ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

煩悩の溶けゆく中に



 裏にある温泉。その言葉だけを聞けば凄く平和な話である。気絶というのは要するに、のぼせてしまう事だ。文面通り受け取ると、温泉に入ってのぼせなければ勝ちという訳だが、それではあまりにも不公平というより、訳が分からない勝負となる。違う。これはアルドにとって、ある意味では執行者との戦いよりも辛い戦いである。

 社の裏に回り込むと、その匂いの限りでも人を惹き付ける様な、薄橙色の温泉が広がっていた。水の周りは岩石で囲まれており、雰囲気だけは普通の温泉らしいが、そもそもこんな場所にある時点で何もないという事がない。いわく付きという訳でもないのだが……問題は、この温泉の効能である。

 早速浴衣を脱ぎ、全裸のままにアルドは温泉を見下ろす。かつて一度入った事のある経験から言わせてもらうと、この温泉は人の煩悩を極限まで引き出す温泉である。具体的には、性欲の方。何を言っているか分からないと思うが、この温泉に触れた瞬間、その人間は生涯に味わう性欲的快楽を先に体験する事が出来る―――いや、言い方が悪い。生涯の内に体験すると思われる快楽を、一瞬の内に感じる事が出来る温泉だ。この温泉は良く僧侶の修行などで使われる事があったそうだが、あまりにも強力過ぎた効果から、どうしても徳の高い僧侶を輩出できなくなり、使われなくなったという経緯を持つ。意図的に性欲を忘れようという人間ですら耐えられなかった温泉、と言えばどれだけの凶悪さを秘めているか分かるだろう。尋常な人間がこれに身体を入れると、その時点で人間は溺死する事になる。過ぎた快楽が全身の力を奪い、そのまま生命を刈り取るのだ。

 そういう経緯もあり、エイネはこの温泉を隠す事にしたらしいのだが、驚きなのはこの彼女、時々入っているとの事。気持ちいいから。

「どうした。入らぬのか?」

「は、入るさ」

 アルド自身、己の身体から性欲が失われたとは思っていない。ナイツの身体を見てどれだけ欲情……してしまった事か。甘い誘いにどれだけ精神が揺れた事か。こんな男がこの温泉に入れば、劇毒にも等しい快楽が全身を襲う事になる。かつて入り、無事に入浴を終えられたのは……一体どういう訳なのだろう。今の自分には分からない。

 しかしこのまま突っ立っていても始まるものはない。アルドは意を決して、温泉の中へ片足を入れた。

 次の瞬間、全身を駆け巡る快楽。驚いた筋肉が突然弛緩し、心の準備もままならず、アルドはそのまま全身を浸す事になった。傍から見れば、只、温泉に入っているだけ。しかし当人の側にしてみれば、当人が一番性欲を刺激する感触に全身を絆されている感覚だ。

 即ち、女性の身体。この柔らかさは…………胸だろうか。それとも尻だろうか。或いは太腿かふくらはぎ―――いや、どうでもいい。じっくりと考えている場合ではない。エイネの目の前で気絶など情けないにも程があろう。彼女が付いてきてくれるというのなら、アルドはこの欲情にも耐えるべきだ。破廉恥にも、興味深そうにこちらを見つめる彼女を犯したいという思いは捨て去るべきだ。無念無想の境地へ思考を至らせようにも、その段階で快楽が精神を刺激する。とてもではないが辿り着けない。また、言うまでもないが局部が勃起してしまっているので、それを水面上に出さない為にも、気を抜いて座る事すら出来ない。

 大人としては全くみっともない光景だが、不審な動きをするしかなかった。気絶する事は無いだろうが、これはこれで、見られているという時点で恥ずかしい。

「ふむ……流石に、一度入った事があるとないとでは具合が違うな。湯加減はどうだ?」

「い…………い…………いい」

「ふん、そうか。ならば儂も入ってやろう」


 え―――。


 突然の申し出に、温泉の中にも拘らず血の気の引いたアルドを尻目に、温泉目掛けてエイネが投身し、湯舟の中へと沈んでいった。間もなく巫女服が水面に上がってくると、それと共に生まれたままの姿となったエイネが、湯加減からか頬を上気させていた。

「な、何してるんだ?」

 あまりに唐突だったものだから、この瞬間のみ、アルドは普通の温泉に入っていた。だらしなく口を開けて、何を言ったら良いかとパクパクさせながら。エイネは余裕の残った表情で移動し、丁度アルドの真正面に座り込んだ。隣に来ないのが彼女らしいとも言えるが、これはこれで酷いやり方だ。

「そも、温泉とは男女が共用で入るモノ。何も不思議はあるまい?」

「そ、そうだが。この温泉は…………」

「何か問題でもあるのか? ここの温泉は確かに煩悩を掻き立てるが、それも元々は、堅苦しい人間や、何もかも背負い込みがちな人間の苦しみを和らげる為のもの。例えば其方の様な男などには、ピッタリだ」

「ここじゃなきゃ、話せない事があるとでも?」

「其方の意地とやらは煩悩の抑制で手が回らない。その質問は愚問であろう。さて、アルドよ。其方に一つ問おう。其方は何故に戦う? 其方の身体が限界である事は、其方自身が一番よく分かっているだろうに」

 エイネの質問は紛れもなく、真面目に答えなければならない代物だったが、全身の女性の部位で挟まれている様な感覚があるせいで、どうも気分が載らない。調子が狂いそうだが、アルドは努めて冷静を保ちつつ、言った。

「私は、私を好いてくれる者の為に戦う。民の為などではなく、私を慕うが故に、絶対正義を拒絶してくれた者達の為に」

「大陸奪還は、其方の望みか?」

「私の望みでもあり、『皇』の望みでもある。王剣を手に取る以上、アイツの意志は私の意志だ。民の為などではないが、少なからず、大陸奪還は私を支えてくれる数少ない目的だ」

「その為に其方の身体が壊れたとしても、悔いはないか?」

「…………私を慕う者の中には、人に非ずな者もいる。死や生という概念に縛られてすらいない存在だ。彼女の拠り所が私だけな以上、悔いが無いと言えば嘘になる。それに……まだ、ナイツ達の想いに応えられていない。口ばかりな約束で、いい加減アイツ等も困っているだろうから……肉体的にも応えてやりたい気持ちはある。そこまで考えたら、死にたくはないな」

 約束は約束だ。格好良く死ぬ事こそ英雄の本望だが、アルドにはそれすら許されていない。約束をあまりにも交わし過ぎた。それらを守る為には、何よりもまずは生きていなくてはならない。自分が英雄だろうが魔王だろうがそれは変わらず、自分を好いてくれる者達は、英雄や魔王と言った肩書をまるで気にしていない。だから自分も、いい加減それに拘るのはやめるべきなのだ。確かに英雄や魔王といった肩書は自分を奮い立たせてくれる存在であり、それが無ければ執行者戦に置いても目覚める事は無かっただろう。しかし、英雄ならば格好良く死ぬべきだとか、魔王であれば民の声に耳を傾けるべきとか、そういう見栄えを気にする必要は何処にもない。

 英雄にはその数だけ雄姿があり。

 魔王にはその数だけ方針がある。

 『べき』も何も、自分は自分の思う様にやればいいのだ。格好がつかなくてもそれでいい。約束を破ってしまうよりかは随分マシだ。

「……ふむ。そうか」

「どうしてそんな事を。お前の事だから、こんな風に私が答える事は分かっていたんじゃないのか」

 話をしている内に、アルドは煩悩というものをすっかり忘れ切っていた……なんて都合の良い事はないが、彼女と話をしている内に少しだけ和らいでいた。この状態が続くのならば、何時間でも入れる。湯加減は普通に丁度良いし、自信をもってそう言える。エイネは少し微笑みを交えながらも、真剣さは崩さぬまま、尋ねる様な調子で言った。

「フェリーテも『覚』がある。けれど、アヤツは会話をしている筈だ。儂も同じ。分かっていても、其方の口から聞きたいのだ」

「そんなものか」

「会話は魔人にしても人間にしても基本的な交流方法。如何に特別な、いや特別だからこそ、そういった事を忘れるべきではないと儂は思うのだよ」

 エイネが己の肩にお湯をかける。元々絹ごし豆腐みたいに綺麗だった肌が、お湯を浴びて一層穢れが落ちた様に明るくなった。試しにアルドも自身の顔へ掛けてみるが、火傷の痕が消える事はない。

「―――もし。其方さえ良ければ、儂が其方の死を負担してやろうか」

「出来るのかッ?」

 食い気味にアルドが尋ねると、エイネは上品に「ああ」と言って、こちらへ手招きをした。

「ただし、七度までだ。それ以上は儂の身体が保たぬ。どうだ?」

 願ったり叶ったりの提案だった。突然の提案には困惑したが、少しでも疲労を取れるというのならば有難い。『剣』の執行者でさえ『死が多すぎて取れっこない』と匙を投げた程の蓄積量だというのに、まさかエイネが干渉してくれるなど。

 全裸の女性に近づくという、良く考えてみなくとも危険な行為をしている事にその時までアルドは気が付かなかった。気が付いたのは、死を負担するべく、エイネと濃厚なキスを交わす事になった時。

「……儂が命を賭して負担してやるのだから、無様に朽ちる事は許さんぞ?」

 あまりにも遅かった。感覚では無く、温泉の中で体に触れているという事実に気付き力の抜けてしまったアルドは、そのままエイネに押し倒され、共に水底へと沈んでいった。  

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