霞む空、白い部屋

海鳥モアル

蛞蝓の軌跡

 けたたましい蝉のバカ声が伽藍堂に響く。
 机も椅子もロッカーも無ければ、もちろん空調も無い。
 廃校になった教室の真ん中に仰向けの青年が溶けている。


 蒸し地獄からの救いを求めて床を這い、窓を開けようにも外は無風で、カーテンは無情にも静止を保つ。


 救われない青年はまた教室の中心まで這い戻る。床に汗を滲ませながら、さながら蛞蝓のように。


 蛞蝓は中心へと至る前に力尽き、ひっくり返って天を仰ぐ。追い討ちの西陽が股間の辺りを照射する。


「どこ照らんしてんだよ、くそ」


 彼は、待っていた。
 彼は、祈っていた。
 彼は、呪われていた。


 数年前、彼がこの学校の生徒だった頃、この伽藍堂にはもう一人少年がいた。
 蛞蝓にとっては、その少年は救いだった。


「早くこいよ、腹へった。ハンバーガーとか、食いてぇぞ」


 独り言を吐くと、天井が滲んだ。
 滲んで、霞んで、あの日の夢に暗転する――――




――「ねぇねぇ、俺たちがクラスでなんて呼ばれてるか知ってる?」


 陽気な彼のバカ声が伽藍堂に響く。
 茹だる暑さの中、気だるく目を開くと琥珀の様な瞳が覗き込む。
 人懐っこいその顔は俺の視界に収まりきっていない。


「近ぇよ。てか、遅ぇよ」


 質問には返答しない。
 二人は教室の端に属する存在であった。ロクな呼ばれ方はしていないだろう。


「ハピネスセットだって!!」


 ハピネスセットは、地元のバーガーショップのおまけ付きのセットメニューの事だ。
 せっかくの極上の笑顔を引き剥がすのも申し訳なく、何も返答はしなかった。
 明らかな悪意を感じたからだ。


 二人揃って頭がハピネス。
 もしくは、万人から好まれる彼とオマケの俺。もちろん後者だろう。
 彼を日陰者にしているのは俺だった。


 健全とは言えない環境で育った俺は、その劣等感を拭いきれずに周りとの関わりを避けていた。
 幼なじみの彼はそんな俺を見捨てる訳にもいかない。
 そして、俺も彼を手放す事が出来ないでいた。


 学校に居場所がない俺は、彼の部活動が終わるまでこの空き教室で息を潜める。
 彼が迎えに来てくれて、俺はやっと呼吸が出来る。
 本来は皆の中心に居るであろう彼を俺に縛り付けていた。


 ハピネスセットへの反応を期待している彼を無視して本題に移る。


「今日は久しぶりに皆で集まれるんだからさ、早く行こうぜ。待たせると伊織うるせーし」


「伊織、寂しいんだよ。俺は六車と同じ学校だし、小鳥遊達も同じ学校になれたのに、伊織だけ学校に友達いないんだもん」


「小鳥遊さ、すげーよな。俺達の集まり皆勤賞じゃん」


「うん、小鳥遊は必ず来てくれるよ。俺がいたらね」


 胸がざわついた。小鳥遊の事を話す時、彼の視線は地面に堕ちて虚ろになる時がある。いつか自分が堕ちる地獄を俯瞰している。そういう眼をしていた。


「ねぇ、六車。皆の所に行く前にさ。君にだけ聞いて欲しい事があるんだ」


「......なんだよ」


 地獄から戻った彼の視線が俺に向けられる。木々がざわめいて、無風の伽藍堂に風が吹き込んだ。不動のカーテンがなびいて、彼を覆い隠す。


「大人になったらすぐに死ぬね」


「馬鹿言うな馬鹿」


俺はあいつの言葉を遮った。


「おい、真面目に聞けよなっ」


 カーテンが引いていつもの彼が顔を出す。俺は少し安堵する。
 馬鹿げた告白を聞いた時、カーテンの向かうには彼以外の何かを感じた。


「聞いてよ、六車、本当に」


「聞かない聞かない。お前は死なない」


「ねぇ、本当なんだよ、俺もうダメだと思うんだ」


「お前は昔からちょっとダメだった」


「六車ってば」


 彼の言うことを俺は察していた。聞く訳にはいかなかった。聞いてしまったら最後、俺達の日々は変質する。


 廊下に向かう。どこか二人きりじゃない場所へ。彼が言葉を発せない場所へ。


 廊下への扉を開けようと伸ばしたはずの手は俺の背中に回った。俺は彼に手を絡め取られたまま扉に激突し、そのまま押さえ込まれた。


「六車、膨らんでいくんだ。嫌な想いが。俺、おかしいよ」


 彼は口を開いてしまった。俺の耳はその言葉を受け取り、身体は反応を示してしまった。俺の反応を彼は受け取ってしまった。
 もう後戻りは出来ない。


「大人になる頃にはさ、俺、あの子の事壊しちゃう」


 聞きたくなかった。彼の口から聞かされる犯行予告。別の奴への歪んだ告白。
 俺は睨むように彼を見つめる。彼の眼も俺を向いているが、どうやら俺は映っていない。どこか遠くの地獄を見詰めている。


「知ってるよ」


 俺の言葉に彼は地獄から戻ってくる。


「俺は知ってる」


 何度も見ていた。馬乗りになって首を絞める彼と、抵抗せずに首を絞められている友人の姿を俺は何度も見ていた。


「ごめんね、ごめんね」
「いいよ、大丈夫だよ」
「ありがとね、ごめんね」
「いいよ、もっとしていいよ」
「大人になったら、今度は小鳥遊が俺の首を絞めてね」
「いいよ、僕が絞めてあげるね」
「お願いね、死んじゃうくらい絞めてね」


 俺はその行為に何度も遭遇した。
 そして、ただ眺めていた。
 二人には何かがあった。
 俺の居られない何かがあって、だから、ただ眺めていた。
 苦悶する彼を、甘受する小鳥遊を。


「お前の話、ちゃんと聞いてやる」


 彼は安堵し、口を開く。その口から声が漏れる前に俺はまた遮った。


「お前が大人になったらな」


 彼は耳まで紅潮し、怒りが露になる。しかし、その顔は俺の知っているあいつの顔だ。俺も安堵した。


「ほんと、六車て知ってるだけで触れてくれないよね」


「大丈夫だってわかってるからな」


 そう、俺達は大丈夫。
 俺が小鳥遊の事も壊させないし、お前の事も壊さない。


「大人になったら、この教室でちゃんと聞いてやる。だから、それまでにちゃんと話せるようにしとけ」


「間に合わないよ」


「大丈夫」


「それに、この学校廃校になっちゃうじゃん」


「大丈夫」


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。
 俺も彼も健全な環境には恵まれなかった。その歪みを思春期というやつが助長しているだけなんだ。
 俺達は大丈夫、大丈夫、大丈夫。


「もういいよ、わかった。じゃあ、六車、大人になったらちゃんと聞いてよね」


「うん、聞かせてくれ」


 俺達は大人になっても大丈夫――――




 ――手のひらの刺激に気がつくともう辺りは暗くなっていた。無意識に握り込んでいた彼の遺骨が手のひらに突き刺さっている。石ころみたいになってしまった彼をそっと撫でる。真っ暗な教室には夜風が入り込む。


「なんだよ、来ねぇじゃん、話し聞かせろよ」


 口角が痙攣し、息が絶え絶えになり、天井がまた滲む。


「お前居ねぇと、話聞けねぇじゃん、小鳥遊もお前も、壊れちまったじゃん」


 カーテンがあの日のようになびく。


「新しい世界ってなんだよ、どこにあんだよ」


 手の中の彼と、彼からのメッセージカードを握り締める。


『六車、ありがとう。新しい世界には来ないで』


「連れてけよ、約束だろ、お前の話、聞きてぇよ」


 あの日の後悔と懺悔が入り雑じる。
 俺は逃げた。信じる振りをして彼から逃げたんだ。
 ずっと側に居てくれた彼から逃げ出して、彼は消えてしまって、俺は息が出来なくなった。
 すがるような蛞蝓の嗚咽が伽藍堂に響く。


「あの日お前が言おうとした事、俺、絶対に受け止めてやるからな」


 伽藍堂には、もう蛞蝓はいない。屍の上でしか生きられない蛆虫が一匹、歪んだ決意を固める。

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