ワルフラーン ~廃れし神話
少年は
歪まぬ剣は鋼鉄で出来ている。しかしてそれは人間の意思によって出来上がる。
それは何故出来ていて、そして何故壊れるのか。それもまた意思であり、人間によって出来上がる。
故に英雄は最強であり、神話として、人々に語り継がれる。
栄と頽廃。表裏でありながら同時に在るそれは、無辜の英雄すらも、大罪人へと歪ませる。
歪まぬ剣は地獄で出来ている。神に愛されしこの地に刻むは、己の血肉。しかしそれさえも、この地は否定する。
英雄は歪み潰され伸ばされて、そうして初めて神話に刻まれる。それはまるで、鉄を鍛つかのように。
歪まぬ英雄は全ての為に、己の血肉をその剣に捧げる。
故に世界は英雄を神話とする。
歪まぬ剣は世界へと向けられている。
黒く染まれ。
赤く波打て。この血は―――自分の為に捧げるのだ。
惨めに横たわるツェートを見遣った後、ネセシドは折れて使えなくなった剣を捨て、立ち上がった。
立ち合いの直前、フィージェントから『不骸の薬』を貰っておいて良かった。まさか背中を斬られた時、回復総量の七割を埋められるとは思わなかったが、それこそ幸運。薬の存在がばれずに上手く事が運んだ。世の中、何が幸運か分からないモノだ。
ツェートの意外な強さを刮目してから、ネセシドは最初からこれを狙っていた。魔力解放をし、狂戦士のように振舞う事で、ツェートを油断させ、相手に有利と思わせた所を不意打ち。心臓は確実に壊した為、ツェートが起き上がってくる事は無いだろう。
しかしまあ、彼もそれなりに強くなったようだ。死んだ今となっては遅いが、少し評価を改めるべきだったかもしれない。
「だが私は勝った……そう、勝ったんだ! 彼女に振り向いてもらうのは私だ! やった、やったぞぉ」
「オレはま……い……てるぞ……!
」
「……何」
驚いて背後を振り返ると、自らが捨てた両手剣を持ちながら、亡霊のようにゆらゆらと、しかし確かに立っているツェートがいた。
「貴様……どうして」
「……重要臓器を左胸から遠ざけたゴブッ! ……おかげで血管やらが大変な事になってるよ……フッ! だが……生き延びた!」
そうだ。ツェートは自分の所有物も飛ばせるのだ。心臓やら臓器やらは、全て自分の体に収まっているモノ、即ち所有物だ。冷静に考えてみれば、そんな回避方法も不可能ではない。
しかし。しかし、だ。あの一瞬でそんな賭けともとれる判断を下したというのか。あの有利な状況で、不意打ちを喰らって、それが躱せないと判断した上で生き残る策を即座に考案し、実行した。それは場数を踏まなければ出来ない事であり、ツェートはそんな奴では無いはずだ。
……悔しい。
「まだ私の邪魔をするか! ツェート! ツェート・ロッタァァァ!」
殴りかからんとツェートへと駆け出すが、その時には既に、折れた両手剣によって、ネセシドの腹部は貫かれていた……ツェートに。
「ガ、ァ……」
「……俺がゴフッ……邪魔? 良いぜ。なら……テメエが先に逝け!」
腹部から刃を引き抜くと同時に、一歩後退し、首を薙ぐ。
「……ァ!」
首の感覚は既に回復しつつある。大丈夫だ、まだ『不骸の薬』は……そう。首の傷が再生。無かった事となる。
しかしそれだけだ。腹部の傷に、再生の気配はまるでない。
ネセシドはその場に膝をつき、腹部を抑える。
「何故……?」
「ちぇッ……まだ死なないのか……まあいいや、これで……レンリ……オレ……物」
ツェートも限界だったようで、ネセシドが限界だと悟ると、その場に無様に崩れ落ちた。
生憎こちらも限界。意識を保つので精一杯故、彼が死んでいる事を祈るしかない。
「っけ……」
これでは誰が勝ったか分かったモノではない。この場合誰が勝者を決めるのか―——
「終わったみたいね」
「……レンリー?」
そこに現れたのは、ツェート、そして自分が最も欲した女性だ。今はどういう訳か、普段の御淑やかな雰囲気とはかけ離れたように感じる。
「久しぶりね、ネセシド。やっぱり私の予想通り、貴方が勝ったみたいね」
この場合は、意識を持っていた者が勝者という事になっているのだろうか。
それにしても、レンリーの笑顔は美しい。ああ、これを見る為だけにネセシドはツェートを殺したのだ。
「さあ、これで『貴方は私のもの』よ。じゃあまずは……そうね。ツェートは生きてるのかしら?」
「え、あ、ああ多分」
発言に違和感はあったが、良い間違いだろうか、或いは言葉の綾? 細かい事を気にしていても仕方が無いので、流す事にする。
しかし次の発言は流石に容認出来なかった。
「じゃあ殺しましょうか」
虫を殺した事も無い筈のレンリーが、淡泊にそう言ったものだから、ネセシドは絶望と驚きのあまり、言葉を発する事すら出来なかった。
彼女が、殺す? 一体どういう事だ?
そんな思考の絡みつきを知る由もないレンリーは、ツェートの握っている折れた剣を抜き取った。
「私の最強の御婿に手を出すなんてあんたも馬鹿ね。全く、こんな事しでかさなきゃ、性行為の玩具くらいにはしてあげたのに」
レンリーは邪な笑みを浮かべながら、惨めに倒れているツェートをつつく。ツェートは相も変わらず反応を見せない。
まさかこれがレンリーの本当の姿? そんな訳が無いが……こんな姿をネセシドは見た事が無い。無いという事はつまり隠している、即ち本性という事だ。
まさか、こんな女を手に入れる為に、自分達は争っていたのか? こんな女性を求めるくらいならば、ツェートと話していた方がずっと良い。冗談を抜いても、本当に。
「んー少し温かいから……私が消してあげる。感謝しなさいよ、こんな美人に―――殺してもらえるんだからッ!」
「ん……あ……」
一時間か、三十分か。いや、気絶していたツェートには分からない。寝ている人が寝た時間を記憶しておらず、一瞬のように感じるのと同じで、ツェートからしても目覚めたのは一瞬だったのだ。既に夜になっているのを見る限り、相当な時間意識を失っていたのだろう。
まあいい。取りあえずは腕や足に飛ばした重要器官を元の場所に戻し―――と言っても、左胸には大穴が開いているので、完全に元の場所には戻せないが、血管の絡みつきを解消できればそれで良い。
ゆっくりと体を起こしつつ、重要器官を元の場所(近く)に戻していく。心臓、肝臓、腎臓、胃、腸、膵臓―――何れも問題は無い。生命活動は問題なく機能するだろう。
ツェートが完全に体を起こしたとき、こちらに駆けよってくる者がいた……レンリーだ。
「ツェート、生きてたんだね!」
「レンリー……」
レンリーはツェートへと駆け寄り、押し倒し気味に抱き着いた。
「良かった……! 本当に良かった……!」
「痛え……」
言いつつも、彼女の柔らかい抱き心地に、ツェートは満更でもない様子だった。自分は勝ったのだ。これくらいは褒美、多少満喫した所で、罰は当たらないだろう。
しかしそんな褒美も長時間続くと拷問である。やがて傷口に掛かる重圧が、洒落では済まされない程には痛みを膨張させたので、レンリーの背中を二、三回叩く。
「あ、ごめん」
レンリーが離れたので、ツェートは再び体を起こそうとした。
その時、ツェートの視界の端に写るモノがあった。それは意識を失うまでは確かに息をしていたネセシドだった。彼は数メートル先でうつ伏せになって倒れているので、背中に刻まれた幾つもの刺し傷が一層惨く見える。そしてその傷から、彼が生きているかどうかは怪しい。
死んでくれてるのなら、それは何よりだが、しかし先程のように実は生きている、なんて事もある。
警戒は緩めないようにしなければ。
「ツェート、何見てるの?」
「いや……ネセシドの事だけど、俺が倒れた後、どうなったんだ?」
「え? いや、最初からあんな感じだったけど」
その言葉に違和感を感じ、ツェートは思わず自分の手を見た。
……ない。
周囲に視線を巡らすが、やはりどこにもない。無ければおかしい筈の『アレ』がどうして無いのだ。
ツェートは左胸の激痛から逃れるように、思考を整理する。
ネセシドが倒れているのは、意識を失う直前自分が突き刺したからだ。そしてレンリー曰く、最初からあの状態で倒れていた……つまり、自分が意識を失ってる間に倒れたという事だ。ならばやはりおかしい。自分の手にアレが握られていないのは実に可笑しい。さらにおかしいのは、アレが無いにも拘らず、自分の与り知らぬ事象が一つ発生しているという事だ。
全ての可能性、不確定要素、それら全てを総合すると、導き出される結論は信じられないかもしれないが、一つだった。
「なあレンリー、ネセシドに何をした?」
「―――え? 私は何も」
「俺の手から剣が離れてる、処かどこにも無い」
レンリーの愛らしい笑顔が固まった。
「な、なな、何? それで私を疑ってるの?」
「不自然な点はもう一つあるぞ。俺はネセシドを一回しか刺していない。そりゃ何回か斬ったけど、おかしな力で回復されている。……だからあの傷はどう考えても俺が意識を失ってる間に、付けられたモノとしか思えないんだよ」
レンリーの動きが完全に止まった。反論すらしない所を見ると、図星なのだろうか。
「お前……ネセシドを殺したのか?」
次の瞬間、レンリーはツェートに馬乗りになるように飛び掛かった。殆ど瀕死といっても過言ではないツェートだ。普段ならば何という事は無い事でも、今は抵抗する術がない。レンリーの膂力に押し負け、ツェートは見事にポジションを取られた。
「何をする気だ」と言う暇も無く、レンリーが隠していた剣を取り出した。それは紛れもなくネセシドの剣、即ちツェートが持っていた剣だった。レンリーは首筋へとそれを突き立て―――突き刺さる直前、エネルギーが消失したように刃が停止した。
「え……」
「この……女狐……めぇ」
声の方を振り返ると、殺意に満ちた表情を浮かべながら、こちらに『侵障』を発動しているネセシドの姿があった。
「あんた……!」
「ツェート・ロッタ! この女に騙されるな! この女は私達のどちらかが好きなのではないッ。勝者が好きなんだ……!」
こちらへの殺意はどこへやら、レンリーは馬乗りをやめ、凄まじい勢いでネセシドへと駆け出した。
このままでは、ネセシドが殺される。
ツェートはレンリーの足元に飛び、丁度引っ掛かるように足を伸ばした。レンリーは見事にそれに引っ掛かり、その顔を地面に叩きつける。ツェートはさらにレンリーの背後へと飛び、腕を取って、後ろ手で関節を極める。見様見真似な上に、ツェートは瀕死だが、これで少しは時間を稼げるだろうか。
「離せぇぇぇぇぇ!」
レンリーは必死にもがいている。
「ネセシドッ、どういう事だ!」
「お前もそうだという前提で語らせてもらう。こいつは、「貴方の事が好き」と思わせるような態度を取り、さも特別であるかのような優越感に個人を浸らせる。そうしてその後、勝った方を好きとして、勝者を手に入れる気だったッ。つまり……強者を手籠めにし続け自分の格を上げていこうとしている『糞野郎』だ!」
確かにレンリーは結婚に対し、「乗り気では無い」とばかりの態度を、自分と話している時に示していた。ネセシドの言いぐさから許嫁云々はレンリーのでっち上げ……そうか。そう言えば、婚姻関係についての話は、レンリーから聞いていた。さらに言えば、立ち合いまでの一週間において、レンリーはまるでツェート、言いぐさから察するにネセシドの所にも来ていない、即ち干渉していない。両者個人に「好き」と言っておきながら、そのどちらにも応援、また制止をしようとしなかった。
翌々考えてみればおかしい。彼女はその立場上傍観者で居られる筈が無いのに。
「レンリー……本当なのか?」
「…………黙れ!」
レンリーが出し抜けに抵抗したので、瀕死のツェートでは抑えきれず、拘束を解いてしまった。
そしてそれは最悪の結末を生んだ。
拘束を脱したレンリーは、再び剣を握りしめ、ネセシドへと飛びついた。ネセシドは会話こそ出来るが同じく瀕死の為、動けない。故に容易に飛びつかれてしまった。
これが……レンリーの本性だというのか。自分の思っていた性格とはあまりにもかけ離れていて、それは騙していた事による怒りよりも、この性格を見抜けなかった自分がとても悲しかった。
こんな性格であると知っていれば、ネセシドと軋轢になる事は無かったかもしれない。師匠と出会って、ヴァジュラ達と団欒を楽しんで、何一つ悲しみは無かったかもしれない。
ツェートは自らの好意一つで、あったかもしれない幸福な未来を消してしまったのだ。
悔しい。
悲しい。
辛い。
自分に対する悲観的感情がつもり、気付けばツェートは泣いていた。師匠との訓練ですら泣かなかったツェートが、泣いてしまった。自分の不甲斐なさ故に落涙は加速する。
自分が弱いとはこういう事だったのかもしれない。少しの色情、或いは狂気の愛ゆえに全てを壊した……自分が。
「こんな結果だ。せめてお前には幸せになってほしい。だから―――」
「死ねッ!」レンリーが刃を振り下ろした。
「―――逃げろ!」
その掠れた声はツェートの耳に確かに届いた。最初で最後の、ネセシドからの言葉。
「死ねッ死ねッ死ねッ死ねッ死ねッ死ねッッ死ねッ死ねッ死ねッ死ねッ」
感傷に何て浸っている暇はない。ネセシドの全身に刃を突き立てるレンリーを背に、ツェートは走り出した。
それは何故出来ていて、そして何故壊れるのか。それもまた意思であり、人間によって出来上がる。
故に英雄は最強であり、神話として、人々に語り継がれる。
栄と頽廃。表裏でありながら同時に在るそれは、無辜の英雄すらも、大罪人へと歪ませる。
歪まぬ剣は地獄で出来ている。神に愛されしこの地に刻むは、己の血肉。しかしそれさえも、この地は否定する。
英雄は歪み潰され伸ばされて、そうして初めて神話に刻まれる。それはまるで、鉄を鍛つかのように。
歪まぬ英雄は全ての為に、己の血肉をその剣に捧げる。
故に世界は英雄を神話とする。
歪まぬ剣は世界へと向けられている。
黒く染まれ。
赤く波打て。この血は―――自分の為に捧げるのだ。
惨めに横たわるツェートを見遣った後、ネセシドは折れて使えなくなった剣を捨て、立ち上がった。
立ち合いの直前、フィージェントから『不骸の薬』を貰っておいて良かった。まさか背中を斬られた時、回復総量の七割を埋められるとは思わなかったが、それこそ幸運。薬の存在がばれずに上手く事が運んだ。世の中、何が幸運か分からないモノだ。
ツェートの意外な強さを刮目してから、ネセシドは最初からこれを狙っていた。魔力解放をし、狂戦士のように振舞う事で、ツェートを油断させ、相手に有利と思わせた所を不意打ち。心臓は確実に壊した為、ツェートが起き上がってくる事は無いだろう。
しかしまあ、彼もそれなりに強くなったようだ。死んだ今となっては遅いが、少し評価を改めるべきだったかもしれない。
「だが私は勝った……そう、勝ったんだ! 彼女に振り向いてもらうのは私だ! やった、やったぞぉ」
「オレはま……い……てるぞ……!
」
「……何」
驚いて背後を振り返ると、自らが捨てた両手剣を持ちながら、亡霊のようにゆらゆらと、しかし確かに立っているツェートがいた。
「貴様……どうして」
「……重要臓器を左胸から遠ざけたゴブッ! ……おかげで血管やらが大変な事になってるよ……フッ! だが……生き延びた!」
そうだ。ツェートは自分の所有物も飛ばせるのだ。心臓やら臓器やらは、全て自分の体に収まっているモノ、即ち所有物だ。冷静に考えてみれば、そんな回避方法も不可能ではない。
しかし。しかし、だ。あの一瞬でそんな賭けともとれる判断を下したというのか。あの有利な状況で、不意打ちを喰らって、それが躱せないと判断した上で生き残る策を即座に考案し、実行した。それは場数を踏まなければ出来ない事であり、ツェートはそんな奴では無いはずだ。
……悔しい。
「まだ私の邪魔をするか! ツェート! ツェート・ロッタァァァ!」
殴りかからんとツェートへと駆け出すが、その時には既に、折れた両手剣によって、ネセシドの腹部は貫かれていた……ツェートに。
「ガ、ァ……」
「……俺がゴフッ……邪魔? 良いぜ。なら……テメエが先に逝け!」
腹部から刃を引き抜くと同時に、一歩後退し、首を薙ぐ。
「……ァ!」
首の感覚は既に回復しつつある。大丈夫だ、まだ『不骸の薬』は……そう。首の傷が再生。無かった事となる。
しかしそれだけだ。腹部の傷に、再生の気配はまるでない。
ネセシドはその場に膝をつき、腹部を抑える。
「何故……?」
「ちぇッ……まだ死なないのか……まあいいや、これで……レンリ……オレ……物」
ツェートも限界だったようで、ネセシドが限界だと悟ると、その場に無様に崩れ落ちた。
生憎こちらも限界。意識を保つので精一杯故、彼が死んでいる事を祈るしかない。
「っけ……」
これでは誰が勝ったか分かったモノではない。この場合誰が勝者を決めるのか―——
「終わったみたいね」
「……レンリー?」
そこに現れたのは、ツェート、そして自分が最も欲した女性だ。今はどういう訳か、普段の御淑やかな雰囲気とはかけ離れたように感じる。
「久しぶりね、ネセシド。やっぱり私の予想通り、貴方が勝ったみたいね」
この場合は、意識を持っていた者が勝者という事になっているのだろうか。
それにしても、レンリーの笑顔は美しい。ああ、これを見る為だけにネセシドはツェートを殺したのだ。
「さあ、これで『貴方は私のもの』よ。じゃあまずは……そうね。ツェートは生きてるのかしら?」
「え、あ、ああ多分」
発言に違和感はあったが、良い間違いだろうか、或いは言葉の綾? 細かい事を気にしていても仕方が無いので、流す事にする。
しかし次の発言は流石に容認出来なかった。
「じゃあ殺しましょうか」
虫を殺した事も無い筈のレンリーが、淡泊にそう言ったものだから、ネセシドは絶望と驚きのあまり、言葉を発する事すら出来なかった。
彼女が、殺す? 一体どういう事だ?
そんな思考の絡みつきを知る由もないレンリーは、ツェートの握っている折れた剣を抜き取った。
「私の最強の御婿に手を出すなんてあんたも馬鹿ね。全く、こんな事しでかさなきゃ、性行為の玩具くらいにはしてあげたのに」
レンリーは邪な笑みを浮かべながら、惨めに倒れているツェートをつつく。ツェートは相も変わらず反応を見せない。
まさかこれがレンリーの本当の姿? そんな訳が無いが……こんな姿をネセシドは見た事が無い。無いという事はつまり隠している、即ち本性という事だ。
まさか、こんな女を手に入れる為に、自分達は争っていたのか? こんな女性を求めるくらいならば、ツェートと話していた方がずっと良い。冗談を抜いても、本当に。
「んー少し温かいから……私が消してあげる。感謝しなさいよ、こんな美人に―――殺してもらえるんだからッ!」
「ん……あ……」
一時間か、三十分か。いや、気絶していたツェートには分からない。寝ている人が寝た時間を記憶しておらず、一瞬のように感じるのと同じで、ツェートからしても目覚めたのは一瞬だったのだ。既に夜になっているのを見る限り、相当な時間意識を失っていたのだろう。
まあいい。取りあえずは腕や足に飛ばした重要器官を元の場所に戻し―――と言っても、左胸には大穴が開いているので、完全に元の場所には戻せないが、血管の絡みつきを解消できればそれで良い。
ゆっくりと体を起こしつつ、重要器官を元の場所(近く)に戻していく。心臓、肝臓、腎臓、胃、腸、膵臓―――何れも問題は無い。生命活動は問題なく機能するだろう。
ツェートが完全に体を起こしたとき、こちらに駆けよってくる者がいた……レンリーだ。
「ツェート、生きてたんだね!」
「レンリー……」
レンリーはツェートへと駆け寄り、押し倒し気味に抱き着いた。
「良かった……! 本当に良かった……!」
「痛え……」
言いつつも、彼女の柔らかい抱き心地に、ツェートは満更でもない様子だった。自分は勝ったのだ。これくらいは褒美、多少満喫した所で、罰は当たらないだろう。
しかしそんな褒美も長時間続くと拷問である。やがて傷口に掛かる重圧が、洒落では済まされない程には痛みを膨張させたので、レンリーの背中を二、三回叩く。
「あ、ごめん」
レンリーが離れたので、ツェートは再び体を起こそうとした。
その時、ツェートの視界の端に写るモノがあった。それは意識を失うまでは確かに息をしていたネセシドだった。彼は数メートル先でうつ伏せになって倒れているので、背中に刻まれた幾つもの刺し傷が一層惨く見える。そしてその傷から、彼が生きているかどうかは怪しい。
死んでくれてるのなら、それは何よりだが、しかし先程のように実は生きている、なんて事もある。
警戒は緩めないようにしなければ。
「ツェート、何見てるの?」
「いや……ネセシドの事だけど、俺が倒れた後、どうなったんだ?」
「え? いや、最初からあんな感じだったけど」
その言葉に違和感を感じ、ツェートは思わず自分の手を見た。
……ない。
周囲に視線を巡らすが、やはりどこにもない。無ければおかしい筈の『アレ』がどうして無いのだ。
ツェートは左胸の激痛から逃れるように、思考を整理する。
ネセシドが倒れているのは、意識を失う直前自分が突き刺したからだ。そしてレンリー曰く、最初からあの状態で倒れていた……つまり、自分が意識を失ってる間に倒れたという事だ。ならばやはりおかしい。自分の手にアレが握られていないのは実に可笑しい。さらにおかしいのは、アレが無いにも拘らず、自分の与り知らぬ事象が一つ発生しているという事だ。
全ての可能性、不確定要素、それら全てを総合すると、導き出される結論は信じられないかもしれないが、一つだった。
「なあレンリー、ネセシドに何をした?」
「―――え? 私は何も」
「俺の手から剣が離れてる、処かどこにも無い」
レンリーの愛らしい笑顔が固まった。
「な、なな、何? それで私を疑ってるの?」
「不自然な点はもう一つあるぞ。俺はネセシドを一回しか刺していない。そりゃ何回か斬ったけど、おかしな力で回復されている。……だからあの傷はどう考えても俺が意識を失ってる間に、付けられたモノとしか思えないんだよ」
レンリーの動きが完全に止まった。反論すらしない所を見ると、図星なのだろうか。
「お前……ネセシドを殺したのか?」
次の瞬間、レンリーはツェートに馬乗りになるように飛び掛かった。殆ど瀕死といっても過言ではないツェートだ。普段ならば何という事は無い事でも、今は抵抗する術がない。レンリーの膂力に押し負け、ツェートは見事にポジションを取られた。
「何をする気だ」と言う暇も無く、レンリーが隠していた剣を取り出した。それは紛れもなくネセシドの剣、即ちツェートが持っていた剣だった。レンリーは首筋へとそれを突き立て―――突き刺さる直前、エネルギーが消失したように刃が停止した。
「え……」
「この……女狐……めぇ」
声の方を振り返ると、殺意に満ちた表情を浮かべながら、こちらに『侵障』を発動しているネセシドの姿があった。
「あんた……!」
「ツェート・ロッタ! この女に騙されるな! この女は私達のどちらかが好きなのではないッ。勝者が好きなんだ……!」
こちらへの殺意はどこへやら、レンリーは馬乗りをやめ、凄まじい勢いでネセシドへと駆け出した。
このままでは、ネセシドが殺される。
ツェートはレンリーの足元に飛び、丁度引っ掛かるように足を伸ばした。レンリーは見事にそれに引っ掛かり、その顔を地面に叩きつける。ツェートはさらにレンリーの背後へと飛び、腕を取って、後ろ手で関節を極める。見様見真似な上に、ツェートは瀕死だが、これで少しは時間を稼げるだろうか。
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レンリーは必死にもがいている。
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確かにレンリーは結婚に対し、「乗り気では無い」とばかりの態度を、自分と話している時に示していた。ネセシドの言いぐさから許嫁云々はレンリーのでっち上げ……そうか。そう言えば、婚姻関係についての話は、レンリーから聞いていた。さらに言えば、立ち合いまでの一週間において、レンリーはまるでツェート、言いぐさから察するにネセシドの所にも来ていない、即ち干渉していない。両者個人に「好き」と言っておきながら、そのどちらにも応援、また制止をしようとしなかった。
翌々考えてみればおかしい。彼女はその立場上傍観者で居られる筈が無いのに。
「レンリー……本当なのか?」
「…………黙れ!」
レンリーが出し抜けに抵抗したので、瀕死のツェートでは抑えきれず、拘束を解いてしまった。
そしてそれは最悪の結末を生んだ。
拘束を脱したレンリーは、再び剣を握りしめ、ネセシドへと飛びついた。ネセシドは会話こそ出来るが同じく瀕死の為、動けない。故に容易に飛びつかれてしまった。
これが……レンリーの本性だというのか。自分の思っていた性格とはあまりにもかけ離れていて、それは騙していた事による怒りよりも、この性格を見抜けなかった自分がとても悲しかった。
こんな性格であると知っていれば、ネセシドと軋轢になる事は無かったかもしれない。師匠と出会って、ヴァジュラ達と団欒を楽しんで、何一つ悲しみは無かったかもしれない。
ツェートは自らの好意一つで、あったかもしれない幸福な未来を消してしまったのだ。
悔しい。
悲しい。
辛い。
自分に対する悲観的感情がつもり、気付けばツェートは泣いていた。師匠との訓練ですら泣かなかったツェートが、泣いてしまった。自分の不甲斐なさ故に落涙は加速する。
自分が弱いとはこういう事だったのかもしれない。少しの色情、或いは狂気の愛ゆえに全てを壊した……自分が。
「こんな結果だ。せめてお前には幸せになってほしい。だから―――」
「死ねッ!」レンリーが刃を振り下ろした。
「―――逃げろ!」
その掠れた声はツェートの耳に確かに届いた。最初で最後の、ネセシドからの言葉。
「死ねッ死ねッ死ねッ死ねッ死ねッ死ねッッ死ねッ死ねッ死ねッ死ねッ」
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7万
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1.3万
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2.2万
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1.2万
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4.7万
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1万
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2.3万
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9,625
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1.6万
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