声の神に顔はいらない。

ファーストなサイコロ

25 片鱗

 どうやら私は『匙川ととの』という存在を過小評価していたようだ。そう思った。彼女が本番で発した声。それは道すがら二人でセリフを確認しあったあの時の声とはまるで違った。彼女が実力を隠してた? あり得るが、私の見立てでは彼女はそんな器用なタイプではない。

 それにきっと彼女は自身の特異差にきっと気づいてないだろう。今さっきまでだって、台本を持ってくるのを忘れて強張ってた様だった。彼女は新人……とは呼べないくらいらしいが、アニメの収録現場の場数は最近ようやくってくらいだと調べてる。

 こういう事は時々ある。かくいう私も新人時代にはそんな事をやらかしたものだ。ちゃんと現場まで持ってきて、ボロボロになるくらいに読み込んでるのに、本番で緊張しすぎて直前まで持ってた台本を何故か椅子に置いてくるというね。

 まあだけどそれは新人なら誰もが通るいわば登竜門みたいなものだ。私は彼女がどうするかと見てた。大体なら、男の人なら気合で続けるがグタグタになる。女の子なら泣いちゃったりしちゃう時もある。何回か見てる。まあ皆暖かく見守ってるから、この位で雰囲気が悪くなる事はない。だから別段手助けする事でもなかったんだ。

 なんとなくこういう事が起こると、周りは見守っちゃうんだよね。なんかそういう風習みたいな? 本人にとってはもうこの世の終わりくらいの気持ちなんだけどね。何せ新人なら毎回の収録は勝負だし、最初の印象は大事だと思ってるだろう。
 匙川ととのは新人ではないが、ある意味崖っぷち声優だ。彼女は何とかこの業界にしがみついてる立場。いわば新人なんかよりも、現場にかける思いは強いかもしれない。

 そんな彼女が、台本を置き忘れる。頭が真っ白になってしまってもおかしくない事態だ。実際私は彼女は何も言えないだろうと思った。本当はちゃんと頭に入ってたとしても緊張と焦燥が脳の機能を阻害するんだ。最悪泣く。その時は、私がちゃっかりフォローして評価を上げようと目論んでたんだけど……私は周囲をみる。

 皆が匙川ととのの言葉に聞き入ってる。緊張なんて感じられない完璧な機械的な声だった。機械的な声って尖ってるというか、イントネーションとかが特徴的な事があるから緊張してたらセリフをミスりやすい奴だ。けど、匙川ととのにその心配はなぜだか起きない。

(はっ!)

 私は誰よりも早く意識をキャラへと戻した。なぜなら、私達は掛け合いをしてるのだ。匙川ととののセリフの次は私のセリフだ。私は動揺を収めて、今まで通りにキャラを演じる。次のセリフまでに急いで台本を取ってくるかな? と思ったがどうやら匙川ととのはそうはしないらしい。

 そしてそのまま、匙川ととのは台本をもたないまま、一分近くの掛け合いを一発オーケーで録り終わった。

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