ワルフラーン ~廃れし神話
立ち合い 前編
ツェートに教えた所で無駄であるというのは、分かり切った事なので、この事は誰に伝えるべきだろう。出来ればツェートがレンリーの次に好きと思われる人物―――ヴァジュラ辺りが良いか。
ツェートの家へ戻ると、壁越しでも分かる程の声が聞こえた。この至近距離ならば騒音としか取れない大きさの声は……『竜』の魔人であるユーヴァンの声だ。家を出る時も大声で喋っていたが、時刻は既に夕方へと差し掛かっているというのに、未だに喋っているとはユーヴァンは一体幾つの話題を持っているのか。その話の引き出しを貰いたいくらいだが、本人の個性なので諦める事としよう。
問題は、ユーヴァンの語りの輪に、ヴァジュラ及びツェートが居る事だ。これでは話に交わろうとも交われない。声を掛けてもユーヴァンの声に打ち消されるのがオチだ。だからと言って、接触による反応は、ツェートに興味を抱かせてしまうので気づかれずに、という条件は満たせていない。
アルドは少し考えた後、やがて名案とばかりに顔を上げた。そして、楽しそうに奥の居間で話しているユーヴァン達から目を離し、アルドは階段を上っていった。
「今帰ったぞ」
「……主様、帰ってきたのは嬉しいんじゃが、随分と複雑な心理を抱えておるの」
艶やかな動作でフェリーテがこちらを向き、微笑んだ。この笑顔を見ていると、何だか癒されてしまうが、今はそれ処ではない。
フェリーテの肩を掴みつつ、アルドは顔を近づけた。
「事態は思った以上に厄介だった。今は何も言わずに、協力してくれないか」
フェリーテは鉄扇を開いて、口元を隠した。
「妾は主様の為におるのじゃ。たとえどのような事であろうと、主様の為であれば、是非もない。何でも言ってくれて構わんぞ?」
そう言ってくれるとありがたい。やはりフェリーテを連れてきたのは正解だったようだ。伊達にアルドと世界中を放浪し、様々な事件に巻き込まれた訳ではない。皆は最強をルセルドラグと言うが、意思の疎通という点も鑑みれば、フェリーテが最強だと、アルドからは言わせてもらう。
やはり最強を決めるのは力でも知力でも才能でもない。踏んだ場数なのだ。だからこそフェリーテは強い。
アルドは一度お礼を込めて頷いた後、言った。
「ヴァジュラに『向覚』で用件を伝えて、こっちに来るように伝えてほしい。頼む」
『出来るか?』でも『やれるか?』でもない。相手を信頼しきった上での『頼む』だ。恐らくフェリーテとディナント以外には使わない言葉であり、使った回数を数えても、二、三回。
意外に使わない言葉である。
「その頼み、承った」
フェリーテは鉄扇を閉じ、僅かに首を傾げてみせた。
「という訳なんだ! これはどういう事かと言うとだな―――」
「うんッうんッ」
ツェートの反応が話し手からしてとても気持ち良いのか、ユーヴァンの語りにも熱が入ってきた。もはや女性であるヴァジュラが着いていけない程度には、熱い。唯一付いていけてるツェートも、今はヴァジュラなど眼中に無いようだし、今抜けたとしてもきっと気づかれないだろう。
―――ヴァジュラ、聞こえておるかの。
そんな時、己の脳裏から声が響いた。自分の声では無い。この古風な喋り方———フェリーテだ。
―――ん、フェリーテ。どうかしたの?
―――ああ。その、じゃな。抜けづらいのは重々承知しておるんじゃが、主様たっての頼みじゃ。どうか二階に上がってきてはくれんかの?
ヴァジュラがユーヴァン達の方を見ると、二人は気分を高揚させながら、熱い問答を繰り広げている。
―――全然抜けられるけど。
思考内の会話なので、あちらのリアクションは分からないが、おそらく戸惑ったのだろう。どういう訳か、それは分かる。
ヴァジュラは席を立ち、二階へと向かった。
実を言えばこの時、ユーヴァンは気づいていたのだが、何の為にヴァジュラだけが移動しているのかという事を即座に理解し、話を途切れさせる事無く、語り続けた。ヴァジュラとアルドが出来るだけ長く会話できるように、と。
「や、フェリーテ、アルド様」
「こんな形で呼び出してしまって申し訳ないな。ツェータには気づかれていないか?」
ヴァジュラが頷いたのを確認した後、改まったようにアルドが切り出した。
「よし。では今回は、そう……お前にしか出来ない仕事だ。その―――だな、これは飽くまで私の予想、というより予知と考えてくれて良い。さて、本題に入る前に、まずはそれを話そうか」
アルドは先程まで思考していた事を、ヴァジュラに簡潔に伝えた。同時進行で全く同じ思考を行ったので、フェリーテにも十分伝わっただろう。
それから五分も経たない内に、ヴァジュラが疑問を投げてきた。
「えっと、アルド様の言いたい事は分かったんですけど、僕にどうしろって言うんですか?」
戸惑い気味に尋ねてくるヴァジュラの気持ちは良く分かる。自分からしてみれば愛でる対象でしかない者だというのに、あちらからすれば本気だと言うのだから。それは極端な話をすれば、飼い犬に本気で欲情されてしまうようなもの。欲情されたとして、こちらの反応はどうなるか? 困惑する他無いだろう。
今のヴァジュラの気持ちは、きっとそんな感じだ。彼女がこの大陸の住民ならば、そんな気持ちも抱かずに済んだだろうに、全く可哀想―――いや、幸せな話だ。こんな大陸の事を知らないで居られた日々はさぞ楽しかった事だろう。
ヴァジュラの困り切ったような顔を見ている内に、アルドも何だか何をして欲しいのか分からなくなってきてしまった。最悪な結末を回避する為の提案だが、それでナイツ達が悲しむとならば話は別である。
「……お前が嫌だと言うならば、私は別の案を考えるが、どうする?」
アルドはどこか悲しそうな表情を浮かべながら、ヴァジュラに尋ねた。彼女は過去のせいもあって拘束や強制だけはしたくない。もし彼女が拒否するようなら……言った通り、別の案を考えるしかない。
フェリーテの方を一瞥すると、彼女もまた小さく頷いた。
「で、どうする?」
「……やるだけやってみます。でも、その……期待しないでください」
自分の気持ちに整理がつかないようで、ヴァジュラの顔は、どこか陰気だった。
その気持ちを汲んだ訳では無いが、アルドは確かに頷いた。
「期待しないで待っているよ」
所でこの言葉。酷く矛盾していないだろうか。期待をしていないのに待つとは、即ち期待しているという事ではないか。この言葉、一体何なのだろう。
「それでは方法は任せるが……少しでもいい。レンリーに対する好意に綻びさえ作ってくれれば、後は私がどうにかする」
この頼みが、かなり無茶を言っている事は承知しているが、それでもやるしかないのだ。最悪の結末を回避する為には、多少の無理難題など、跳ね除けなければやっていけないのだから。
今回は事情が事情なので、特別にヴァジュラの隣で寝られるように配置した。勿論、強制性行為に移行するようであれば全力で止めさせてもらうが、まあツェートの好意は今の所レンリーにあるようだし、その心配はないだろう。今回の計画は至極単純だ。
レンリーへの好意を聞き詰める。そうする事で好意に疑いを生じさせ、綻びを作る―――以上だ。何故これをヴァジュラに任せるかと言えば、ヴァジュラの事をツェートが好きかもしれないからという理由が大部分を占めており、話の誘導が上手いとかそういう訳では無い。その方面だけで良いならば、アルドはユーヴァンにこの頼みを授けただろう。
しかしながらこの選択も、アルドの気のせいという最悪の結果だった場合、一切の綻びが作れずに終わるが、そういう時は非常に不本意だが、『首椿姫』を使うしかない。あれは欠点が無いとは言ったが、ある事情によってあまり使う訳には行かないのだが……まあ飽くまで最悪の結果に陥りそうになりそうになった時に使うというだけであるので、最善、次善の結果辺りならば文句はない。
さあ後はアルドの知る所では無い。会話と結果。思いと交錯。『狼』と『子供』のみぞ知る秘密の夜会。
さあ今宵は満月だ。その姿を変えるは『狼』か、それとも一人の『子供』か。傍観者の位置からすれば、楽しみな所ではある。
「さあ、立ち合いは明日だ。ツェータ。早朝に最終確認を行うから、お前も早く寝ると良い」
「え、おう! そんじゃ、俺は……あれ?」
ツェートは自らの床の位置を二度確認。それでもまだ信じられなかったようで、一度階段を下り、それからまた確認をしに戻ってきた。
勿論位置は変わっていない。ツェートの見た通り、ヴァジュラの丁度隣だ。
アルドは芝居がかった調子で両手を広げた。「どうかしたか?」
「いや……え? は? 俺死んだ?」
「そこまで訓練を厳しくしたつもりは……あるが、お前は死んでいないよ」
しかしツェートはこの一週間で、随分他の文化から見た子供に近づいて行っている。この分だと、後一か月もアルド達と行動を共にすれば、異常性は完全に消え去るだろう。……勿論一か月も行動を共にする気は無い。仲間になるのならば話は別だが、だとしてもツェートには少し頼みたい事があるのだ。一緒には行動できない。
「……これは、あれか? 前日に精神を静ませる事で明日慌てないようにっていう……」
子供の癖に『大人』のような発想をする奴だ。いや、この国では『子供』が『大人』だから、つまり『大人』の癖に『子供』みたいな発言を……いや、おかしい。
どちらにしろ、子供がしていい発言ではない。これは……もう……性欲がお盛んな男性が言うべきだ。
考えてて恥ずかしくなってきたので、アルドは目を閉じ、少々きつめに叱責を飛ばす。
「そういう目的じゃないから安心しろ。只まあ……少しだけ近い所ではあるから、よく噛みしめる事だ」
見ている訳では無いが、ツェートの顔が明るくなったような気がした。目を開けて確認すると、ツェートは生気に満ち溢れた顔を浮かべ、拳を握りしめ上へと突き上げていた。
「……そんなに嬉しいのか」
「嬉しいってもんじゃないよ! 有難う師匠ッ!」
予想はしていたが、ここまで喜ぶとは思わなかった。アルドは若干呆気にとられたように言葉を伸ばしていたが、やがて慌てて表情を直した。
「……それでは私は先に寝る事にする。後は二人でお楽しみとは言わないが、まあ程々に楽しんでくれ」
目を閉じると同時に、アルドは肉体から意識を切り離し、眠りについた。
どうか上手く行ってくれる事を願うばかりだ。
早く寝ろとのお達しだったが、彼女と二人で話せる機会なのだ。寝られる訳などある筈がない。こういう所に師匠は厳しい筈なのだが、何故か今日はさっさと寝てしまった。これは師匠が意外に抜けている事、そして今日こそ生涯巡り合えぬ好機である事に他ならない。起きている事にしよう。
それから何十分と待ったが、ヴァジュラ達が部屋に来る事は無かった。あまりに何も起こらぬ無為な時間。寒くも無く、さして厚くも無く。何か起こる訳でも、また解決する訳でもない。子供であるツェートにはそれがどうしようもなく退屈で、それ故、意識がどんどん―――夢へと……引きずり込まれて……
「ツェータ……ツェータ……」
目を覚ましたそこには、ヴァジュラが居た。
「ッ!」
思わず声を出しそうになったが、今は夜中。下手をすれば師匠を起こしてしまうかもしれない。ここは慎重にしなければ。
「ヴァジュラさん……?」
目をうっすらと開けると、そこには、自分の顔を覗き込んでいるヴァジュラの姿があった。
それが月明かりに照らされるととても綺麗で、思わず見惚れてしまう。
「……少し眠れなくてさ。少し話をしない?」
「え……いいけど」
ヴァジュラはツェートの隣に並ぶように座り込んだ。
「ツェータ、さ。幼馴染の事、好きなんでしょ」
「ああ」
「えっと……どれくらいその子の事が好き?」
好き、と言われると……そういえば考えた事が無い。自分はどれだけ彼女の事が好きなのだろう。
『初めまして。私はレンリー・エンモルトよ。よろしくね、ロッタ!』
思えば最初に出来た友達は彼女だ。そして今は失ってしまったが、以前の友達も、全て彼女の御蔭で出来たようなものだ。
だからこれは好きでは無く……恩人?
「でも……凄い好きだぞ。俺に良くしてくれるし」
「じゃあ良くしてくれなかったとしたら、ツェータは彼女の事が好きだった? 何に代えても守ってやりたいと思えた?」
ヴァジュラの質問は、どういう訳か、心に真っ直ぐと突き刺さった。ユーヴァン也がこれをしたとしても、冗談として流せただろうに、一体何故?
しかしそれを考える前に……何に代えても、か。それを考えた事は一度も無い。だって、そんな状況に遭遇した事は一回も無いのだから。
『私を守ってくれるよね?』
レンリーの優しい声が脳裏に響く。ああ、そうだ。この声を聞くために自分は―――
いや、違う。この声を聞くために全ては投げ出せない。例えば師匠を殺せと言われたとしても、自分には出来ないし、出来たとしても受ける事は出来ない。
レンリーの好感度よりも、師匠達と過ごした時間の方が、ずっと大切だ。
「うーん、それは違うかな。俺は師匠達と過ごしたこの時間の方が大事だし、出来ればこれからも師弟として繋がっていたい。それはレンリーよりかは間違いなく大事だぜ。少なくとも、今はな」
別にレンリーが嫌いな訳では無い。只、秤に冷静に掛けた時、レンリーとこの時間では、あまりにも釣り合わない。
「……そっか。……うん、ありがとう。話してくれて」
「こんな話で良かったら、ヴァジュラさんにいつでも聞かせるよ」
「……優しいんだね」
もう直ぐ師匠達とは別れの時が来る。しかしもう思い残す事はない。ヴァジュラからの感謝さえ聞ければ……もう残す事はない。
ヴァジュラが自らの床へと戻り(といっても、自分の隣だが)寝静まったのを確認すると、ツェートもまた、目を閉じた。
そして、立ち合いの日―――
ツェートの家へ戻ると、壁越しでも分かる程の声が聞こえた。この至近距離ならば騒音としか取れない大きさの声は……『竜』の魔人であるユーヴァンの声だ。家を出る時も大声で喋っていたが、時刻は既に夕方へと差し掛かっているというのに、未だに喋っているとはユーヴァンは一体幾つの話題を持っているのか。その話の引き出しを貰いたいくらいだが、本人の個性なので諦める事としよう。
問題は、ユーヴァンの語りの輪に、ヴァジュラ及びツェートが居る事だ。これでは話に交わろうとも交われない。声を掛けてもユーヴァンの声に打ち消されるのがオチだ。だからと言って、接触による反応は、ツェートに興味を抱かせてしまうので気づかれずに、という条件は満たせていない。
アルドは少し考えた後、やがて名案とばかりに顔を上げた。そして、楽しそうに奥の居間で話しているユーヴァン達から目を離し、アルドは階段を上っていった。
「今帰ったぞ」
「……主様、帰ってきたのは嬉しいんじゃが、随分と複雑な心理を抱えておるの」
艶やかな動作でフェリーテがこちらを向き、微笑んだ。この笑顔を見ていると、何だか癒されてしまうが、今はそれ処ではない。
フェリーテの肩を掴みつつ、アルドは顔を近づけた。
「事態は思った以上に厄介だった。今は何も言わずに、協力してくれないか」
フェリーテは鉄扇を開いて、口元を隠した。
「妾は主様の為におるのじゃ。たとえどのような事であろうと、主様の為であれば、是非もない。何でも言ってくれて構わんぞ?」
そう言ってくれるとありがたい。やはりフェリーテを連れてきたのは正解だったようだ。伊達にアルドと世界中を放浪し、様々な事件に巻き込まれた訳ではない。皆は最強をルセルドラグと言うが、意思の疎通という点も鑑みれば、フェリーテが最強だと、アルドからは言わせてもらう。
やはり最強を決めるのは力でも知力でも才能でもない。踏んだ場数なのだ。だからこそフェリーテは強い。
アルドは一度お礼を込めて頷いた後、言った。
「ヴァジュラに『向覚』で用件を伝えて、こっちに来るように伝えてほしい。頼む」
『出来るか?』でも『やれるか?』でもない。相手を信頼しきった上での『頼む』だ。恐らくフェリーテとディナント以外には使わない言葉であり、使った回数を数えても、二、三回。
意外に使わない言葉である。
「その頼み、承った」
フェリーテは鉄扇を閉じ、僅かに首を傾げてみせた。
「という訳なんだ! これはどういう事かと言うとだな―――」
「うんッうんッ」
ツェートの反応が話し手からしてとても気持ち良いのか、ユーヴァンの語りにも熱が入ってきた。もはや女性であるヴァジュラが着いていけない程度には、熱い。唯一付いていけてるツェートも、今はヴァジュラなど眼中に無いようだし、今抜けたとしてもきっと気づかれないだろう。
―――ヴァジュラ、聞こえておるかの。
そんな時、己の脳裏から声が響いた。自分の声では無い。この古風な喋り方———フェリーテだ。
―――ん、フェリーテ。どうかしたの?
―――ああ。その、じゃな。抜けづらいのは重々承知しておるんじゃが、主様たっての頼みじゃ。どうか二階に上がってきてはくれんかの?
ヴァジュラがユーヴァン達の方を見ると、二人は気分を高揚させながら、熱い問答を繰り広げている。
―――全然抜けられるけど。
思考内の会話なので、あちらのリアクションは分からないが、おそらく戸惑ったのだろう。どういう訳か、それは分かる。
ヴァジュラは席を立ち、二階へと向かった。
実を言えばこの時、ユーヴァンは気づいていたのだが、何の為にヴァジュラだけが移動しているのかという事を即座に理解し、話を途切れさせる事無く、語り続けた。ヴァジュラとアルドが出来るだけ長く会話できるように、と。
「や、フェリーテ、アルド様」
「こんな形で呼び出してしまって申し訳ないな。ツェータには気づかれていないか?」
ヴァジュラが頷いたのを確認した後、改まったようにアルドが切り出した。
「よし。では今回は、そう……お前にしか出来ない仕事だ。その―――だな、これは飽くまで私の予想、というより予知と考えてくれて良い。さて、本題に入る前に、まずはそれを話そうか」
アルドは先程まで思考していた事を、ヴァジュラに簡潔に伝えた。同時進行で全く同じ思考を行ったので、フェリーテにも十分伝わっただろう。
それから五分も経たない内に、ヴァジュラが疑問を投げてきた。
「えっと、アルド様の言いたい事は分かったんですけど、僕にどうしろって言うんですか?」
戸惑い気味に尋ねてくるヴァジュラの気持ちは良く分かる。自分からしてみれば愛でる対象でしかない者だというのに、あちらからすれば本気だと言うのだから。それは極端な話をすれば、飼い犬に本気で欲情されてしまうようなもの。欲情されたとして、こちらの反応はどうなるか? 困惑する他無いだろう。
今のヴァジュラの気持ちは、きっとそんな感じだ。彼女がこの大陸の住民ならば、そんな気持ちも抱かずに済んだだろうに、全く可哀想―――いや、幸せな話だ。こんな大陸の事を知らないで居られた日々はさぞ楽しかった事だろう。
ヴァジュラの困り切ったような顔を見ている内に、アルドも何だか何をして欲しいのか分からなくなってきてしまった。最悪な結末を回避する為の提案だが、それでナイツ達が悲しむとならば話は別である。
「……お前が嫌だと言うならば、私は別の案を考えるが、どうする?」
アルドはどこか悲しそうな表情を浮かべながら、ヴァジュラに尋ねた。彼女は過去のせいもあって拘束や強制だけはしたくない。もし彼女が拒否するようなら……言った通り、別の案を考えるしかない。
フェリーテの方を一瞥すると、彼女もまた小さく頷いた。
「で、どうする?」
「……やるだけやってみます。でも、その……期待しないでください」
自分の気持ちに整理がつかないようで、ヴァジュラの顔は、どこか陰気だった。
その気持ちを汲んだ訳では無いが、アルドは確かに頷いた。
「期待しないで待っているよ」
所でこの言葉。酷く矛盾していないだろうか。期待をしていないのに待つとは、即ち期待しているという事ではないか。この言葉、一体何なのだろう。
「それでは方法は任せるが……少しでもいい。レンリーに対する好意に綻びさえ作ってくれれば、後は私がどうにかする」
この頼みが、かなり無茶を言っている事は承知しているが、それでもやるしかないのだ。最悪の結末を回避する為には、多少の無理難題など、跳ね除けなければやっていけないのだから。
今回は事情が事情なので、特別にヴァジュラの隣で寝られるように配置した。勿論、強制性行為に移行するようであれば全力で止めさせてもらうが、まあツェートの好意は今の所レンリーにあるようだし、その心配はないだろう。今回の計画は至極単純だ。
レンリーへの好意を聞き詰める。そうする事で好意に疑いを生じさせ、綻びを作る―――以上だ。何故これをヴァジュラに任せるかと言えば、ヴァジュラの事をツェートが好きかもしれないからという理由が大部分を占めており、話の誘導が上手いとかそういう訳では無い。その方面だけで良いならば、アルドはユーヴァンにこの頼みを授けただろう。
しかしながらこの選択も、アルドの気のせいという最悪の結果だった場合、一切の綻びが作れずに終わるが、そういう時は非常に不本意だが、『首椿姫』を使うしかない。あれは欠点が無いとは言ったが、ある事情によってあまり使う訳には行かないのだが……まあ飽くまで最悪の結果に陥りそうになりそうになった時に使うというだけであるので、最善、次善の結果辺りならば文句はない。
さあ後はアルドの知る所では無い。会話と結果。思いと交錯。『狼』と『子供』のみぞ知る秘密の夜会。
さあ今宵は満月だ。その姿を変えるは『狼』か、それとも一人の『子供』か。傍観者の位置からすれば、楽しみな所ではある。
「さあ、立ち合いは明日だ。ツェータ。早朝に最終確認を行うから、お前も早く寝ると良い」
「え、おう! そんじゃ、俺は……あれ?」
ツェートは自らの床の位置を二度確認。それでもまだ信じられなかったようで、一度階段を下り、それからまた確認をしに戻ってきた。
勿論位置は変わっていない。ツェートの見た通り、ヴァジュラの丁度隣だ。
アルドは芝居がかった調子で両手を広げた。「どうかしたか?」
「いや……え? は? 俺死んだ?」
「そこまで訓練を厳しくしたつもりは……あるが、お前は死んでいないよ」
しかしツェートはこの一週間で、随分他の文化から見た子供に近づいて行っている。この分だと、後一か月もアルド達と行動を共にすれば、異常性は完全に消え去るだろう。……勿論一か月も行動を共にする気は無い。仲間になるのならば話は別だが、だとしてもツェートには少し頼みたい事があるのだ。一緒には行動できない。
「……これは、あれか? 前日に精神を静ませる事で明日慌てないようにっていう……」
子供の癖に『大人』のような発想をする奴だ。いや、この国では『子供』が『大人』だから、つまり『大人』の癖に『子供』みたいな発言を……いや、おかしい。
どちらにしろ、子供がしていい発言ではない。これは……もう……性欲がお盛んな男性が言うべきだ。
考えてて恥ずかしくなってきたので、アルドは目を閉じ、少々きつめに叱責を飛ばす。
「そういう目的じゃないから安心しろ。只まあ……少しだけ近い所ではあるから、よく噛みしめる事だ」
見ている訳では無いが、ツェートの顔が明るくなったような気がした。目を開けて確認すると、ツェートは生気に満ち溢れた顔を浮かべ、拳を握りしめ上へと突き上げていた。
「……そんなに嬉しいのか」
「嬉しいってもんじゃないよ! 有難う師匠ッ!」
予想はしていたが、ここまで喜ぶとは思わなかった。アルドは若干呆気にとられたように言葉を伸ばしていたが、やがて慌てて表情を直した。
「……それでは私は先に寝る事にする。後は二人でお楽しみとは言わないが、まあ程々に楽しんでくれ」
目を閉じると同時に、アルドは肉体から意識を切り離し、眠りについた。
どうか上手く行ってくれる事を願うばかりだ。
早く寝ろとのお達しだったが、彼女と二人で話せる機会なのだ。寝られる訳などある筈がない。こういう所に師匠は厳しい筈なのだが、何故か今日はさっさと寝てしまった。これは師匠が意外に抜けている事、そして今日こそ生涯巡り合えぬ好機である事に他ならない。起きている事にしよう。
それから何十分と待ったが、ヴァジュラ達が部屋に来る事は無かった。あまりに何も起こらぬ無為な時間。寒くも無く、さして厚くも無く。何か起こる訳でも、また解決する訳でもない。子供であるツェートにはそれがどうしようもなく退屈で、それ故、意識がどんどん―――夢へと……引きずり込まれて……
「ツェータ……ツェータ……」
目を覚ましたそこには、ヴァジュラが居た。
「ッ!」
思わず声を出しそうになったが、今は夜中。下手をすれば師匠を起こしてしまうかもしれない。ここは慎重にしなければ。
「ヴァジュラさん……?」
目をうっすらと開けると、そこには、自分の顔を覗き込んでいるヴァジュラの姿があった。
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「……少し眠れなくてさ。少し話をしない?」
「え……いいけど」
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「ツェータ、さ。幼馴染の事、好きなんでしょ」
「ああ」
「えっと……どれくらいその子の事が好き?」
好き、と言われると……そういえば考えた事が無い。自分はどれだけ彼女の事が好きなのだろう。
『初めまして。私はレンリー・エンモルトよ。よろしくね、ロッタ!』
思えば最初に出来た友達は彼女だ。そして今は失ってしまったが、以前の友達も、全て彼女の御蔭で出来たようなものだ。
だからこれは好きでは無く……恩人?
「でも……凄い好きだぞ。俺に良くしてくれるし」
「じゃあ良くしてくれなかったとしたら、ツェータは彼女の事が好きだった? 何に代えても守ってやりたいと思えた?」
ヴァジュラの質問は、どういう訳か、心に真っ直ぐと突き刺さった。ユーヴァン也がこれをしたとしても、冗談として流せただろうに、一体何故?
しかしそれを考える前に……何に代えても、か。それを考えた事は一度も無い。だって、そんな状況に遭遇した事は一回も無いのだから。
『私を守ってくれるよね?』
レンリーの優しい声が脳裏に響く。ああ、そうだ。この声を聞くために自分は―――
いや、違う。この声を聞くために全ては投げ出せない。例えば師匠を殺せと言われたとしても、自分には出来ないし、出来たとしても受ける事は出来ない。
レンリーの好感度よりも、師匠達と過ごした時間の方が、ずっと大切だ。
「うーん、それは違うかな。俺は師匠達と過ごしたこの時間の方が大事だし、出来ればこれからも師弟として繋がっていたい。それはレンリーよりかは間違いなく大事だぜ。少なくとも、今はな」
別にレンリーが嫌いな訳では無い。只、秤に冷静に掛けた時、レンリーとこの時間では、あまりにも釣り合わない。
「……そっか。……うん、ありがとう。話してくれて」
「こんな話で良かったら、ヴァジュラさんにいつでも聞かせるよ」
「……優しいんだね」
もう直ぐ師匠達とは別れの時が来る。しかしもう思い残す事はない。ヴァジュラからの感謝さえ聞ければ……もう残す事はない。
ヴァジュラが自らの床へと戻り(といっても、自分の隣だが)寝静まったのを確認すると、ツェートもまた、目を閉じた。
そして、立ち合いの日―――
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