ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

どの世界にも、貴方だけ

「………………うっ」
 意識を失っていたらしい。視界を彩る景色は、閉じられる以前と比較すると随分と暗い。現在時刻が夜だから当然なのだが、このやけに落ち着いた雰囲気は、遊郭に居たという過去を、暫しの間忘れさせる。
「先生、起きたんだね」
「……ドロシア」
 上体を起こして身体を捻る。傍には、ドロシアが縁側に腰を下ろして、足をパタパタさせていた。同じように足を放り出すと、丁度、彼女と隣り合わせに縁側で座り込む形になる。珍しく三角帽子は脇に置いている。それのせいか、いつもと比べると大分印象が違う。三角帽子込みでさえ彼女の身体はアルドに比べると小さいのに、その帽子すらなくなると、いっそ少女の様である。語弊がありそうだから言い直しておくが、彼女の身長は、年齢を成熟期から最成熟期で止めているにしては小さいという意味である。体つきの方は何の問題もないので、決して彼女を子ども扱いしている訳ではない。
 彼女とは、数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいの年月を共に過ごした。あれは彼女がまだ、自分の体質を理解しておらず、感情を引き金に暴走させていた時の話だが、どれくらい過ごしたのだろう。十万年以上は優に過ごしている。下手も何も、イティスよりも長い年月を彼女と過ごした。まともな人類であればとっくに老衰で死んでいる年齢だ。アルドは不老で、彼女には寿命が無いから出来た事。
 こうして縁側で静かに過ごしていると、妙に感傷的になってしまう。もう随分昔の事なのに、まるで昨日か先程、起きたばかりの様に。
「先生。あの子、普通に帰ってきたよ」
「…………え?」
 思わずドロシアの顔を見る。驚いた自分の顔を、彼女は大層面白そうに微笑んだ。
「厄介事には巻き込まれたけど、奇妙な人達が助けてくれたんだってさ。だから、先生が一番遅く帰ってきた事になるね」
「……心配したか?」
「全然! 私も、友達出来たし。まだ触れそうもないけど、話すくらいなら何の問題も無いんだ。本当はもっと遊びたかったけど、先生と合流しないと、怒られちゃうかなって思って。そうしたら先生のお師匠様が、ここで待ってれば来るって言ってたから」
 お師匠とは、ゲンジの事だろう。彼からすれば他人であるドロシアに、どうして自分の事を教えたかは定かではない。彼がそこまで迂闊な人物とも思えないので、納得のいくように考えれば、ドロシアの目でも見て何かを感じ取ったのだと思う。そうでなければ、こうして彼女と話を交わしている状況に説明がつかない。
「ダルノアは何処に?」
「庭を超えた先の家で眠ってるみたい。だから今は、先生と二人っきりだよ」
 あれだけ心に負担をかけていた少女の問題は、間抜けにもアルドが眠っている間に解決してしまった。彼女が無事に帰ってきた事は嬉しく思うが、結局何をせずとも解決していたと分かると、自分が悩んでいたのは一体何だったのかと、無力感に全身が満たされる。庭に咲き誇る一本の夜桜は、そんなアルドの想いを、少しだけ慰めた。
 その一方で、二人きりという状況の恥ずかしさに、拍車をかけていた。
 ドロシアと、二人っきり。その状況を今更初めてとは言わないが、ここまで雰囲気が整っていると、どうも調子が狂う。弟子とはいえ、少なからず彼女の事を女性として意識している事が関係しているのだと思う。勘違いされがちだが、真に師弟の関係なのはゲンジとアルドであって、アルドの言う弟子は弟子ではない。飽くまで彼女達を保護する為の便宜上の身分に過ぎないのだ。
 だから、こうして二人っきりになると、弟子も師匠もあったものじゃない。ここに居るのは、不器用な男性と、そんな男性に恋をしてしまった一人の女性である。
 夜桜はこれ以上ないくらいに綺麗だが、それ以上に綺麗な存在が居るとすれば、それは君に違いない……と。そんな洒落た事を言っても恥ずかしくないくらいには、現在の雰囲気は整っている。これは、五大陸に居ては絶対に成立しなかった状態だ。それ故に、アルドは微妙に緊張している。傍らの少女は何を考えているでもなく夜桜を眺めているが、ここは男性として、そんな彼女に気の利いた一言を言わなければならない。そんな強迫観念じみた思い込みが、アルドの心を圧し潰している。
 けれど、ここが踏ん張りどころだ。女性にたいして耐性の無い現状を維持したいとはアルドも思っていない。誰がすき好んでこんな生き地獄の様な状態を維持したいというのだ。
「……ドロシア」
 床に放り出された彼女の手を、上から覆う様にそっと握る。ドロシアが僅かに頬を染めて、しなだれかかる。
「何、先生」
「こんな状況でしか言えない事を、どうか許してほしい。私はお前の事を愛している。好きだ」
「…………うん。有難う」
「―――お前は、子供云々、その手の話を一度もしないんだな」
「……確かに、先生との子供が生まれたら、どんなにか幸せとは思うけど。私が何より大切なのは先生だから。先生が幸せになるまで、私も無理な我儘は……出来るだけ言わないって決めてるんだ」
 十万年以上もの長い歳月をかけて、アルドは彼女の心の壁を溶かす事に成功した。その結果がこれだ。これはアルドが望んだもの。彼女を救うために、アルドが受け入れる事を選択したもの。だから彼女の感情には、何が何でも応えなければならない。
 出来れば、性交渉以外の手段で。
 彼女の綺麗な金髪が肩にかかる。鼻をくすぐったのは、嗅いだ事もない良い匂いだった。目を閉じて想像してみると、一面に花畑が広がるようでもあった。
「ねえ、先生。私じゃ代わりになれないの? 先生の生き甲斐の代わりに」
「……いいや。お前は私の生き甲斐の一つだ。お前と言う女性と何十万年過ごしてきた。別世界に旅立った後も、私はお前の事を忘れた事は一度たりとて無かった」
「本当?」
「…………心配だったんだ。お前が別世界の住人と上手くやれるのかって。けれどお前の笑顔を見た時に、大丈夫だったんだって気が付いた。再会した時機が悪かったから言わなかったが、お前が元気で生きていた事を知って、私は嬉しかったよ」
 この世界に生れ落ちながら、何からも縛られる事のなかった少女、ドロシア。出会った当初は泣いてばかりだった彼女が、こうして今、アルドの目の前で笑顔を浮かべてくれている事には、むしろこちら側が涙を隠せなかった。
 縛られないが故に認められず、自由故に触れ合えず、世界からも人として認識されていなかった彼女が、人間みたいに笑うなんて。彼女が人間であると、そんな綺麗ごとを言うつもりはない。彼女は人間として生まれたが、その瞬間に人間ではなくなってしまったのだ。アルドが過去の遺物だとするならば、彼女はそんな時代の流れにすら弾き出された存在。アルドが人間でないとするならば、彼女もまた人間ではない。
 時に、人類は皆、始祖の犯した罪を背負っているらしい。その名は原罪。解釈は大陸によって異なるが、基本的には苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生と死が混じったのだと言われている。仮にそうだとするならば、彼女はその原罪すらも背負っていないという事になる。いや、正確には、己の存在を自覚した瞬間に、余計に背負っていた罪を下ろしたとも言っていい。であるならば、彼女は人間ではない。原罪を背負っている事こそ人間の証だというのなら、彼女はとうの昔に人間ではなくなっている。
 人の世に苦しもうにも、彼女は人の世から拒絶されていた。
 情欲の乱れなど人の世に居ないのならばあり得ず。
 不毛な生と死以前に、始まりと終わりがそもそも彼女の中に存在しない。普通に生まれたのも、それは彼女が自分が人間だと思い、人間の秩序を無意識に受け入れていたから。その本質は、最初から何処までいったって人間ではない。  
 アルドとは全く別の意味で、人間ではないのだ。
「…………お前だけは、笑顔で居て欲しい。たとえ世界が終ろうとも」
 ふと、気になる。アルドとドロシアは、一体どちらが酷い目に遭っているのかと。無限に縛られ続けて、受け入れ続けて、何処までも何処までもその身を堕としていくアルドと、自分の居場所すら定かではない状態で、永久に来ない終わりを探すドロシア。
 …………考えるまでもなく、後者か。そもそも、アルドはカテドラル・ナイツという者達が居る。それだけで幸せだ。彼女とは比べるだけ無意味である。
「…………私は、先生が望むんだったら、笑顔でいるよッ?」
「そうか。そう言ってくれるだけでも心が軽くなる―――尋常な男ならば、ここでキスでもするべきなんだろうが」
「してくれるの?」
「簡単に出来れば苦労はしない―――うおッ!」
 急に体が引っ張られて、アルドは情けなく引っ張り込まれた。犯人は言うまでもなくドロシア。彼女が誘い込む形で引っ張ったので、傍から見れば、アルドが彼女を押し倒している様な形に見えるだろう。場所は縁側だ、絶対に見えないという保証はない。不意に起きたゲンジ辺りが目撃しても、何ら不思議はない。
 そんな事などお構いなしに、ドロシアは真正面からアルドを見据えて、熙笑きしょうした。
「こうすれば、先生だって簡単に出来るでしょ?」
「どういう……事だ?」
「だって、先生が身体を下ろせば、丁度私の口の位置だもの」
 そういう事か。確かに簡単である。
 などと頷ければ、やはり苦労はしないのだ。簡単か否かは物理的状況に左右されるものではない。精神的状況に左右されるもの……有り体に言えば、度胸があるかないか。
 場所づくりは完璧だ。こんな所にまで付いてきて、今でもずっと自分を想ってくれている彼女に応えるには、この上ない場所だ。これ以降は、恥ずかしさが前面に出て、そんな事は出来ないだろう。二度とは訪れない機会だ。
「先生はさ、ナイツの人達の事。愛してるんでしょ」
「突然どうしたんだ?」
「私をナイツの人達だと思ってさ。そうしたら、出来るんじゃない?」
 …………そういう事ではないのだが。というか、あまり大差ない。ナイツにしても彼女にしても、愛おしい女性である事に変わりが無ければ、誰かしらは恥ずかしくないという道理もない。そもそも女性として意識している時点で、その辺りの変化は殆ど存在しない。
「……じゃあ、慣れる為に胸でも触る?」
「……段階がおかしいな?」
 愛撫は次元が違うので不可能だ。例えるならば、平らな道から見上げた山の頂上である。因みに性行為とは、天空である。地に足のつく人間には、届きそうもない世界だ。
「いつまでも待ってるからね? このまま朝を迎えても、それはそれで私は嬉しいし!」
「それは私が困る」
 どう見たって自分が押し倒している光景を、わざわざ維持する必要はない。このまま身体を下ろせばキスが出来るからと、そう彼女が先導してくれているのだ。何かを考える必要が、果たしてあるのだろうか。
 …………何十万年と共に過ごした彼女にすら何も出来ないのなら、アルドは他の誰にも同じ事が出来ないという事になる。しかし、それはおかしい。彼女以前に、自分はナイツ達とデートをした筈だ。彼女よりも過ごした期間が短いナイツ達に出来たのなら、彼女に出来ない道理はない。
 アルドがゆっくりと身体を下ろす。その唇が、不器用な形で彼女の唇と触れた瞬間、アルドの腰を、彼女の両足が固めた。それには驚いてしまったが、男は度胸。今更退く気など更々ない。
 これが彼女から注がれた愛への、細やかなお返しだ。これ程の好環境でこれだけの事しか出来ない自分は、やはり情けないのだろうが、彼女はとても満足そうだった。やがて腰の拘束も外れて、二人の唇が離れる。二人の頬は、酒が入ったみたいに仄かに赤く染まっていた。
「…………酒でも飲むか?」
「うんッ」
 気恥ずかしさにそんな事を言って誤魔化しながら、アルドは虚空から酒瓶と御猪口を取り出し、二人の間に置いた。丁度、花見をするには不足ない桜が目の前に広がっている。早速注いだお酒を舌で転がすように味わいながら、アルドは天へ向かって、呟いた。
「ああ…………綺麗だ」
 夜深に二人は花見をし、一夜を共に過ごした。それは、ある満月の日の真夜中の事だった。

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