僕の恋人は僕が嫌い

椎名


 嗚呼。茜色の教室にただ一人、席に着くその人を見て思う。
 きっと彼は、誰ともいない時が一番きれいなのだ。

「霧島」

 赤い髪の間から輪郭が浮かんで、それを溶かすような赤がゆらゆらと彼を教室の模様の一つに作り上げている。深みを増していく影は彼の目鼻立ちを濃くさせて、印象の一変に一役買っている。
 堂本くん。薄い唇が動いて、最後には笑みを作る。━━気味が悪いくらいに美しい光景だった。

「前にも、こんなことあったね」

 部誌らしきノートを閉じて、霧島は笑みを深ませる。『その日』を狂いなく再生したような笑顔だった。

「堂本くん」

 霧島は声まで綺麗だ。霧島を見つめている自分と、剥離するように違うところから彼を見る自分を感じながら━━堂本孝人は赤い教室へと入った。

「また居残り?」
「みたいなもの。最近部活サボりすぎちゃっててねー、さすがに日誌くらいはチェックしとこうかなーって。というかマネージャーに読んどけ、て顔面にぶつけられたんだけど。いやー、愛が痛いね!」
「生徒会が忙しかったからだろ」
「んんー、まあ、それもなくはないんだけど、調整できなかった俺が悪いのは間違いないからね。ワタクシの不徳の致すところです」
「でも、読むくらいでこんなに時間は取らないだろ」

 距離は通路の一つも開かないくらいにまで縮んでいた。椅子に座したままの彼を孝人は長身から見下ろす。立って並ぶ孝人と霧島の身長差は十も無いが、今その差は顕著であった。
 霧島は立ち塞がる影を見上げてゆるりと笑っていた。

「家に帰りたくないのか」
「それに返答したところで、君に関係あるかな」

 声も、口調も、どこまでも柔らかかった。
 幼児に与えられる人形と喋っているみたいだ。そう、孝人は漠然と思った。
 ━━決して人に不快を与えないように作られた、機械。

「それとも、こういう干渉も嫌がらせの一つかな」

 にっこりと歯を見せた霧島は、なーんて。と続ける。

「この言い方はちょっと被害妄想が過ぎるよな。大丈夫大丈夫、もう帰るから。あ、そーだ。うちの兄が堂本くんに会いたい……ていうかお詫びしたいって言ってたから部屋番号教えちゃったんだけど良か━━」

 霧島の剽軽な一人語りが止まる。孝人が日誌を持って立つ霧島の腕を取ったからだ。

「……あのさ、俺、これ部室に置いてこなきゃなんだよね。……放してくれる?」

 霧島は振り返ることなく柔らかに突き放した。孝人は答えない。孝人自身、どうして身が動いたのか、理解できていなかった。

「堂本くん」

 焦れた霧島が振り返る。

 ━━あ。右の目の下に涙黒子。
 剥離した孝人が呟いていた。

「━━━━」

 時間が停まってしまったような感覚だった。赤の世界に二人は閉じ込められてしまう。

「い、ま……」

 霧島の腕がだらりと下がる。反動のように、日誌を持つ手には血管が浮いていた。

「━━目」
「え?」
「右目、黒子あんだ」

 ただでさえはっきりとした目を大きく開いて、あ、ああ……と霧島は頷く。

「右目、つか左目な。そっちからは右だろうけど」
「あ、そっか」

 ぱちりぱちりと二度瞬いて、揺れて下がる目線と眼球を前髪が追い掛ける。黒子が頬の髪に隠されてしまう。

「あ、のさ……今……」

 言い淀む霧島に、孝人は再び身を屈めていた。
 ━━もう一度、確かめたい。

「キ、ん……!? どっ、うむ、ぅ……っ」

 目をしっかと開いて。霧島の顔も反応も睫毛の一本すら逃さぬよう孝人は見つめる。━━唇を触れ合わせながら。
 否、触れ合わせるなんて可愛らしいものではない。動揺に緩んでいた霧島の歯の合わせを舌で抉じ開け巧みに侵入していく。
 一度目は瞳の引力に吸われた。ならば二度目は。

「んっ……む、ふ、ぅ、んんぅん、ッ」

 まるきり慣れていないらしい霧島に、向かいの机へと手を着いて彼の腰を乗り上げさせる。
 孝人は高揚していた。それなりに経験を積んできた孝人に、霧島はまるで歯が立たない。抵抗のつもりの舌の跳ね返しが、懸命に孝人の舌とを絡ませようとしている風にも取れていじらしいくらいだ。
 下品で粘着質な水音を立てる口元と、互いの口端、顎を汚す唾液の摩擦。ふるふると震える睫毛に、眦に浮かんだ涙を眺めて夢中で彼を貪る。
 やがてほんの少しの解放を許された霧島は、軽い酸欠状態に陥りながら孝人へと縋った。そして。

「━━ッふざっけんな!!」

 強烈な蹴りが孝人の腹へとお見舞いされた。どれだけ優男然としていても、やはり運動をする人間の脚だ。健康的にしなったそれは孝人へと想像以上のダメージを与えた。

「……っこ、れは……はあ、は……いくらなんでも、度が過ぎるよ」

 声も無く上半身を崩した孝人に、霧島は静かな怒りを滲ませて吐き捨てた。
 孝人は見上げる。霧島の目尻は紅でも差したように赤まり、瞳は涙の膜からきらきらと光を取り込んでいた。唇は雑に拭われたのだろう、残る唾液が艶っぽく筋を作り、そこに荒々しい吐息を重ねていた。事後の表情だけだというのに、なんとも扇情的な姿だ。
 なにより━━怒りを秘めらせたその瞳は、一等美しかった。生きた輝きだ。

「きり、し、」
「━━それじゃあ、さようなら」

 スクールバックと床へ落とされていたノートを拾って、霧島は四角く切り取られた世界から飛び出していった。彼を彩っていた茜色は余韻も残さず消え、辺りは闇を待たんばかりの灰藍に支配された。

「……はは」

 孝人は笑う。どこか呆然とした声だった。
 己の唇に触れてみる。若干乾き切っていない湿っぽさを感じて、ゆるゆるとそれが弧を作る。

「━━できるな、キス」

 怒りを晒け出した美しい模範人形に、孝人は初めて屈託のない笑みを浮かべたのだ。





 ぼろぼろぼろ。朝飯と称してメロンパンを堪能していた友人から、肝心のメロンを模した皮部分がこぼれ落ちていった。孝人の唯一といっても過言ではない自称友人、河北だ。
 河北はゲームのし過ぎから万年寝不足な瞳を限界まで開いて孝人を凝視した。

「え、ま、まじで……?」
「マジで」

 何食わぬ顔をして孝人は頷く。河北は今しがた聞かされた信じられない報告に一呼吸置いてから、再度確認した。

「ほ、ほんとに━━霧島にキス、しちゃったの……?」

 孝人の眉間に細やかなシワが寄せられる。

「お前がやれ、て言ったんだろうが」
「言ってねーよ! 俺は考えろって……ああー!!」

 思わぬすれ違いに漸く気付いた河北は、メロンパンを投げ出して代わりに頭を抱えた。

「ちがっ……俺が言った“考えろ”ってのは頭の中でのことであって、“検討しろ”の方じゃねぇよ! あああ……まじかぁ……霧島ごめん、めちゃくちゃごめぇぇん。当分、霧島の顔見れねえ……」

 パタリと机へ沈んだ河北に、孝人は鬱陶しげにその頭を退けた。後席の孝人へ体ごと向きを変えていた河北だ。当然、河北が撃沈して額を預けた机は孝人の机となる。

「……ちなみに、どうだったんすか」
「なにが」
「気持ち悪かった? 案外いけた?」

 何とも言えない間を置いた孝人は、やがて答えた。

「━━まあ、悪くはなかった」
「わっかんねー!」

 再び河北は頭を抱える。

「普通ならじゃあ好き、てなるとこだけどあの霧島だもんよ。ぶっちゃけ俺も霧島ならいける気がする」
「…………」

 孝人が胡乱に河北を冷視したところでチャイムが鳴った。朝一の授業は化学だ。実験室へ移動せねばならない。

「はぁぁぁ……どっちにしろ霧島に合わせる顔がねえ」

 食べ掛けのメロンパンを袋に詰め込んで、のろのろと二人は動き出す。

 ━━例えばもし、少し未来の河北が少し過去の河北へと一言送れたとするならば、間違いなく彼はこの言葉を送っただろう。
「それ、フラグ」━━と。



「…………」
「…………」
「お、よろしくなー! 河北くん、堂本くん」

 男にしては大きくて、けれども目尻は優しく締まり涼しげな瞳を弓形にした美少年が笑う。━━霧島遠矢だ。
 霧島は席に教科書やらファイルやらを置くと、「今日は火使うから気を付けような。えーと……あ、時計皿いるのか。じゃあ俺は先生んとこに材料取りに行くから、河北くんは準備室から時計皿とかピンセット諸々お願い。あー……結構必要な物あるな。一人じゃ大変だろうし堂本くんも一緒に頼んでいい?」とサクサク指示を出して教卓へ向かってしまった。残された二人は、自然と仕切る彼に従って隣室の準備室へと立つ。

 考えてみれば、グループ分けに足りない人数に霧島を寄越される可能性は大いにあった。
 孝人と河北は、同類だからこそつるめど個々としては所謂一匹狼の生徒だ。自然と分かれるクラス内のグループ分けには属さず、結果、実際の班分けを指示された際にあぶれる生徒にある。そのあぶれた生徒を集めた雑多なグループに人数が足りないとなれば、誰とでも馴染める人気生徒を対処策として放り込むのは当然の流れと言えよう。教師の身になれば、霧島の存在はなんとも便利なものなのだ。

 それにしても。
 項垂れつつ試験管とビーカーを手に取った河北は、そして首を傾げた。

「……お前、ほんとに霧島にキスとかしたのか?」

 霧島遠矢の態度は極普通の━━他のクラスメイトに対するものと一切変わりなかった。件の孝人を前にして動揺の一つもなかった。━━嫌がらせをしてくるような男に性的に触れられたのに、だ。他人事である河北の方が余程困惑している。

「ああ。がっつり。舌も入れたし」
「うへぇ……そりゃがっつりだな。舌も入れ……舌も入れたん!?」

 河北の手からぽろりと溢れ落ちたピンセットを孝人が難なくキャッチする。

「おま、それ……それで悪くなかったって……いや、それさあ……」
「おーい、大丈夫かー?」

 周囲の班が準備を終え着席する中、中々戻ってこない二人に霧島が顔を覗かせる。慌てて返事をした河北と、仏頂面で霧島の立つ扉へと向かう孝人に、河北は誰にも拾われない声で呟いた。

「━━それ、絶対好きじゃん」

「河北くん?」
「あ、今行く!」

 漸く三人揃って実験が始まる。水の張られたビーカーへと入れるリチウムをピンセットで摘まんだ霧島に、ふと机上のそれに気付いた孝人は何気なく彼の左腕を引いた。

「っど……もとくん?」
「そこ、当たる」

 霧島の右肘近くには予備の時計皿があった。当たれば間違いなく机から落ちていただろう。

「あ、ほんとだ。ありがと」

 然り気無く孝人の腕を払って、霧島は実験を続ける。河北はビーカー内の様子をメモしていて━━━━だから、“彼”の様子を見ていたのは孝人だけだった。

 頬を隠す横髪。腕を振った一瞬、露になった涙黒子と━━赤い耳。堪えるように噛み締められた唇。少しだけ震えた指先。

 嗚呼。孝人は小さく笑う。


 ━━━━悪くない。

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