ダークフォビア  ~世界終焉奇譚

氷雨ユータ

希望か死神か 前編

 本能が危険を告げている。これ以上この店に居てはいけないと告げている。可及的速やかに『闇衲』の下へと戻るべきだと告げている。しかし何と運の悪い事に、入り口は塞がれてしまっている。恐らく……というよりほぼ間違いなく本能を騒がせているだろう老人と少年に。
 これは非常に不味い状況だ。彼らの盗みを見破ったのは自分である事から、まず間違いなく目を付けられている。父親の力を借りずにあの集団を殺す事を決めたリアだが、このレベルの怪物はちょっと……手に負えない。一体世界の何処に手刀で首を刎ねる人間が居るのだろうか。
 ここに居るのです。
「ふむ……お嬢ちゃん。良くぞ見破った、とでも言っておこうかな」
 いつの間にか腰が真っ直ぐに伸びていた老人は、ゆっくりとこちらに歩み寄って、握手を求めているかのように手を差し出してきた。ぼろぼろの歯を見せながら二ッと笑っているが、それでもこの体に染みついた恐怖は欠片たりとも緩和されない。これが所謂『呑まれた』状況なのだろうか。足が竦んで動かない。
「ひ、人殺しめ! その子に手を出す―――」
 旅人が武器を抜くよりも先に老人の手刀が彼の首を切断。抵抗の暇すらなく旅人は殺された。おびただしい量の血液が噴き出して、店の至る処に付着した。老人とリアにも結構な量が付着したが、それにも拘らず店内の光景は凄惨たるモノへと変容していた。傍らで呆気なく殺された恋人(恐らく)を見た女性が叫び声を上げようとしたが、その声も老人の掌に阻まれて、顔ごと握り潰されてしまう。
 僅か数分にも満たない、あまりにも素早い殺戮。腰が抜けてしまいそうな程に恐ろしかったが、ここで心まで呑まれてしまえば自分も彼等と同じ末路を辿る事になる。今は虚勢でも何でもいい、とにかく立つ事に全力を注がなければ。
「これでようやく話が出来るね、お嬢ちゃん。それじゃあ改めて握手をしようか」
 一体どうしてこの老人はここまで執拗に握手を求めてくるのか。もしこの握手に応じなかった場合はどうなるのか。考えばかりが最悪を予言する。老人は何時までも待つつもりか、微動だにしない。そんな老人を見ていたら何だか恐ろしくなって、リアは反射的にスティンが居た方向を見遣った。
―――え?
 スティンは居なかった。彼は計画通りモノを盗んで逃げだしたのだ。こんな危機的状況に、自分を放置して。老人には連れである少年も居た筈だから逃げられる筈が無いと思い込んでいたのが運の尽きだった。鍛えているスティン相手には素人の少年など無力も同然。少年は容易く入り口を開けていた。
 確か『リアの事は俺が守ってやる』と何処かで聞いた筈なのだが……まあいい。彼は作戦通りに動いたまでだ。元々そんな宣言は信用していなかったし、であるならば今これを持ち出すのは、違法というモノ。
「握手……するよね?」
「え…………………ええ」
 『最悪』は只の思い過ごしで、この老人は本当に握手をしたいだけだなんて、そんな思いが幻想である事は誰よりも分かっていたはずなのに、リアは恐る恐る手を重ねてしまった。それが全ての間違いであるとも知らずに。
 リアの手が凄まじい膂力によって砕かれた。その事に気付かせてくれたのは、片腕を突き抜けるような感じた事も無い痛みだった。
「ア˝……アア˝――――――!」
 声にすらならない痛みとはこの事だろう。反射的に短剣を老人の腕に突き立てようとするが、何度突き立てようとも老人の剛腕に突き刺さる事は無かった。
 何で? 何で! 何で? 何で? 何で? 何で!
「ああ……良い反応をするね、お嬢ちゃん。君のその悲鳴は、私にとっては最高の音楽さ」
 老人が軽く腕を持ち上げると、リアの足が地面から離れた。懸命に体を揺らして何とか脱出しようと抵抗するが、老人の力は弱まるどころか、むしろ強くなっている。
「君は凄いね。私達の盗みを見破った人間は今までで初めてだよ。どうだい、私の娘にならないか?」
「くたばれクソジジ…………ィ”!」
 その言葉が言い終わるか言い終わらないかの内に、老人の拳がリアの腹部へと放たれた。いっその事、そのまま店の外まで吹き飛ばしてくれればいいのに、腹部を突き抜けたのは衝撃波だけだった。内臓が捻転したような痛みだけが体内に残り、リアは我慢出来ずに嘔吐した。
「せっかく綺麗な顔をしているんだから、汚い言葉は使うモノじゃない。それで、私の娘にならないか?」
 老人の腕が服の中に滑り込み、自分の体を穢していく。まだ動く方の腕で何とか引き剥がそうとするが、彼の手を掴んだ瞬間に返されて、もう片方の腕も掴まれてしまう。
「将来を分析しているんだ。それを邪魔する片腕には……お仕置きが必要だね」
「や、やめァ˝グ―――ァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!」
 最早抵抗する術は無くなった。感じた事も無い痛みに枯れた筈の涙が再び零れ落ちる。それを見た老人は、恍惚の表情を浮かべていた。
 何という悪趣味な野郎だ。こんな変態は初めて見た。子供教会にもここまでやばい奴は……あそこは存外に人数が多いので、見たことが無いと言えないのは怖い所だが。生憎と今はあの忌々しき協会の人間について深く思い出す余裕は無い。両腕を折られた上に腹を一発殴られた。足で抵抗すれば今度はその足をへし折られるだろう。当然ながら足が無ければ逃げる事は出来ないので、それは出来ない。
「………………な、何でこんな事――――――ッ」
「君に発言を許した覚えはないよ。君は私の質問に答えるだけでいいんだ。余計な事など喋らなくていい。反抗なんてしなくていい。まだ分からないようだったら……その足も折っちゃうよ」
 あまりにも遅いが、リアは己の行動を強く恥じた。たとえ成果が何も無かったとしても、それでも良かったじゃないか。あのまま帰っていれば少なくともこんな事にはならなかった。こんな……どう考えても詰みの状況に出くわす事は無かった。




――――――だったら、せめて。もう死んでしまってもいいから、せめて。




「誰か………………誰か、助け―――」
 駄目だ、間に合わない。老人の手刀が自身の首へと放たれた。きっと自分が助けを呼び終わる前にその手刀はリアの首に食い込み、瞬く間にこの柔らかな首を刎ね飛ばす事だろう。ああ、何て最悪な人生だ。自分の人生を壊した世界にも復讐出来ず、こんな所で何も出来ずに死ぬなんて。
 でも仕方がない。こうなってしまったのは自分の責任だ。己の死の瞬間、リアは自棄になったように微笑んで、その結末を受け入れた。








































「まだ己を嗤うには早いぞ、復讐者」









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