それに異論を申し立てようとした、まさにその時。
 広い図書館から出て来たのだろう。一人の少年が踊り場に現れたのに、私は気が付いた。
 白茶のくせっ毛。深緑のアーモンドアイ。少し幼い顔立ちをした彼は、あと数年もすれば、身長も伸びて女性受けのする美男子に成長するだろうことを想像させる。……その退屈そうな男子生徒が、一年生の瀬川松葉であることを視認して、にわかに目を見開いた。
 この前。魔法陣の近くで見かけた時とは比較にならないほどに、少年の存在感が増していた。甘みのある人形めいたルックスであるというのに、この不穏さはなんということだろう。
芸能事務所が新人アイドルとして売り出したがるだろう上出来の顔なのに、どこまでも退屈だと言わんばかりの歩き方で、片手に雑誌を抱えてこちらに来る。得体の知れない薄気味悪さをまとった瀬川は、踵を履きつぶした上履きでテンポよく階段を下っていく。
――こいつの視界に入っちゃダメだ。
アヤカシだと知っていて、心の覚悟をしてもまだなお理性を超えて、私の本能が強烈に訴えるのはそれだった。
手のひらにじっとりとした汗が滲む。もう、心臓の音すら余計だと思いながら、
唇を引き結んで階段に立ち尽くす私とすれ違った、その一瞬。
……彼はしずかに、嘲笑を浮かべて風をきった。
高校生にしては小柄な男子が消えていくのを、息をひそめて見送った私は、同じように瀬川を凝視していたらしい鳥羽君に気が付いた。
「…………の、やろう」
……天狗も今の邂逅に何かを感じたのだ。
微かに悪態をつき、通り過ぎたアヤカシを振り切るように、鳥羽君は階段を駆け上がって白波さんを追いかけた。こういう時に彼が迷いなく向かう先はやっぱり彼女のところなのか――と、放心しながら私は切なくなった。
……普通に取り残されてしまった、自分に。
 「八重?」と希未に声を掛けられてようやく我に返った。友人は、焦げ茶の瞳を揺らして私を見つめている。
「――あ、……ちょっと考え事をしちゃってた、みたい」
そう。たどたどしくも誤魔化した私に、「そう。具合悪いんなら言ってよね」と希未は心配そうに呟いた。
鳥羽君が瀬川と組してはいないことが明確になったというのに、私の胸のざわつきは収まらなかった。……その事実に安心するどころか、あの少年の人を人とは思っていない目つきに嫌な予感がしてしまう。
ただ今遭遇したカワウソのアヤカシへ感じた寒気を、重く頭に刻み込んで。友達に心配をこれ以上かけてしまわないように、こわばった笑みを無理やり作った。
大丈夫だと、自分を誤魔化して。
エアコンのついた館内に入って辺りを見回すと、検索機にすぐざま突進したらしい夕霧君が陰気にタッチパネルを操作していた。白波さんは困ったように陛下の隣で待機し、鳥羽君は表情を消して腕組みをしている。
希未がぴょこぴょこ、と検索機まで跳ねていき、
「で、甲骨文字の本は見つかりそうなのさ?」
ちょっと充血した眼で、資料一覧表をスクロールしている彼は返答しない。……検索が上手くいかないのかしら。私はそのリストを覗き込むと、60件余りがヒットしてずらりとタイトルが並んでいた。
これは、少し時間がかかりそうだ。
「……あ。あっちで辻本君が勉強してる」
白波さんの声に、学習スペースの方を眺めると。分厚い参考書を積み上げて、ノートに黙々とシャーペンを走らせる痩せた男子学生がいた。周囲の存在をシャットダウンするように、修行僧のような横顔で黙々と勉学に励んでいる。
「……もしかして、前に私たちが図書館に来たときも、ああやって勉強していたのかしら」
そう呟くと。希未がバツが悪そうになる。
「そーいえば、前回来たときに騒がしかったかも。だから、食堂で嫌味を言ってきたんだ」
……気まずい。責は私にもある。
白波さんがポツリと言った。
「食堂で会った時はどうしちゃったのかと思ったけど、……ちょっと安心したかもしれない。昔の辻本君のまんまだよ」
 ……面識はないのだけれど、確かにそれは分かるかもしれなかった。あの日、殺気立っていたのは怒っていたからだったのか。
今日。夕方の図書館で見かけた辻本君は、静謐な雰囲気の生徒で。どっちかというと草食獣のウサギやヒツジっぽかった。
「ジキル博士なんじゃねえの」
鳥羽君は、冷めた口調でそう言い捨てた。
忌々しかろう私たちが近くにいるというのに、辻本君はこちらを見ようともしない。言いたいことを言ったので、興味も失せたのか。もう、関わり合いたくもないのだろうか。
「どっちにせよ、極端な奴ね」
希未は、むっと唇を尖らせた。
今更、詫びを言葉にしたところで、辻本君は受け取ろうとしないんだろう。後悔とわずかな寂寥感を味わっていると、夕霧君が検索機から顔を上げて言った。
「……全部、貸し出されている」
かすれ声だった。……陛下、脱水症状寸前なんじゃないでしょうね?
「へえ、穏やかじゃあないね」
希未が、そんな感想を漏らすと、陛下は髪をくしゃくしゃにして続ける。
「……ああ、犯人の痕跡かもしれないな。甲骨文字に興味のある学生と、どっちのパーセンテージが高いと思う?」
「愚問ね。前者を私は推すわよ」
私が、魔王陛下にそう進言すると、「だろうな」と夕霧君は嬉しそうに笑った。ようやく、一歩前進して晴れやかな表情になった彼に、白波さんが聞いた。
「あの。でも、誰が借りていったかは調べようがないんじゃあ……」
貸出記録、個人情報ですもんね。白波さんの言葉に、鳥羽君は「常識的に考えればな」と返答した。
「そうね、社会的には許されないわね」
私がそう付け足し、白波さんが「そうだよね、だったら……」と言いかけると。それを遮るように、鳥羽君が親指でとある方向を指して、告げた。
「……でも、それを気にしないのが栗村だろ」
すみっこで本を読んで、放課後タイムをまったり過ごしていたらしい。図書委員の遠野さんを発見、逃亡阻止、何事かを交渉し迫っている希未の姿に、白波さんは絶句した。
「白波と月之宮は、とりあえず外に行ってろ。栗村の暴挙の類が及ぶぞ」
「鳥羽君はどうするつもり?」
鳥羽君の奨めに、私が訊ねると。
「俺は、ここに残る。色々気になんだよ」
「あら、そう。収穫は教えてちょうだいね」
ひとまず、利害は一致しているだろう天狗の返事に頷くと。私は図書館の外に出る。彼はただの女生徒であると信じているのだから、わざわざ職業をばらして険悪な空気になることもない。
……それに、このきな臭い事件の最中で、これ以上手におえない騒ぎになるのも御免こうむりたいのだ。
「つ、月之宮さん!止めなくっていいの?」
わたわたしながら、ガラス扉の近くに立つ私の近くに来た白波さんの言葉は、人としてひじょーに正しい。先ほどこの階段を下っていった少年の笑みを思い出して、私は眉を潜め、いつもよりビターに彼女にそっと告げた。
「私、そこまでいい子じゃないの」
「えっ」
予想外らしいセリフに固まった白波さん。そんなに驚かなくても。
「い、いい人だよっ、月之宮さんはいい人だよ!?」
動揺の余り、心を閉ざしてるっぽいクラスメイトの自虐をフォローし始める白波さん。伝えたかったニュアンスが半分くらい削減されている。
「そーかしらね」
なんだか、この子の前で肯定する気分にはなれないや。
あの魔法陣の件では完全に後手に回っている現在、ちょっと法律に抵触しかけても手がかりが欲しいのが本音だもの。私の腹ん中なんて、良くて灰色だろう。
「自分でそういう事言っちゃだめだよ」
真剣な目でそう聡そうとする白波さん。ネガティブ発言に変換されちゃったのね。
「他人なら良いの?」
「……ええっ」
つい、魔が差した。白波さんの言葉じりをとると。彼女は困り果てたように目をぱちぱちさせた。私は苦笑して口を開く。
「ちょっとしたブラックジョークよ」
と言う名の、意地悪。
なんだろう、最近白波さんの『優しさ』とか『無垢さ』とか『清廉さ』という私とは縁もゆかりもない美徳が発揮されると、少々彼女をイジメたくなる心境にかられるのだ。悪役令嬢……というよりは、これは私の業ね。多分。
「月之宮さんんんっ」
ふにゃあ、と口をへの字にした白波さん。それを、宥めながら私は口端を歪める。
……自分が死んででも、クラスメイトの白波さんを守りたいと。本心から思えない段階でこの手のひらから高潔さは抜け落ちてしまっているんだと、実感せざるを得ない。
もう善悪では割り切れない気持ちが、生き残りたいと泣き叫んでいるのに。こうして剣を手放すことも出来ないのだ。
いくら鳥羽君に惹かれてしまったところで生まれも育ちも、変えようがない。周囲に許されやしないものに挑戦するようなロミジュリ精神があっても困るだけよね……、とそんな込み入った思いを抱えながら、手すりの近くで待っていたら。
険しい顔の男子生徒が図書館を飛び出したのが視界に映った。
驚きに、私はうろたえてしまったけれど……。幻覚じゃない、物凄い剣幕の鳥羽君だ。
ガラス扉を乱暴に開け。私たちの存在を忘れてしまったのか――力強く階段を一気に踏みとばした。悠長に歩く余裕がないのか、大胆なジャンプだった。
よっぽどのことがあったのだろうか。もう怒りの余りか、人に擬態していたことを本人が失念しているかのようで――そのまま廊下を走っていった。私は何も云えず、その姿が遠のくのを見守るしかなかった。
数秒だ、これだけの出来事を脳がちゃんと把握してくれるのに数秒はかかった。
戸惑いに、私と白波さんが言葉を失って立ち尽くしていると。開けっ放しになっていたガラス扉から、細身の男子。夕霧昴が訝しそうに姿を現した。
「……あいつ、どうしたんだ」
突発的にいなくなった鳥羽君に、そう呟いたのは夕霧君だった。
「と、ばくん?」
彼が消えた廊下の先を見て、手すりにかけよった白波さんが小さく声を漏らした。二階の踊り場から乗り出して見下ろしため、茶色みがかった髪がふわりと胸元にかかる。
大事で、か弱い白波さんを置いてくほどのどんな用事があったのだろう。
「何か、言い残したりしていないの?」
気を持ち直して夕霧君に訊ねると。彼は、当惑したように言った。
「……いや、オレの顔をやけに眺めてると思ったら、妙なことを口走って出て行ったんだ」
「何を?」
「ダヴィンチを調べたお前は間違いじゃなかった、と」
意味不明だ、と陛下は肩を竦めた。
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