ダークフォビア  ~世界終焉奇譚

氷雨ユータ

泡沫は消え去らぬ

「おーい」

 声が空しく響く。返されるべき返事も存在しない。

「おーい、ギリー?」

「………………………………え?」

 夢の中から響いた声ではない事を確信し、ギリークは反射的に立ち上がった。周囲を見渡そうとも光が存在しないせいで無意味だと思ったが、奥の方でぼんやりと光るそれは、まさしく光源としては十分すぎるランタンであった。それは徐々に近づいてくると、鉄格子を掴んで待機していたギリークの顔を薄暗く照らしあげる。それは同時に、ランタンの所有者の顔も照らしあげた。その漆黒色の髪は多少の光も物ともせずに溶け込んでいるが、その美しい髪色といい、こちらを見据える虚ろな瞳といい、自分が間違う筈がなかった。

「り、リア…………」

 χクラスのクラスメイト、リア。自分の好きな人間でもあり、何より自分が最後に会いたかった人物である。その彼女が、今、ランタンを片手に怪訝そうに自分を見つめている。分かっていないのだ。自分がどうして涙を流しているかという事を。

「ど、どうしたの? 拷問でもされた? でも傷痕が見えないけど」

「ち、違う。俺はお前に会えて…………お前と会えて。嬉しいだけだよ…………!」

 極限の孤独から解放された時、心を狂気に支配されていなければ、人は人の温かみを再確認し、目の前の人間の大切さを思い知る。それがかつて恋した少女であれば猶更だ。この心に秘められた恋心は熱く燃え滾り、再び少女の体温を感じられる事に歓喜した。格子越しに彼女の手を握る。まるでだだっ広い砂漠の中に咲く白百合の花を掴むかの如く、優しく。リアはこちらの掴み方に少々違和感を覚えた様で、そのつもりはなかったのに、しっかりと握りしめた。驚いて手を引っ込めようとしたが、少女であるにも拘らず、彼女の握力は同年代とは思えない位に強かった。骨が悲鳴を上げるくらいには締め上げられている。

 けれど愛おしかった。この感触が、体温が、何よりも感じたいと願ったものだった。彼女にならば背骨をへし折られても構わない。たった今そう思うくらいに彼女の事を愛していた。こんな事を言ってしまうと気持ち悪がられるかもしれないが、彼女の事を誰よりも愛しているのはきっと自分である。

 何も知らない癖によくもそんな事が言えるな、と自分でも思っている。けど、考えた。彼女の事はこれから知っていけばいいのだ。まさかここに彼女が来てくれるとは思わなかったが、来てくれたのならば彼女の隣に居れば良い。ずっと、彼女の隣で彼女の事を知っていけばいい。今の所、彼女は自分の事など只の友人としか思っていない様だが、いずれは彼女を振り向かせて見せる。自分こそが彼女を一番理解出来る人間なのだと気付かせてみせる。

「そ、そう? まあいいわ。鍵は持ってる?」

「俺が持ってたらとっくに脱出してる訳だが」

「それもそっか。じゃあちょっと待ってて。鍵開けるから」

「え?」

 リアはランタンを移動させて、牢屋を牢屋たらしめる扉の前へ。扉に掛けられた閂の半ばには分厚い錠前が掛けられており、幾ら彼女の膂力が強いと言っても強引に壊す事は出来なさそうだ。しかし手を握った事からも分かる通り、彼女が鍵を持っている様子はない。何事か眺めていると、リアは懐から金属の棒の様な物を取り出し、徐に差し込んだ。

 鍵というものは差し込めば開くものではなく、内部にもう少し複雑な構造が作られている。適当に差し込んだだけでは鍵が開く筈もない。

「あ、開いた! ほら、さっさと出てきて」

「え、開いたの?」

 そんな馬鹿な。ランタンから少し離れて見えにくかったが、かなり適当に差し込んだように見えた。あれで開いたというのなら、そもそも錠前など掛かっていなかった事になる。そして錠前が掛かっていなかったという事は、密室ですら無かった只の個室で自分は思考を放棄して、生存を諦めていた事になる。そう考えたら、物凄く恥ずかしかった。リアに迷惑をかける訳にもいかないので、閂が抜かれると早々に部屋を出たが、穴があったら入りたい。暗室があったら籠もりたい気分だった。

 ギリークは錠前を持ち上げて、全体を触ってみる。開いていなかったとは考えにくいのだが……そうなると、牢屋に入った直後に聞いた錠前のかかる音に説明がつかない。閂は何かの武器になりそうだったので、せっかくだから持っていく。

「お前は一人で助けに来たのか?」

「そんな訳ないでしょ。ここ警備も厚かったし。イジナが囮になってくれてるから、その隙にギリーを助けようって作戦なの。貧民街で集合する事になってるから、さっさと行きましょ?」

「イジナを助けなくて良いのか? もしもアイツが捕まったら…………」

 歩き出したリアは、一切の歩みを止めず階段に足をかけた。

「……捕まるなんてあり得ないわよ。信じるとか信じない以前に、それに足る証拠があるの。イジナは絶対捕まらない。それは私が保証する。むしろ気にするべきは私達の方かもしれないしね。何にしても人の心配をしている場合じゃないと思うわよ」

「どういう事だ?」

 彼女から離れたくなくて、急いで彼女の後を追う。肩を掴むと、リアは一瞬妙な感情をこちらに向き出したが、直ぐに影を潜めた。こちらの理解が及ぶよりも早く消えたので、その感情が何なのかすらこちらには全く掴めていない。

「いい? 年端も行かない少女が暴れてたら、まずは目的を考えるでしょ? すると誰かしらはイジナの年齢からギリーを取り戻しに来たんだと思うから、様子を見に来る。これが当たっていようが外れていようが、地下一階を出入りする手段はこの階段だけだから、実際に貴方を助けに来た私達はそれとかち合うって話」

 途中でリアが足を止めた。階段はまだまだ続いているが、上の方からは僅かに足音の様な音が聞こえてきて、次第にそれは下に降りる様に近づいてきている。螺旋階段で無ければ視界も通っただろう。歩きづらい構造だとも思ったが、幸運にもその構造に助けられている。

 ギリークは上の方から聞こえる足音に注意を払いつつ、小声でリアに尋ねた。

「どうするんだ?」

「どうもこうも、出入り口が作れたら話は別だけど、だからって破壊したら音で引き寄せる事になるし。行くっきゃないでしょ」

 遭遇する危険を誰よりも危惧していながら、リアの答えは存外にあっさりとしたものだった。それにギリークは拍子抜けすると同時に困惑する。素人でしかない自分達が騎士と戦う事がどれだけ愚かしいか。いや、厳密に素人ではないが、経験の差がある。それも明らかな境界線が。全くの無抵抗とまではいかないまでも、重傷を負わされるのではないだろうか。レスポルカの騎士は優秀である。フィーがそれ以上に化け物染みているので記憶的に影は薄いが、彼等も十分強者の領域に足を踏み入れている。

「い、行くのか? 騎士と戦うのか?」

「勿論」

「勝つ見込みは?」

「来ても三人か四人だし。全く無理って訳じゃないと思う」

 いやいや。無理だ。無理に決まっている。一人ならばどうにかなるかもしれない。二人でも不意さえ突ければどうにかなるかもしれない。しかし三人以上は無理だ。地理的な意味で言っても不可能だ。不意を突けば何人でもなんとかなるかもしれないが、ここで三人以上の騎士をどうやって欺けと。ここは螺旋階段。隠し扉も何もない場所だ。出来る事は上るか下りるかの二択。こんな場所でどのように不意を突けるというのか。

 心中穏やかでないこちらとは対照的に、リアは終始楽観的な態度を貫いていた。何処からその自信が来るのか、全く分からない。奇しくもこれが、一般人と異常者の反応の違いである事をギリークが知るのは、もっとずっと後の事である。

「ギリー。出来ない事はないのよ。私達はχクラスの生徒じゃない」

「それにしても無理があるだろ! だって―――ッ」

 来た。足音が重厚な甲冑の音と共に近づいてくる。もう後五歩、いや三歩近づけばこちらを視認出来るだろう。ここは一旦下りるべきだ。そう判断し階段を音もなく下りようとした瞬間、リアが反対方向へと歩き出した。

 本気でするのか?

 這うような形で接近する。丁度、リアは階段を降りてきた騎士と鉢合わせした所だったが、牢屋の方向から上ってきた少女に騎士は狼狽。急いでランタンを投げ捨て抜刀したが、その瞬間にリアが動いた。彼女は持っていたランタンを騎士の兜に叩き付けて攻撃。よろめいたところを素早く回り込んで背中を一押し。騎士はギリークの横を通り過ぎて転がり落ちて、最下層の方でピタリと音は止まった。

「…………」

 鮮やか過ぎるやり口に言葉が出ない。灯りが無くなってしまったので下手に動けなかったが、いつの間にか自分の所まで正確に戻ってきたリアが、ギリークの片手を握りしめた。

「ほら、行くわよ! 多分死んだ訳じゃないから、早くッ」

「あ、ああ」

 彼女に手を引かれて疾風の如く階段を駆け抜けたギリークは、間もなく久方ぶりの光を全身に受け止める事となった。あまりにも懐かしいその光は、ランタンの光を間近で見た時の様に、自身の視界を真っ白に塗りつぶした。 




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