僕の恋人は僕が嫌い

椎名


 目を覚まして最初の光景がたった一人の家族のマジギレ顔というのは、実に心臓に悪い。兄、恭介の据わった瞳を真っ直ぐに見つめて━━否、逸らせずにいる遠矢は現実逃避に思った。

「おはよう、遠矢」
「おはよう、兄さん」

 爽やかとはとても言い難い挨拶を交わして、寝坊しちゃったのか……なんて夢うつつな心地で起き上がろうとする遠矢を、恭介が制した。ぽすりと背中がベッドへ沈む。頭がやけに揺れる。背中が湿っぽい気がする。━━熱い。

「これ、なんだ」

 恭介が白い何かを取り出して、ぼんやりとする遠矢の目前へ突き付ける。デジタルな数字が三と九と七を表示していた。ああ……思った以上に高い。

「お前が倒れたと学校から連絡があって、兄さんは非常に心配しました。俺、言ったよな。やりたい事はいくらでもやればいいけど、限界はちゃんと見極めろって。連日居残ってテニスしてたんだって? それで夜中まで勉強して? 家事もして? 結果、これだな。……何か言うことは」
「……ごめんなさい」
「どういう意味のごめんなさいだ」
「…………」

 遠矢は答えられない。恭介が求める言葉を、遠矢は察している。ここでの模範解答は『心配をかけてごめんなさい』だ。もしくは、『頼らなくてごめんなさい』
 けれども、遠矢のごめんなさいには『迷惑をかけて』のニュアンスが隠されていた。それを理解しているから、恭介も険しい表情を緩めない。
 やがて、はあ……とため息でどうにもならない拮抗を崩した恭介は立ち上がった。

「……玉子粥、作ってあるから食えよ。熱冷ましと水はここ。これ以上熱が上がるようならすぐ電話してくること。そんな余裕すらないなら迷わず救急車呼びなさい。……他に、兄さんにしてほしいこと、あるか?」
「ううん。十分。ありがと。……もう時間でしょ、いってらっしゃい」
「……いってきます」

 皆の『霧島遠矢』を脱いで、精一杯の甘えを見せる遠矢へ、恭介は子供にするように胸を叩いてから部屋を出た。
 恭介はもどかしかった。背広を羽織りつつ思う。自分は━━弟からなんと言われたかったのだろう。例えば、寂しいだとか、側にいてほしいだとか、そんな言葉を期待したのだろうか。十分に子供だった頃から器用で不器用なあの子が、本人基準での『迷惑』を周囲に乞える筈がないのに。

「……迷惑なんかじゃ、ねえっての」

 身内贔屓を差し引いても美人な弟が覇気無く瞳を伏せるのを見るのは忍びない。後ろ髪を引かれる思いで会社へ向かう恭介は細やかに決意した。今日は早く帰ろう。それが無理なら━━━━





 懐かしい感覚だった。誰かが額に触れている。冷却材はすっかりぬるくなっていて、自分は昼食と薬を飲んでから泥のように眠っていたのだと悟る。
 熱がまだ下がりきっていないのだろう。触れる指先が冷たい。誰だろうか。兄か。それとも。

「ふーん、霧島って意外と童顔だったんだ」

 遠矢は瞬時に瞳を開いた。微睡みなんてものを放り捨てて、大きな目を目一杯に開いてその人を凝視する。
 聞き間違いでも幻聴でもなかった。━━遠矢のベッドに、堂本孝人が座っていた。

「コンビニでうどん買ってきたんだけど食う? 後ゼリー」
「ど……もとくん……なんで」

 堂本は私服姿だった。シンプルな装いで、彼自身がはっきりした顔立ちなのでバランス良くマッチしている。━━ああ、いや、そんなことはどうでもよくて。

「頼まれた」
「誰に?」
「お前の兄貴」

 身を起こした遠矢は惚けるしかなかった。兄が堂本に? 何故? ━━よりにもよって、何故堂本孝人なのか。

「なんか仕事でトラブったんだってよ。で、帰れなくなったから代わりにお前の面倒見ろ、て。こういうのよくあんの?」
「う、ん。兄さんが会社に泊まる事はよくあるけど……そんな、わざわざ」

 遠矢は混乱していた。なにも、遠矢が体調を崩す事は初めてではない。二人暮らしを始めた直後など、しょっちゅう寝込んでいた。遠矢の元々の身体の出来は丈夫とは程遠いのだ。
 けれども。━━兄の代わりに付く誰かなんて、疑似家族の馨くらいだった。

「唯一、お前繋がりだからじゃねぇの」

 動揺と朦朧とする頭から普段の顔を繕えないでいる遠矢に、堂本は無機質な目でベッドの彼を眺めた。
 現在の遠矢は無防備だ。触れてみた額や首は熱く、白い肌は熱の赤に犯されている。前髪を分けた際に触れた生え際は湿っていて、現れた涙黒子と浮かぶ汗にドキリとしなかったかと問われれば答えは否だ。
 何より、子供のようにどうしてどうしてと瞳で問う遠矢は幼げで━━学校で見る『霧島遠矢』よりも余程好感が持てた。うっかり可愛いとすら、堂本は無表情の下に思ってしまった。同年代の男を、だ。

「ご、めんね。兄が無理言っちゃって。ははっ、いつの間にそんなに仲良くなったんだよ。連絡先交換したなんて知らなかった」
「してねぇよ」
「え、じゃあ……」
「━━馨さん」

 ふっと、遠矢は底の見えない目で堂本を見つめた。

「馨さんが、俺の部屋に来た。んで、お前の兄貴の伝言を伝えた。それだけ」
「馨さんが……」

 どこかぼんやりと呟いた遠矢は、そしてゆるゆると笑った。

「……そっか。気、遣わせちゃったなあ。今度お礼しないと」

 嬉しいと、照れ臭いと、申し訳ないと。複雑な心情で笑う遠矢に堂本の静かな視線が刺さる。

「堂本くんも、ごめんね。もう大丈夫だから。ただの疲れだとは思うけど、もし風邪だといけないから……」

 言外に帰れと促す遠矢へ、堂本は沈黙と共に身を寄せた。

「ど、堂本くん……?」

「━━馨さん、嫌いなのか」

「━━━━」

 壁へと追い詰められた遠矢は、影になるその人に微かに震えた。

「ははっ……なんだよ急に。嫌いな訳ないだろ。あんな良い人」
「じゃあ、苦手か」
「━━っ、さっきからなんなんだよ! 俺をどうこう言うのは勝手だけどな、馨さんを持ち出しての嫌がらせは止めろ。そのくらいの分別はつくだろ? この間だって……っ」 

 押し黙る遠矢に、堂本は頭の左右へ手を着いて遠矢を閉じ込める。

「……この間が、なに?」
「……っいい加減にしてくれ、こっちは気分だってめちゃくちゃなんだよ! 頭痛いし、ほんと疲れてて……っ」

 力をなくした遠矢が、壁を伝ってベッドへ沈む。

「もう……やだ」

 それは荒い息の中に落ちた僅かな本音だった。ほろほろと視界が崩れていく。

「……弱ってんな」

 堂本の抑揚の無い声が癪に障る。自分ばかり、振り回される。なんて嫌な奴なんだ。

「俺のこと、嫌いか?」
「嫌いだよ」
「なら、いいんじゃねぇの」
「……?」

 そろりと遠矢の睫毛が起き上がった。

「嫌いな奴の前でまで、“良い人”する必要ねぇじゃん」

 覆い被さる形で遠矢を見下ろしていた堂本は、そして慰めるように遠矢の眦を撫でた。

「……なんだよ、それ」
「嫌いな人間にはそれ相応の態度を取ればいい。怒鳴ればいいし、殴ってもいい。まぁ殴り返すけどな」

 眦を擽った指が涙を掬ってこめかみへと流れる。ゾッとする程優しい手つき。言葉と態度がまるで噛み合っていない。
 これではまるで。まるで━━

「……やめろって」
「そんで八つ当たりとかもしてみろよ。嫌いな相手なんだから相手から嫌われるリスクとか考える必要もないだろ」
「やめろってば」
「幸いお前の嫌いな『堂本くん』もお前が嫌いだし? 両思いじゃねぇか。遠慮なんて一切いらない関係だな」
「やめろ」
「お前だって人間なんだから好悪くらい持つだろ。それとも━━『霧島遠矢』は理不尽に人を嫌ったりしないって?」

「━━俺は、“いいひと”でいたいんだよッ!!」

 とうとう、遠矢は声を張り上げた。馬鹿みたいに優しく頭を撫でて、仕方のない子供を見るみたいな目をする酷い男の腕を払う。どこまでも惨めに追い掛ける声に耳を塞ぐ。

「理想の自分を演じるのはそんなにおかしいことか!? 善人でいようと思うのは悪か!? 俺は俺に満足してるんだよ! 今さら引っ掻き回すな!!」

 シン━━と。双方の間に沈黙と荒々しい息遣いだけが残された。
 遠矢は鈍痛を訴える頭で後悔していた。何を言っているのだろう、自分は。まさしく八つ当たりじゃないか。こんな挑発に乗せられるなんて。らしくない。普段ならこの程度、受け流してしまえるのに。

「ちゃんと言えんじゃん」

 心做しか楽しそうな堂本の声に、彼を見ることなく呟く。

「……これも嫌がらせか」
「ああ。良い人でいたいトーヤくんを嫌な奴にする為の嫌がらせ」

 肯定した堂本は、俯く遠矢の前髪を掻き上げて額を覆った。最早遠矢には振り払う気力すらなかった。

「熱、上がったな」
「……誰の所為だよ」
「俺の所為だな」

 クツクツと笑う堂本は、そして囁く。

「霧島遠矢は疲れてる。高熱を出して寝込んでる。弱って、まともな判断ができる状態じゃない」
「…………」

 事実だ。しかし、だから何だというのか。
 目覚めて彼を視界に入れた瞬間から、堂本の意図がまるで読めない遠矢は戸惑うしかない。

「なら、何口走ったっておかしくねーだろ。それは熱の所為で、疲れの所為で、霧島遠矢の本意じゃなかった」
「━━━━」

 夢から覚めた子供のように、あどけなく遠矢は堂本を見上げた。
 だから。だから、今なら。
 霧島遠矢は不調で、目の前には嫌がらせをする天敵しかいなくて。遠矢の味方はいなくて。だから。━━吐き出してしまえ。

「……馨さんが、嫌いとか、ない」

 相槌すらない空間に、遠矢の声は届く。

「本当なんだ。馨さんは良い人で、綺麗な人で、優しい人で、邪魔者の俺にも優しくしてくれる。大好きだ。本当に、好きなんだ。嘘じゃない」

 彼は反応しない。まるで独りぼっちのようだ。部屋に一人きり。━━だから、こぼれてしまう。

「でも、無性に嫌になる」
「時々、どうしようもなく消えたくなる。ちがう。消してしまいたくなる。あの人を。近付かないでほしいと思ってしまう。あんなに良い人なのに。馨さんには、一切の非はないのに」

 くしゃりと、髪を掻き毟る。

「俺、いやだ」

 瞑っていた瞼の向こうで、ギシリとベッドが鳴いた。

「こんなの、嫌だ。嫌な奴になりたくない。嫌だと思いたくない。俺、性格良くなんてないよ。だからいいひとでいたいのに。わかってるから、こんなにがんばってるのに。━━ぜんぶ、堂本くんのせいだ」

 ふ、と。空気が笑った気がした。影が動いて、髪を掴む自身の手に温度が絡む。

「バカ。堂本くんのばか。堂本くんのせいだ。どうもとくんが、」

 そして遠矢は。

「━━どうもとくんなんか、きらいだ」

 こめかみへと涙を伝わせて、天井の光を遮るその人にぐちゃぐちゃの顔で笑った。

「……ああ。俺も嫌いだ」

 影が屈んで、唇との距離を奪う。

「だから、これも嫌がらせ」
「……ふ、は。ほんと、君って最悪だ」

 最低の関係を築く二人は、そうして、恋人のような距離で、恋人の真似事をして、眠りに就くまで笑っていた。

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