僕の恋人は僕が嫌い

椎名

霧島遠矢は怯える。


 ━━おかあさんはおとうさんがすきなの?

 ━━そうよ。だぁいすき。とうやもだいすきよ。

 ━━でも、おかあさんとおとうさんはけっこんしてないよ。ふつうはけっこんするんでしょ? どうして?

 ━━けっこんしてなくてもね、あいしてることにはかわりないの。だからいいのよ。だれがとうやにそんなこといったのかしら。

 ━━クラスのゆうたくん。

 ━━そう……。ゆうたくんはいいこじゃないのかもしれないわね。おかあさんはとうやがだいすきだけど、とうやがいいこになればもっともーっとすきになるわ。……ね? とうやはいいこよね?

 ━━うん。いいこだよ。

 ━━そう。あいしてるわ、とうや。……だいすきよ。





 兄の声が聞こえる。

「タカトー。今日バイト無いならうちで食ってけばー?」

 ━━堂本孝人を気軽な友人のように扱う、兄の声が。

「や、今日はバイトあるんでいいッス。食いっぱぐれたらよろしくお願いします」
「おー、いつでも寄れ寄れ。あと一万五千円分は食わせっからな。あ、でもうちのトーヤはよいこの時間には寝ちゃうからその前にな」
「その時は叩き起こすんで。霧島を」
「━━兄さん。堂本くん。朝から疲れる会話しないでくれる?」

 昨日“も”泊まった堂本を含めた朝食の席にて、遠矢はうんざりと呟いた。
 ベロッと遠矢へこれ見よがしに舌を出しつつ、堂本が食卓へと箸を並べる。慣れた手つきだ。兄、恭介は遠矢がよそう味噌汁と白米を盆に乗せ運んでいた。━━すっかり見慣れた光景だった。

 遠矢が倒れた一件以来、堂本孝人は頻繁に霧島家食卓へと呼ばれている。というのも、堂本はあの日の“気持ち”を遠矢へと返していた。「泣かせたから。て言っといて」なんて言葉も添えて。遠矢からすれば、まったくもって訳がわからなかっただろう。だから、馬鹿正直に預かった茶封筒と一言を恭介へと渡してしまった。
 “気持ち”を突き返された恭介と馨は強行手段へ出た。━━ならば、残った分毎日のように我が家で食わせてくれる。と。
 結果、遠矢よりも保護者二人と近くなった堂本が霧島家に当然のように迎えられる現状へと繋がるのだ。

「あ、今日馨来るから。やっぱお前寄れ、タカト。四人で食おーぜ」
「また無理言って……兄さんは。堂本くん、何食べたい?」
「お前も普通に肯定前提で話すところ、兄弟だよな」
「「?」」

 一ヶ月程前ならば想像もできなかった和やかな会話だ。遠矢と堂本が奇妙な接点を持つようになってから、一月以上が過ぎていた。
 互いに心の距離が縮まっただとか、相手を知るうちに仲良くなっただとか、そんな道徳的な進歩はない。互いに互いを嫌い合い、嫌がらせを繰り返している事に変わりはない。それこそ、家主である恭介が誘っている為とはいえ、霧島宅へ頻繁に泊まるこの行為も、家へ他人を上がらせることを嫌う遠矢への嫌がらせの一貫だ。
 けれども。嫌悪し続けるというのも、案外疲れるものなのだ。堂本自身の思惑は現在も理解の範疇に無いままだが、彼の言動に逐一振り回されることは少なくなっていた。
 そんな二人を眺めて恭介は思う。━━うん、いい友達できたな。
 二人は、二人以外の目から見れば迷うことなく『友人』だった。かつて馨に見抜かれたよそよそしさはすっかりなくなっていた。━━本人等はそれを決して認めはしないけれど。

「あ、俺先に行くね。今日早めに集まりがあるんだ。ご馳走様でした」
「なーんだ。タカト置いてかれちゃうのか。いっつも一緒に出てんのに寂しいなー? 兄ちゃんと遅刻ギリギリまで遊ぶか」
「社会人が率先と学生を遅刻させようとするのやめてね、兄さん」

 これ幸いと堂本へ絡み倒す兄に、遠矢がすかさず釘を刺す。愉快な霧島兄弟の息の合った掛け合いに、堂本のカラカラとした笑いが響く。━━気味が悪い程、平穏な日常だった。
 実際のところ、共に家を出ても通学まで共にしているとは限らないのだが。

「兄さんと堂本くんのお弁当は台所にあるから。堂本くん、遅刻しちゃダメだよ。それじゃ、いってきます」
「おー。今日も励めよ青少年ー。いってらっしゃい」
「……いってらっしゃい」

 兄はともかく、堂本からの挨拶に遠矢は苦笑してしまう。兄の無遠慮な躾の結果だ。上下関係は存外しっかりしている堂本は、基本的に年長者の兄には逆らわないのだ。

「━━うん。いってきます」

 朝陽が遠矢の目を焼く。ローファーの爪先を地面で叩いて。肩の鞄を持ち直して。━━さあ、『霧島遠矢』の時間だ。





 ちょっと残ってくれないか。
 その言葉に遠矢は振り返った。
 早朝から集められた学級長会の中で、ぼんやりと座っていた男だ。確か……三年一組の委員長だったか。のっぺりとした黒髪と実用性重視の黒縁眼鏡。真面目を絵にしたような男だ。

「はい。なんですか、先輩」

 副委員長へ先に教室へと向かってもらい、陽気に声を掛けてくる友人らを躱して教室へと残る。二人きりだ。何処と無く緊張した赴きの彼に、遠矢自身、緊張していた。わざわざ人払いをした状態で話す内容なんて━━碌な事じゃない。

「その……君、彼女はいるの?」

 嗚呼。嫌な予感が的中した。
 そんな素振りなんてなかった筈だ。彼はおとなしい人で、見られる傾向としても“想い人”を目で追うのが精一杯。それがここまで“育って”しまっていただなんて━━失敗だ。気が緩んでいた。
 遠矢は舌打ちしたい気持ちでいっぱいだった。

「いえ。恋人を作る余裕がなくて。ほら、先輩方が今受験に励まれているように、次は俺らが追われる番ですから。今から準備しておかないと、ね。ははっ、恥ずかしいですよね。彼女を作っても勉強勉強で大事にできる自信がないんですよ」
「そ、そんなことない……! 霧島くん、なら、絶対……恋人とか、大切にできる。き、きっと、霧島くんの恋人になれる人は……それだけで、幸せだ」
「そう言ってもらえるとコーエイです。じゃあ、もし誰か好きな人ができたら相談させてくださいね。宮木先輩」
「あ、う、うん……」

 そうじゃない。物足りなさそうな顔に書いた宮木に遠矢は素知らぬ振りをして、じゃあ俺行きますね。なんて背を向けてしまう。気弱な宮木に、それを止められる筈もなかった。
 遠矢としても、気分は最悪だった。━━『告白』を阻止することはできた。方法は最低だけども━━あの目で見られ続けることに比べたら、……胸なんて、痛まない。

 きもちわるい。

 遠矢には嫌悪症があった。性嫌悪だ。性的に━━否、一定以上の好意を持って見られるのがつらい。恋愛を含んだ感情をぶつけられることが、堪らなく恐ろしかった。
 だから、コントロールして。誰かの一番じゃなくて、二番目。真っ先に名の挙がる友達がいて、その次くらいに呼ばれるような。例えば遊びに足りない人数があったとして、穴埋めには即座に挙げられるけれども一対一で遊ぼうとは思わない━━そんな位置を保持し続けていた。
 まさしく、『皆の友達』
 それなのに、時折、ラインをうっかり越えてしまう者たちが現れる。遠矢を“本気の目”で見て期待する。━━ああ、きもちわるい。

「少し、距離を見直さなきゃな」

 どこか暗い瞳で遠矢は呟く。告白するまでに育ってしまったそれを萎えさせるには、徐々に距離を置いて風化させねばならない。━━そうすれば、一時の気の迷いへと変わる。
 恋愛感情なんてそんなものだ。どれだけ持続でき、どれだけ再燃させられるかで『恋』の長さが決まる精神疾患。何度もガソリンを注げば永遠に相手に燃えていられるのだろうし、途中で熱が切れれば平素に戻り精神の乱れは治まる。
 ならば、最初から発火させなければいい。それだけのこと。

 登校の早い生徒等で若干賑わう教室を前にほっとする。
 大丈夫。朝から気分が塞がる事ばかりだったけれど、まだ修正は利く。ここから、切り替えれば良い。

「━━━━」

 扉に手を掛け小さく深呼吸。

「━━おはよー!」

『霧島遠矢』に命が吹き込まれていく。





 案の定遅刻してきた堂本を前に、遠矢はプリントをヒラヒラと振って笑っていた。背後に暗雲が立ち込めた笑顔だ。

「堂本くん、一時間目は数学だったんだけど━━これ、なんだ」

 突き付けたプリント用紙には問題文と解答欄、そして配点の有無についての文字が印字されていた。

「小テスト━━あるって昨日俺、夜に言ったよな」

 夜……。堂本は無表情の下、記憶を掘り返してみる。ああ、そういえば霧島の部屋に布団を敷いた時に何か言っていたかもしれない。

「だから遅刻するなって言ったのに。……兄さんがごめん」

 打って変わって小声で謝罪した遠矢は、形の良い眉をしょんぼりと下げた。
 遠矢は不可抗力とはいえ長く堂本と過ごすことで彼が存外真面目なのだと知っている。━━否、真面目というより、ルールは最低限守る、といったところか。
 だから、今回の遅刻の原因は間違いなく気分屋の兄だろうと察している。ある意味、遠矢と堂本は霧島恭介に振り回される気苦労仲間だった。

「放課後、俺監視の元でこれ解かせるから。逃げるなよ。それまで俺が預かってます」
「マジか」
「マジだ」

 用件はそれだけだとばかりに自席へ戻る遠矢を眺めて、堂本は前席の河北の背をつついた。

「……どんな内容だった」
「霧島いいんちょーさまに根回しされてるのでノーコメント」
「チッ……準備だけはいいな」

 使えない友人に理不尽に吐き捨てたところで━━ふと、鈴の声が「霧島くん」と囁くのが聞こえて堂本は耳を澄ませた。

「そろそろ告っときなよ。今日とか金曜日だしさ、駄目でも土日挟んだら落ち着くって。上手く行けば明日デートできんじゃん?」
「で、でも……霧島くん忙しいし……」
「さすがに女子からの告白すっぽかしはしないでしょ。あの霧島だし。今いかないとすぐ夏休みきちゃうよ。絶対他の女に取られるって! 今は彼女いないにしても」
「でも……私じゃ……」
「可能性はゼロじゃないよ! かなこ、このあいだ調理実習で班一緒だった時、けっこういい感じに話してたじゃん」
「そう……かなあ。霧島くん、誰にでも優しいから」
「弱気にならない! 放課後呼び出せ、な?」

 ……へえ。

 何食わぬ顔をして聞き耳を立てていた堂本は、頬杖を着いて笑う。
 放課後、霧島は告られんのか。……俺とのテストはどうするんだかな。

「でも、でもね、最近、全然霧島くんと話せてなくて。避けられてるとかじゃないんだけど、タイミングが合わなくて……なんか、もう、いいかなって」
「もーっ、だからかなこはダメなんだよ! ネガティブなんだから! 偶々だって、偶々」 

 ━━いや。
 堂本は遠矢の背を眺め、声無き声で吐き捨てる。━━それ、避けられてんぞ。
 一連の出来事から遠矢が堂本を無意識に意識するよう変わったのと同時に、堂本もまた、遠矢を以前にも増して観察していた。だからわかる。
 それは、霧島遠矢から避けられているのだと。
 遠矢の中に明確に示された“ライン”。それを越えた瞬間━━霧島遠矢は当事者にも感付かれない見事な手腕を持って透明の壁を作る。相手にそれを思わせないよう絶妙なタイミングで引き、あくまでも自然な疎遠を演出する。そうして、ラインを越えていた者はいつの間にか“それ”を諦めて有象無象の一人になる。それこそ━━『特別』は、形の無い牽制がまるで効かない堂本くらいのものだった。

 あの女、駄目だろうな。
 他人事に思って、堂本は欠伸をした。

 気付かれた時点で終わりなのだ。
 ━━霧島遠矢と親しくしていたければ、彼を“好き”になってはいけない。

 遠矢は何よりも━━愛されることを恐れるのだから。

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