僕の恋人は僕が嫌い

椎名


 薄っぺらなプリント用紙と筆箱。シャープペンシルが横に添えられる。

「今から十分な。はい、始め」

 時計を確認した遠矢の掛け声から、裏返しのプリントを表へ返し、堂本はシャープペンシルを握った。

 放課後だ。
 教室内には数人、ちらほらとクラスメイトの姿が残るものの、殆どの生徒は出ていた。そんな中、堂本は居残りとばかりに小テストを受けていた。試験監督は霧島遠矢だ。授業時に、遅刻者がいたら適当に受けさせておいてくれ。なんて無茶振りを数学担当教諭よりされていたからだ。実際、数学の小テストの評価は馬鹿にならない。
 カチカチと無音を刻む音がする。それを芯が擦れていく音が裂く。気を遣ったのか、いつの間にか教室内に残るのは遠矢等のみとなっていた。
 堂本の前の席━━河北の座席を拝借して、無気力な面構えながらも解く手は止まらない堂本を遠矢は眺める。
 睫毛が長い。女子のように反り返らずストレートに伸びている為、一見はわからないが、上から見下ろしてみればその長さは顕著だった。彼の高身長も手伝って、こんな光景を知るのは自分だけなのではないか、なんて考えてしまう。そう思うと、少しだけ気分がいい。きっと普段他人に見られることのない旋毛が、無防備に晒されているのも愉快だった。
 指が長い。爪は綺麗に切り揃えられていて、鉛筆━━この場合はシャープペンシルだが━━を握る手の形も教えの通りで美しかった。思えば、箸を持つ手も正しい持ち方で、今時の若者にしては珍しいのかもしれない。そういった所作の節々から、彼が受けてきた教育の有無が垣間見えて気を引かれた。
 鼻が高い。俯いていてすらわかる真っ直ぐな鼻筋は、彼の目立つ顔立ちの一つとして大いに貢献していた。鼻のシャープさは顎にも比例していて、輪郭からして男らしい黄金比を示していた。
 堂本孝人は綺麗だ。女性的な部分など殆どない。綺麗という誉め言葉は彼には相応しくないのかもしれない。それでも、遠矢は目の前の彼を綺麗だと思った。
 物を言わないノスタルジーな光を受ける彼は、綺麗だ。

「━━霧島? 終わったけど」
「あ、ああ。うん。確認する」

 ペンを置いた彼からプリント用紙を受け取って、ざっと全体を眺める。━━うん。記入漏れはなし。

「これでいいよ。じゃあ俺は職員室に出してくるから━━」

「ほら、終わったって」
「今ならいけるじゃん」

 廊下から少女のささめき事が聞こえて、堂本と遠矢は同時に声を見遣った。ガラス窓の嵌め込まれた扉を三分の一程残して、瞳を獲物を前にした猫のように開く少女が仁王立ちしていた。左手には彼女の腕へ縋るようにして立つ少女。右手には興味津々だと顔に書いた三人目の少女が二人きりの教室を覗いていた。
 遠矢は瞬時に脳内の名簿を取り出す。━━河野かなこと清水咲穂と山田泉か。全て同じクラスの女生徒だ。
 ズイ、と中心の生徒━━清水咲穂が踏み出した。

「霧島。今さ、大丈夫?」
「さ、咲穂ちゃん……やっぱり迷惑だよ」
「かなこはちょっと黙ってて」

 不安げな左手の少女を抑えて乗り出した清水に、ええと、と遠矢は淀んだ。

「ちょっと職員室に行かなきゃいけないから、」
「俺が行くぜ」

 思わぬ横槍に本人以外の全ての目が堂本を見た。

「別にそれ提出するくらい誰でもいいだろ。ちゃんと霧島が見てた、てのは明日霧島が証明してくれればいい話だし。……行ってこいよ」

 空洞の奥のような瞳が悦を持って笑まれる。
 嗚呼、また何か━━堂本が愉しいと思うような罠が仕掛けられているのか。
 わかっているのに━━『霧島遠矢』は断れない。

「えっ、ほんとに? 任せちゃっていい? 堂本くん優しいなぁ」
「フハッ、思ってもねーくせに」
「バレたか」

 まるで友人のように空々しく声で笑って、プリントを置いて立ち上がる。この流れはどちらだろうか。相談か━━告白か。用があるのは河野かなこだろう。付き添い達はどのように扱うのが正解か。
 笑顔の下で機械的にパターンを選出した遠矢は完璧な誘導で廊下へと向かった。ふと振り返り、堂本へとそれ出せたら帰っていいよー、なんて手を振ってみる。そんな彼を、教室にひとり残る堂本はただただ無機質に見つめていた。

「……出すか」

 女生徒等を引き連れ遠矢が消えたのを確認してから、堂本も立ち上がった。そのまま帰宅しようとスクールバッグを手に取る。

「…………」

 ━━持ち手はするりとこぼれた。
 廊下を歩く彼の手にあるのは、プリント用紙のみだった。





 きもちわるい。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 遠矢は走る。普段ならば、廊下は走るなよー。なんて中身もなく笑いながら注意する立場の遠矢が、今、懸命にリノリウムを弾いていた。
 霧島くん。少女の甘い、柔らかで繊細で綿菓子みたいな声が耳を刺し抜く。
 ごめん。恋人とか考えられないんだ。そう断った時の少女の痛みの表情が焼き付く。
 抱き締めてもらうだけでも駄目かな。ちゃんと諦めるから。柔らかすぎてぐにゃぐにゃに崩れてしまいそうな身と細い二本の縛りが背へと回る。
 霧島くん。決心した少女の瞳が見上げる。美しくて吐き気がする。

 血を透かせた皮膚の柔らかさが唇に生きた熱を伝えた。

「ッゔ……ぇ、」

「━━霧島?」

「…………ど、もとくん……」

 無我夢中の先に辿り着いた教室にて、とっくに無人のつもりであったそこに自身の名を呼ぶ声が落ちて遠矢はフラフラと顔を上げた。

「どうした。顔色すげぇぞ。倒れるんなら救急車でも呼ぶけど」
「な、んで……帰……」
「バイトまでまだ時間あるし」

 扉へ寄り掛かり息を荒げる遠矢に、流石の堂本も怪訝に思って近付く。
 霧島遠矢の弱った姿を知っている。彼の過保護な兄に弟は存外身体が弱いのだと念を押されている。
 遠矢自身に対しての情はなくとも、世話になっている恭介と馨の二人に仇返しするような真似はできない。

「そ、か」
「お前それ帰れんの? 兄貴呼ぶか?」

 スラックスのバックポケットから携帯電話を取り出した堂本に、遠矢は加減を忘れて手首を取った。

「や、め、やめて。そんなの、いらない」
「じゃあどうやって帰んだよ。俺、バイトだから送れねーよ。つかなに、貧血?」
「一人で帰れるよ。堂本くんに送ってもらうとか、気色悪い」
「俺もお前支えて送るとか気色悪い」

 沈黙が落ちて、繋がった手のひらと手首の熱に意識が捕らわれる。
 人の体温だ。先程と同じ、他人の熱。

 嗚呼、なんて━━━━

「堂本くん」

 俯いたまま、遠矢は冷たく呟いた。

「キス、してくれないか」

 再度の沈黙。
 空気が動いた。堂本が息だけで笑ったのだ。

「へえ。頭でもおかしくなったか」
「そうかもしれない。だから、荒治療」
「で、嫌いな奴利用するんだ。嫌いだから?」
「嫌いだから」

 即答する遠矢を名の当てられない感情を点した目で見下ろした堂本は、取られた手首を逆手にその人を寄せた。
 つい先程まで眺めていた睫毛を逆向き見上げる。少女とは違いまるで熱のない瞳が露になる。スウ……とこもっていた悪寒が引いた気がした。
 堂本の繋がれていない片手が遠矢の頬を撫でる。空洞の底の瞳とぐちゃぐちゃに混ざり迷子になった瞳が絡み合う。そして━━━━熱い唇を冷たく重ねた。

「━━っ、は、んぅ、ン」
「……ちゃんと開けてろ」

 頬から滑った骨太の指が遠矢の口腔へ差し入れられる。収まる術を奪われた舌が奥で縮こまりそれを追って舌が深く差し入れられる。どこまでも伸びてそのうち喉を突かれてしまうんじゃないか、なんて検討違いな恐怖に駆られ、自ら絡め止めようとする。それすらも利用されて臆病な舌を引っ張り出される。
 聴くに堪えない音を立てて、生理現象として分泌される唾液によって堂本の指も互いの顎もベタベタだ。やがて解放に作られた微かな距離にも銀筋が伝って重力に従い切れた。

 ふうふうと肩を震わせる遠矢を堂本は無感情に眺める。

「━━で、なんかわかったわけ」
「……ふ、は、は。あは。」

 吐き捨てるように口角を定位置へ戻した遠矢は、堂本を見上げた。

「━━やっぱり、きもちわるい」

 眩しいものを見るように、笑っていた。

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コメント

  • のなめ

    続きが楽しみ

    4
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