ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

狼に安らいで

 ヴァジュラとデートするのはこれが初めての事ではない。しかしかつてのデートはハッキリ言って只の散歩も同然であり、ファーカやメグナの時の様な、本格的なモノとは程遠い。勿論、状況が状況で、碌に誘えなかったというのはあるが、それでもやろうと思えば誘う事は出来た。何処かで体を重ねる事も……出来たかもしれない。それをしなかったのは偏にアルドの怠慢であり、正直に言えば怖かった。果たして彼女を満足させる事が出来るのか。初心故に何か間違いをしてしまって、もしかしたら彼女を傷つけてしまう事だってしてしまうかも。以前もこんな事を考えたような気がするが、それこそアルドの恋愛経験が一歩も進んでいない証拠だ。怖い。只々、言葉以外で愛情を伝える事が怖い。言葉ですら喉から出るまでに非常に長い時間をアルドの中で経過させているのに、言葉以外となったらもう無理だ。それは、ヴァジュラに押し倒された際に、彼女の胸にすら指一本触れなかった事から分かるだろう。
 性行為やそれに連なる前戯が、単なる子孫を残す為の好意ではなく、コミュニケーションの一環であるという事なんて分かっている。分かっているが、だからと言って直ぐに実行できるかと言われるとそういう事ではない。彼女達を満足させる事が出来るのなら何よりだし、確信があるのならアルドだってもう少し積極的になる。だが、だが。その確信も無く手を出すなんて事はしたくない。臆病とでも何でも言うがいい。こればかりは気合いでも、どうにもならない。とにかく怖いのだ。その方面で女性を……自分にとって大切な存在を傷つけてしまうかもと考えると。
 ヴァジュラの方からデートを誘ってきた時、嬉しくはあったが、同時にアルドは自分の事を情けなく思った。女性の方から誘ってもらわなければ成立しないデートをするなんて、それは男子失格では無いだろうか。女性が男性を引っ張ってはいけないと言うつもりは無いにしても、女性にくっついてばかりなのは問題だ。だからあの時自分は、自分の方からヴァジュラを誘うべきだった。そうして何事もなくデートを終えて、この心の傷を癒すべきだった。それなのに……
 ここまで分かっていても尚、自分は出来ない。行おうとすると本能がそれを拒絶する。不断は本能を上回っている筈の理性が、これに関しては一切働かない。こんな都合の良い心境を構築してしまうから、アルドは自分の事をどうしても好きになれない。人は自分の事を英雄と呼んだが、それは功績のみを見ていたからそう呼んでいただけの事。本当の自分はこんな風に弱弱しくて、低俗で、醜い。誰かに好かれる要素何てこれっぽっちもない、魔王の器何てある筈もない人間…………いや、もうどうなのだろうか。自分は一体何なのだろうか。
 人間からは魔力を持たぬ故に非人間と罵られ。その一方で魔人からは容貌のせいで人間如きと見下され。そんな自分が倒してしまったのは、世界正義の代表とも呼べる執行者が一人。死の執行者。加えて体は魔王となる際に執行者の体と半分入れ替わり、そのせいでこの身体には既に生物の限界を遥かに超えた死が疲労として蓄積している。
 こんな奴が人間とは思いたくないだろう。自分だってそう思う。では尋ねるが……アルド・クウィンツは今、何だ? 人間なのか、魔人なのか。それとも―――執行者なのか?
 生きている訳でも無く、死んでいる訳でも無い。何もかもが中間で、何もかもが曖昧で。この真実にはずっと気付いていたが、感傷に浸っている今は向き合わざるを得ない。気づかない内に、アルドはドロシアと同じ様な立ち位置に移動していたらしい。彼女はあらゆる世界から拒絶された結果、文字通り自由に動けるようになっている。しかしそれは、裏を返せば何処まで行っても孤独という事であり、彼女を縛り付けるモノが真理しかない以上、彼女はそこに在る事しか出来ない。そんな彼女が自分に絶対の信頼を置いてくれているのは、自分が彼女の止まり木となる事を約束したからだ。肉体関係で以て約束出来れば一番良かったのだろうが、アルドにそんな勇気があればここまで思い悩む事は無かった。口約束だけだと、どうか察して欲しい。
 そんな彼女と違って、アルドはあらゆるモノから縛られていない訳じゃ無い。しかしどの勢力にも嫌われていて、もう何処に居ればいいのかさっぱり分からない。エインにしても『謠』にしても、そういう未来を忠告してくれた人物のお陰で、本当に手遅れにはならなかった。ならなかったが……そのせいで曖昧になってしまった。
 ナイツが慕ってくれるのは結構だ。ナイツの存在こそがアルドの止まり木。魔王となり大陸を奪還する約束は死んでも守るし、どんなに迷った所でやる事は変わらない。けれど…………立ち位置が分からなくて、時々自分が自分で無くなってしまう感覚を覚える。
 アルド・クウィンツとは何なのか。
 魔王とは、英雄とは。
 少し考えれば分かるかもしれない。けれどそれが、果たして本当に正しいのか。それが分からない。それだけが分からない。
 アルド・クウィンツは正しいのか、それだけがどれ程の時間を掛けても分からない。彼女とは別の意味での孤独だ。言い換えれば、ドロシアが肉体的、秩序的な孤独を持つのなら、自分のそれは精神的な孤独。どれだけ周りに人がいても、灼熱の絶対零度が心を覆って離さない。もしかしたら、そういう精神的な壁が、アルドの恋愛的進歩を妨げているのかもしれない。相手に寄り添う事は出来ても、それは一方通行だ。その罪悪感から、自分は誰とも肉体関係を結べないのだろう。この精神的な壁が原因の一端を担っていると言うのなら、間違いない。
 アルドは自室に戻り、誰も様子を見に来ていない事を確認すると、ベッドに飛び込み顔を埋めた。感情が戻ってきたせいで、やたらと涙が出てくるようになった。恥ずかしい。こんな顔、とてもとても他の者には見せられない。ただでさえドロシア、フェリーテに見られて物凄く情けなかったのに、これ以上の涙は、最早羞恥で死に至りかねない程である。
「私は、弱いのか……?」
 自信が持てない。百万人を斬り殺そうと、国を落とそうと、魔力の根源を再び打ち倒そうと、三千万人を斬り殺そうと、執行者を倒そうと。全然何処にも自信が湧いてこない。湧いてくるのは只、空しさばかり。
 もっと、強くならなければ。もっと、もっと、自分に自信を持てるようになるくらいまで。
「どうして私は、弱いんだ……」
 こんな事で魔王が務まるのか? 民衆の言う通り、自分は役立たずなのか?  
「何で私はこんな…………」
 こんな時に『皇』が居たら―――いや、そんなもしもは切り捨てるべきだ。エインの様に彼女を復活させた所で彼女が喜ぶとは思えない。裏切られて自暴自棄になっていた時期の自分を支えてくれた彼女を頼るのは、冗談でもやめるべきである。
「誰か……誰か……私を―――」
 それより先の言葉を言う権利は、アルドに無い。一度救う側に回った存在は、二度と救済を求める事は許されないのだから。 






























「…………僕は一つ、貴方に聞きたい。ドロシア一人で、本当にあの人を支えられると思っているんですか?」
 彼女には席を外してもらった。少しだけ、二人で話したかったから。同時期にアルドの弟子になった者として、最後に。
「僕は無理だと思います。あの人を救おうと思ったなら……もう少し早く、彼女を連れ戻して、僕達で彼を別世界へ連れ去るべきだった。この世界が彼を英雄や魔王と言った大仰な肩書で縛り付け、不幸な目に遭わせるというのなら、別世界に移動して、あの人に英雄を捨ててもらうべきだった。お前は随分前から分かっていた筈だ。お前の権能があるんなら、未来を視る事くらい訳無かった筈だ。何で…………お前は。こんな風に死ぬくらいだったら、最初から救えば良かったんだ」
 死人に口なし。もう彼は何も喋らない。その心にどんな思いがあったかも分からぬまま、死んでしまって。いつかは彼と心の底から分かり合えると思っていたのに、永遠の別れをする事になるなんて。こんな事なら、もっと早くに彼を見つけ出して―――
「…………僕は、あの人の傍には居られない。けれどお前があんまりな丸投げをした事が分かったから、全く手を貸さない事もしない。せめてドロシアが、あの人の心を閉じ込めている殻を破れるくらいになるまでは…………手助けしようと思う」
 カシルマは立ち上がって、墓を背中に、真っ直ぐ離れていった。
「だから……借りるぞ。お前の『瞳』」
 彼の意思は忘れない。その思いは、今もこの胸に刻みつけられている。左目に移植された、彼の瞳と共に。

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