ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

先に潜む畏怖 

 意識が飛ぶと、人は不思議な夢を見るモノだ。自分は天空に居て、周りには何も無い。只ずっと落下して、落下して、落下して。
 底は無い。地面は無い。ただずっと落ち続ける。この夢に何の意味があるのかは分からない。どうせ覚めれば全て忘れるような夢だ、深く気にするだけ損だろう。ならば今は、この自由な感覚を楽しんだ方がずっといい。
 ああ、何にも縛られていない。あの疲労も、大陸内の面倒も、今だけは忘れられる。何せここは夢、アルドの夢だ。何処にもあって何処にもない。その気になれば叶えられても、絶対に現実では願う事すらしない夢。だってもう、己の安息は捨てたから。己以外の全てに魂を捧げたから。
 しかし今だけは、願ってみよう。どうせこれは夢なのだから。
「いつか―――」




 私の苦労が報われる日が、来ますように。




「おーいアルドぉ? 起きてるー?」
 聞き慣れた声。寝起きにも拘らず、耳触りが良いのかやけにはっきりと耳に届く。まさかアレがここに居るとは思えないので、酔い過ぎた故の幻聴だと思うが。
「アルド? 起きないと色々しちゃうよー」
 ほら、幻聴だ。具体性がなさ過ぎる。色々という言葉は便利だが、一体全体何をするのか全く示していない。それを作る思考力が無い証拠だ。大体、もう後継が居るとはいえ仮にも自分は『勝利』。何をされても不都合何て無いし、何なら困難な事が来たって―――
「キスしちゃ―――」
「やめろ」
 自身の反射神経を限界まで酷使して、アルドは全力で後退……しようと思ったが、机に突っ伏していたので出来なかった。傍らではそんな行動を見て、微笑んでいる『謠』の姿があった。
「何だ、起きてるじゃん」
「……何故ここに?」
 『謠』は自分が玉座に戻ってくるまで出てくる予定は無いから、と言っていたが……一年も経たずに、その発言は覆された。それも自分が危機的状況に陥っているならばともかく、ここは食事処だ。『謠』が来るようなそんな大層な場所では断じてない。
「うーん、確かに出てくる予定は無かったんだけどね……これがなー、出てきたかったから仕方ないんだなー。だってアルド、起こさなかったら朝まで寝てたもん」
 ナイツの方を見ると、ルセルドラグも含めて、殆どが机に突っ伏して眠っていた。ユーヴァンのみ、背もたれに腰かけて、大きな寝息を立てている。身体を傾けて厨房の方を見てみるが、棘童とタケミヤも仮眠を取っていて、『謠』には気付かない。
「ああ―――反論出来ないな。確かに私は朝まで寝ていただろう。お前に脅迫されなければな」
「脅迫って何さ。キスするって言っただけなんだけど」
「それが脅迫だと言っているんだ。私はあらゆる苦難に耐えうる自信はあるが、女性のキスだけは耐えられない。するならせめて、もう少し場を整えてくれ」
 そしてキスは脅迫ではなく、正確には褒美と分類しても良いかもしれない。だが褒美だったとしても場を整える必要はあるだろう。例えば勲章を授与する時だって、王様は通りがかったついでに渡しはしない。ちゃんと関係者全員、或いは国民をも巻き込んで叙勲するのが普通だ。
「え、場は整ってるでしょ。ほら、騎士になった頃を思い出してみて。リーリタに誘われて、酒場付きの娼館に行った時、皆酔ってたでしょ? 娼婦の子も酔ってた。で、その後はどうしたっけ」
「……二階に行って、乱交し始めたな。小さい娼館だった事もあって、娼婦は全員あっちに行って、私は一人下でくつろいでいた」
 今では誰かに言えば笑いを取れるネタだが、あの時は自分の女性に対する経験の無さと度胸の無さに惨めな思いを抱いていた。問題は今でもそれは変わっていないという事だが、今はあの時のような思いを抱く事は無い……と思う。
「ほら、場が整ってるじゃん。今アルドは酔ってるし、女性だったらここに居るし? 性交はちょっと恥ずかしいけど、キスだったら―――」
「場が整っているかのような前提で話している処申し訳ないが、もう酔いは覚めた。頭が痛い気もするがそれは気のせいとして、とにかくキスはやめろ」
「あっそ。じゃあ抱き付くのはオッケーって事だね!」
「待て、何故そうな―――ッ」
 人の話を聞かない。というか、最初から聞く気が無かったようで、アルドの返事を待つ事なく、『謠』が全力でこちらに抱き付いてきた。エルアとは違って、随分と重量感がある。それは身長から必然的に発生する重みでもあれば、部位的な重みでもある。媚薬自体はまだ切れていないのでこれはこれで不味い事態だが、キスをされるよりは幾分かマシだ。まだ理性は機能している。
「いやあ、アルドの身体、温かいねえ。私達の世界に居た時は、よくこうやって温まってたっけ。ねえ?」
 遠い遠い未来むかしの話だが、『謠』とこうやって過ごしていると、まるでつい最近の事の様にも感じてしまう。あの時はまさか、自分が今後国を裏切って魔王になるなんて思いもしなかっただろう。いや、実際思ってはいなかった。でも―――予知された事象は、変わらなかった。
 自身の胸に頭を擦り付ける『謠』を見下ろしながら、アルドは彼女の背中を優しく摩る。
「ああ…で、本当に何をしに来たんだお前。キスをしに来ただけ、とかそんな理由だったら、今すぐ剣の執行者を呼んで帰らせるが」


「ええー、それは無いですよアルドさん。ま、目的はあるからそんな事にはならないけどね……ね、アルド。玉座に戻ってからの話だけど、次の大陸は何処にするの?」
 媚薬の効き目が切れていない以上は背中を摩るのも一苦労。少しでも気を抜けばこの手は『謠』のお尻を鷲掴みにしかねない。そうなってしまったらアルドは思わず自分を殺したくなってしまうので、気を抜く訳にはいかない。常時感じている疲労があるお蔭で忘れた事は無いが、後一回明確に死ねば、アルドは今度こそ『死ぬ』。
 それは分かっているが、それでもそんな破廉恥な行為に及ぶのであれば最低でも両腕は切り落とす。だが大陸奪還をするのに両手欠損は非常に都合が悪いので、そういう意味でも気は抜けない。
「次は、レギだな。一度はキリーヤ達の為に訪れたが、次は魔王として訪れる。中心国を迅速に狙って破壊出来ればそれに越した事は無いが、それをするとこちらも只では済まない恐れがある。それに、中心国を落としたからと言って大陸奪還は出来る訳じゃ無い。やはり周りから潰していく必要があるかな」
「今度も皆殺し?」
「ツェータの村の奴等は見逃しているだけで、基本的に戦闘力を持っている奴はそうだな。本当に無力な女子供、或いは重病に罹っていて動く事すらままならない、だから『絶対に反乱や不都合は起こさないから通常通りの生活を保障してくれ』と言うのであれば話は別だがな。そんな奴がたくさん居たら魔人と人間の共存は成立するというモノだ。何か特殊な事情がある奴も見逃すが、魔人に対する脅威に成り得る場合はそれも殺すつもりだ。殺さない特殊な事情ってのは、まあ例えばソイツ自身にしか影響しない何かとか。そもそもその事情のせいで生きる事すら精一杯だとか、そういうのだな。それらを除けば、暫しの大陸調査の後、皆殺し。もう私がいつ死んだって不思議では無いからな。出来れば早く大陸は取りたい」
「ふーん、そう……だったら、少し言っておきたい事があるんだけど」
「何だ?」
 『謠』は上体を起こして、真っ直ぐにこちらの瞳を見据えた。
「『死』の臭いがする。キリーヤ達も今レギに居るから遭遇するかもしれないけど、この臭いはかなり不味い。だってこれ―――執行者の臭いだもん」
「執行者? ……待て。執行者が世界に二人居るのはおかしいだろ」
 その言葉に驚きを隠せる訳が無かった。執行者と呼ばれる存在のおかしさを、アルドは遠い未来むかしに見た事があったから。
「剣の執行者は執行者としての役目を放棄してるから、数には入らないんだろうね。でも、ハッキリと言える。何の因果か分からないけど、入ってきたのは―――『死』の執行者だよ」




 

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