ダークフォビア  ~世界終焉奇譚

氷雨ユータ

深淵より覗く者

 馬車に揺られる中で何か仕掛けてくるかと思ったが、そんな事は全くなく、馬車は洞窟の目の前で停止した。それを合図に、ボロボロの『闇衲』、そんな彼を忌み嫌うような表情で睨むリア、二人のやり取りに困惑の色を隠せないリリーが下りた。
「俺を突き落とさなくてもいいだろうに」
「せっかく膝枕してあげたのに、パパが吐こうとするからでしょ! 娘を嘔吐口にするなんて頭おかしいんじゃないの?」
「リリーにやる方こそ間違っているだろう。なあリリー」
 誰を嘔吐口にするのも間違っている事に、彼は気付いていないのだろうか。最初は自分の知らない彼の一面を見られて嬉しかったが、ここまでくると少し困惑してしまう。指輪を渡した以上、夫の立場にある彼を知る事は非常に重要な事だが、だからと言って今のこれは……何だ。何と答えれば良いのだ。
「あ、あはは。そうね、そうかもね……うん」
 こんな話に真面目に付き合う方が馬鹿らしいので、苦笑いと共に当たり障りのない返事を返す。普段の『闇衲』ならば咎めてきそうな程にいい加減だが、娘と馬鹿話に興じている彼がそんな野暮な事をする筈もなく、得意げな顔でリアに対抗した。
「なあ見ろ。そもそもな、他人に嘔吐するなんて奴は何処にもいない。あり得ないんだ。分かるか?」
「娘に嘔吐するって奴も居ないわよ!」
 全体的にリアが正論を言っているので、リリーは心の中では彼女の味方だ。彼にしてみればふざけているだけなのだろうが、それにしても間にある話題が吐瀉物とは汚すぎる。
「家族なんだ、普段は見せない様な汚い一面だって見せても良いだろう。家族の前でも肩肘張ってたら何処で休めと言うんだ」
「物理的に汚いのは勘弁してよッ。だから突き落とされるんでしょうがッ」
 彼女は気付いているのだろうか。幾ら本当に体調が悪いと言っても、何でもない少女の両手くらいは『闇衲』も避けられた。それでも彼が突き落とされたのは―――思うに、娘と遊んでいるのではないだろうか。遊び方が歪みきっているが、そう考えれば彼がわざと派手に落ちた様な転がり方をした事も頷ける。この推測を本人にぶつけた所で本人は否定するだろうが、彼もまた、娘と接する事を楽しく思っている。彼もまた、あの少女の事を好ましく思っているに違いない。そうでもなければ、あの冷酷な彼が、ここまで間抜けな姿を晒すなんて思えない。彼の優しさと冷たさに恋をしたリリーだからこそ、そう思えてならない。
「全く! ここまで汚いパパだとは思わなかった。人選ミスしちゃったのかな」
「今からでも契約を切ったって俺は構わないんだが」
「ああ、駄目! 嘘嘘嘘。パパ大好き! でも吐かないでねッ!」
 しかし何なのだろうか、このやり取りは。洞窟を目の前にして武者震いの一つでもすべきところを、何とも和やかというか、気の抜けた雰囲気が漂っている。依頼人である男も、二人のやり取りがいつ終わるのかと、伏し目でじっと見つめていた。やがて声を掛けなければ終わらない事に気付いた依頼人は、少々申し訳なさそうに、会話を断ち切った。
「……そろそろ、いいか。僕はどうしてもこの洞窟を抜けたいんだ。じゃれ合ってくれるのは勝手だけど……ちゃんと仕事はしろよ?」
「分かっているとも。依頼を受けたのは俺達だ。自分で受けた仕事も果たせないんじゃ冒険者失格だからな。という訳で行くぞ、二人共」
「はーい」
「そうね」
 先程までの混沌が嘘のように統率された事に依頼人は驚きを隠せなかった。しかし、その統率力を強さだと感じ取った依頼人は、身を翻して、自信に満ちた足取りで洞窟の中へと足を踏み入れる。三人はそれに続いた。
 洞窟の中は薄暗いとかそういう程度をとうに過ぎており、松明も碌に持ち合わせていない四人には一寸先の視界もまともに機能しない。どうして明かりを全員が全員忘れているのか『闇衲』は問い質したかったが、自分だけは視界に問題は無い―――正確には、見えなくても支障なく移動する方法を知っている―――ので、黙っておく。迷いなく洞窟の奥へと進んでいくと、その進行を妨害するかのようにリアが手を掴んできた。
「一人で行かないでよ。迷ったらどうすんの?」
 その瞳には隠れようともしない不安が見えていたが、『闇衲』は乱暴にその手を振り払い、また歩き出した。迷うも何も、ここは一本道である。少なくとも今まで通ってきた道に分かれ道のようなものは無かった。なので、どんなに視界が利かなくたって、三人が迷う筈はないのである。依頼人の男は経験のお陰かそれを分かっている。彼も視界は利いていないが、リアの様に取り乱さないのはそういう事だ。
「今の所魔物の気配ってのはちっとも感じないが、まだ奥なのか?」
「そうだな。確かもう少し進むと、大きな空洞になっている場所があった筈だから、魔物が居るとしたらそこだと思う」
 自演かどうかはまだ分からないが、どちらにしても事態が進展する為には進まなければならない様だ。依頼主本人からの攻撃も予測してリリーと挟み撃ちにする形で進んでいるが、そのまま何事もなく突き進んで三十分。四人は遂に空洞に飛び出した。視界がまともに機能していないにも拘らずそれが分かったのは、やけに声の反響が大きくなったからだ。
「おい、分かってるだろうな。碌に視界も確保できていないんだ。こんな所で魔物と交戦したらまず俺達に勝ち目はない。下手な事はするなよ」
 例を示すように小声でそう告げると、背後から無声音で頷く声が聞こえた。こういう時のみ素直になってくれるのは嬉しい。流石に危険かどうかくらいを察知する能力は今までの経験で培ってくれたらしい。耳を澄ませて静かに移動するが、魔物の息遣いはおろか、その気配も空洞内からは感じ取れなかった。どういう事だろう。ちゃんと依頼主はついてきているし、リリーやリアが消えた訳でもない。
 考えられる可能性があるとすれば、魔物とやらの存在は架空で……というより、ずっと昔には居たのかもしれない。けれど長い年月の末に、魔物は死んでしまった。しかしそれを知らぬ依頼人、及びその村人は未だ魔物が居るモノと思い込んでいたから、ずっと魔物避けの薬を使っている……くらいか。そうだったのなら一番つまらないが、何事も起きないのは基本的に良い事だ。例外的に自分達が歓迎していないだけで。
 何て不運に見舞われてしまったのか。せっかく何かありそうな依頼を選んだのに、これでは普通に冒険者としての仕事をこなしただけ。一体この依頼の何処に面白さがあるのか。経験がないので仕方ないが、どうやら今回の依頼は外れらしい。
 そんな事を思いながら洞窟を進んでいると、違和感に気が付いた。かなり歩いたと思われるのに出口に辿り着かないのはいい。少なくとも、まだ洞窟がべらぼうに広いという事で説明出来る。『闇衲』の感じた違和感はそれじゃない。もっと身近にありながら、今まで気付けなかった事を恥じるべき違和感なのだ。
「…………依頼人よ。一つ尋ねてもいいか?」
「何だ?」
「魔物避けの薬があった場合、どの辺りから使うんだ?」
「普通に入り口だけど、それがどうかしたの?」
 どうかしたも何も無い。もっと早くその事に気付いておくべきだった。出来れば洞窟に入る前から、その可能性について考慮しておくべきだったのだ。
「……リリー。魔物避けの薬ってのは要するに、魔物に襲われないようにする薬って事だよな」
「え? まあ、そうね。魔物避けって言うくらいなら、そういう事でしょうね」
 空洞には誰も居ない。いつまで経っても洞窟を抜けられない。足元の感触が砂や礫にしては随分と滑らか。これら三つの要素を満たす事実は、一つしかない。『闇衲』が答えを言おうとした直後、代わりに答えを出してくれたのは、本人だった。
「な、何ッ?」
 洞窟が脈動し、蠕動し、胎動する。罅一つ見当たらなかった壁が剥落し、欠落し、その真実を触覚の下に晒す。洞窟の震動によろめいたリアも、ようやくその真実に辿り着いた。自分達の入った洞窟は只の洞窟ではない。既に魔物とは遭遇していたのだ―――そして既に、自分達は魔物の体内に入ってしまっていた。
 直後、安全と思われていた空間の全てが崩壊。視界も碌に機能していない状態ではまともな対処などしようもなく、四人の身体は宙に放り出された。






























 恐らく、最初に目覚めたのはリアだった。灯りなど持ってきていないから、自分でも起きているのか寝ているのか分からないが、感覚はまだ残っている。自分は今、上体を起こした。腕を上げた。腕を下ろした。どうやら、神経に問題は無い様だ。
 気を失うくらいの高度から落下したにも拘らず、不思議な事もあるモノだ。リアは己の幸運に感謝し、同時に賞賛したくなった。まさか洞窟そのものが魔物とは思っていなかったが、体調的には何事もなければ脱出は容易そうである。
「……パパ?」
 視界が利かないから呼んでみる。反応は無い。
「パパッ!」
 今度はもう少し大きい声で。すると、風が隙間から吹き込んできたかのような、小さな声が返ってきた。
「…………ああ、リア。近くに居たんだな、それは良かった」
 魔物の体内は存外に反響するので、言葉の詳細は直ぐに聞き取れた。音の方向を頼りに、リアは歩き出す。途中、何らかの突起物に足を引っかけたが、大した事は無かった。耳を済ませれば弱弱しい息遣い、良く分からない水音までもが聞こえてきたので、そこから正確な位置を推定。思わしき場所まで歩くと、息遣いは少し上の方から聞こえる事に気が付いた。
「良かった。パパと合流出来たならもう大丈夫ね! さ、行きましょうッ?」
「…………それは、無理な話だな。こいつ、体内の至る所に歯が生えてるらしい。厄介な奴に食べられてしまったもんだよ、本当」
「話が見えないんだけど……?」
 何処か浮ついた口調で話す『闇衲』に、リアは一抹の不安を覚えた。微妙に会話も噛み合っていないし、先程から聞こえる水音も、それを助長している。
 その不安は、寸分の狂いもなく的中していた。
「幾ら俺でもな…………こんなデカい歯が突き刺さったらまともに動けねえんだよ。全く、不運な話だよな。俺は只、お前を助けただけだってのにな」



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