ワルフラーン ~廃れし神話

氷雨ユータ

不善

 デュークの家は、とても貧しかった。少しでも贅沢をしようものなら奴隷へと落ちるのは確実。
 奴隷でないだけであって、平民ではない。そういう位置に居る家系だった。
 勿論、デュークが生まれたからと言って、その家庭事情が変わる訳ではない。デュークは貧しい生活を余儀なくされた。
 それから数年、デュークは七歳になった。本来なら魔術学校に入学しなければならない歳だが、そんな事をしようものなら、デューク含め家族は奴隷行き。デュークは奴隷相応の扱いを受ける覚悟で、『未修学』の証を受け取り、己が人生に待つ『これから』を捨て、今を選んだのだ。
 それは、将来を諦めたとも言えれば、今を生きる事を選んだとも言える。その選択が間違っているか否かはさておいて、デュークは未来を代償に、周りの者が堕ちない事を、選んだのだ。
 そんな彼の性格に惹かれたからか、彼は二十二歳の頃、運命の出会いを果たした。デュークは最初こそ結婚を躊躇ったが、彼女の『貧しくても構わない』という言葉に心を救われ、デュークは結婚を決意した。
 幸運な事に、彼女の家はとても裕福で、支援を受ける事が出来た。その支援の御蔭で、デュークと家族は貧乏から脱出する事が出来、周りから馬鹿にされるような事は無くなった。その結婚が正しいかは分からない。だが確かに、デュークは幸せだった―――あの日が来るまでは。
 彼が二十五歳を過ぎた頃、フォーミュルゼンと名乗る男が突然デュークの元を訪れたのだ。男は、胡散臭い雰囲気を出している男で、最初こそ追い払ったが、その男が上流貴族と知ると、そういう訳には行かなくなり、遂に家の敷居を跨がせてしまった。
 高慢な態度(貴族故、しょうがない事だと思うが)を取る男は、開口一番、こう言った。
「お前の力を、俺の為に使え」
十二歳で、熟練の冒険者に負けない程には戦えるようになり、十五歳の頃には上位の魔術を全て習得していたデュークは、その男に違和感を覚えた。デュークを道具としか思っていない事ではない。天稟の才とも言えるその実力は、デューク自身ひた隠しにしてきたから、そんな扱いを受ける事は良く分かっていた。それ程までに危険で、そして面倒くさい事になると察していたからだ。
 しかしそれをフォーミュルゼンは全て知っていた―——何故?
―――そう、デュークが運命の出会いと信じてきた相手、つまり妻はフォーミュルゼンのスパイ。デュークは騙されていたのだ。
 今更それを責める意味はない。妻を信じた自分が悪い。自分が優しすぎる故に人を信じ、そして騙された。全ては自分が悪いのだ。
 デュークはその要求を断る事は出来なかった。断れば妻からの支援金が無くなり、自分諸共、家族までが再び貧しい生活を強いられるか―――或いは、奴隷になってしまうかもしれなかったから。 そんな事を今更起こしてしまっては、過去自分がした選択に意味は無くなってしまう―――
 今日この日。デュークは善人ではなくなった。
 今の彼は、無垢な少女を、真面目な女性を浚い、売って。時には魔物と合わせ、他国に被害を与える奴隷商人となり果てた。それは本来の彼の人格を歪ませ、捻じ曲げ、押しつぶした。もはや彼自身、自分がどんな人間であるか分かっていないだろう。
 そんな彼にも一つだけ願いはある。唯一にして、最大の望み。
 誰か、こんな悪人わたしを殺してくれ。






 デュークが斜めに払った刃の軌道上には、確かにウルグナがいた。剣速的にも回避は不可能。ウルグナは武器すら抜いていない為、常識的に考えるならば、重傷は確実。デュークはそう思っていたし、きっと誰もがそう思う。只一人、ウルグナを除いては。
 魔力によって藍色を帯びた剣閃が、ウルグナの肩から腰を切り裂いた。しかし、それは一瞬の事。次の瞬間にはウルグナの像が僅かに横にぶれ、刃を躱していた。それが理解できるや否や、即座に手首を返し追撃しようとするが、ウルグナは既に間合いを取っていた。
「フゥーッ……フゥー……」
 早まる鼓動が呼吸に移って荒くなる。焦ってはいけない。慎重に動かなくては、あの傭兵には勝てない。冷静に、冷静に。
 デュークは目を血走らせながらも、あくまで冷静にウルグナを見据える。
 あの男、こちらが魔力を解放―――つまり、全力で掛かっていっているにも拘らず、まるで攻撃が当たらない。魔術を使っているのかとも思ったが、むしろその逆だ。ウルグナは―――魔術を一切使用していないのだ。
 魔力と身体は、他の何よりも密接な関係にある。簡単に言えば、強者であればある程、その保有量は増大し、それに伴うように魔力開放量(解放の方は、全開の意である)も増大するのだ。それは裏を返せば、大抵の強者は常に多量の魔力を纏っている、という事。つまりは……そう。魔力の総量が少ない者は、纏う量も少ないという事で、少ないという事は、つまり弱い事に他ならない。
 ウルグナが異常とも言える量の魔力を抱えている事は、出会った時から分かっていた。その量はデュークが百人居ようと、半分にすら追い付けない程だ。にも拘らず、ウルグナは魔力を『一切』纏っていない上に、魔術すら一切使用していない。
 そんな人間が、果たしているだろうか。如何に魔術を使えぬ平民といえど、雀の涙程には魔力を纏っている。この絶対不変の基準で考えてみれば―——ウルグナは一般人未満という事なのだが。
 デュークはウルグナの眼前まで、一気に距離を詰め、剣を薙いだ。案の定ウルグナは僅かにぶれ、その薙ぎを難なく躱すが、それこそがデュークの狙いだった。
 デュークはウルグナの脇をそのまま走り抜け、跳躍。木を蹴って跳ね返り、再びウルグナへと突っ込んだ。「広範囲を一人で補うために、高速で移動し、連続で切り付ける剣術ですか」
 ウルグナが独り言のように呟いた後、徐にウルグナがしゃがんだ。その行動を確認したデュークが、丁度ウルグナの真上に差し掛かった時―――ウルグナが左手を突き上げた。
「それ以上はさせませんよ」
 場所は、丁度鳩尾だ。
「ォ……」
 骨が軋み砕ける音と共に、デュークは潰れるような痛みに襲われながら、空中へと打ち上げられた。呼吸が一瞬止まったせいか呼吸が詰まるが、もはやそんな些細な事を、気にしていられる程、彼は冷静ではなかった。
 デュークは背中が下にくるように体を捻ると、左胸に手を押し当て、魔術を行使。
衝槌イメンスライオットッ」
 直後に発生した巨大な圧力に吹き飛ばされ、デュークは地面へと垂直落下。着地面が砕け散り、周囲には深い罅が入った。
淀獣ヴァストタスクッ」
不可視の牙が、螺旋を描きながらウルグナへと襲い掛かるも、何故かウルグナに命中する事は無かった。牙は螺旋を崩されてるのは勿論、三本とも有り得ない方向にへし折れながら、明後日の方向を抉り取って消えていった。
 これらは上位魔術。命中すれば即死は確実であるそれらを、全て無詠唱で唱えているというのは、本来称賛されるべき特技だ。
 しかし。どんな速さで迫ろうと、どんな速さで魔術を唱えようと。ウルグナにはかすり傷一つ与えられない。それどころか、逆に攻撃まで喰らってしまった。
 これが……本当に魔力を纏わない者の強さか?
 デュークは限界だと叫ぶ筋肉を酷使し、体を起こした。
「……何故だ……!」
「主語を入れてから喋れ。でなければ分からん」
 一度敵とみなしたからだろうか。その口調は鋭く、そして冷たい。
「何故だ……! 何故だ……! 何故だアアアァァ! 何故魔力を纏わずして、俺の動きが読めるッ? その強さは何だ!」
 雄叫びのようなデュークの問いに、ウルグナはため息交じりに答えた。
「それを知りたいなら私に勝つ事だな。まあ、私に一度も攻撃を与えられない辺り、お前が勝つ事は絶望的に思えるが」
「ウァ˝ァ˝ァ˝ァ˝ァ˝ッ!」
 デュークは伏せていた状態から一気に立ち上がり、ウルグナへと肉迫。縦横無尽の十連撃を放つが、そのどれもがあまりにも雑で、やはり当たる事はなかった。
 分かっている。体が限界なのだ。先程の反撃で、体力は殆ど消滅した事も分かっている。一瞬にしてボロボロになったこの体では、もはや勝てる可能性は近づくどころか、遠ざかっている。
 デュークの剣が虚空を切り裂くと同時に、ウルグナの手が、デュークを捉えた。本来なら対処できたそれだが、今の疲労状態では避ける事すら出来なかった。
 刹那、デュークの顎が筋肉質な手に覆われ―――砕かれた。
「ガ˝ァァッ! ぇ……ぁ……ぁ……………ぁ」
 多量の出血と激痛に意識を喰われていくのが分かった。口を動かそうとする度に、激痛が走り、余計に意識を食い荒らしていく。その痛みはもはや的確な例えすらない。強いて言っても内側から刺されたような、そんな痛みだ。
 そのような痛みは、如何に強者と言えど、耐える事は難しいだろう。抵抗空しくデュークはその場に倒れ込むと同時に、その意識を自ら閉ざした。






 デュークが目を開けると、そこは血で満たされていた。上体を起こして、辺りを見回す。
 これは……。
 数メートルも見渡せぬ程暗い血の海に浮かぶは、幼き少女達の亡骸。それはまるで流木のように、辺りに浮いていて、その中心に、デュークは居た。
 ここは―――地獄か?
 血の海へと足を踏み入れ、デュークは血の海を進んでいく。視界は暗闇に塗りつぶされているも同然だが、不思議な事に、地獄としか言えないこの場所で、どこに行くべきなのか。デュークにはそれが分かっていた。
 血の海を歩き続けていると、柔らかな感触が、デュークの脚を駆け抜けた。反射的に視線を落とすと、そこには胸に剣が突き刺さった死体―――妻がいた。
 よお、そいつを見つけたみたいだな。
 それは空間全体に響いていて、位置を掴む事は出来なかった。普段なら、剣を抜き警戒していただろうが、不思議とその声には、敵意を感じなかった。
 あんたは?
 もう分かってんだろ、『俺』。
 水を突き進む音と共に、それは現れた。大して良くも無い顔に、品はどちらかと言うと無くて、身なりも汚い男、デューク・ファドクだ。
 『自分』は穏やかな笑みを浮かべながら、こちらへと歩み寄り、手を差し伸べてきた。血の海を歩いたにも拘らず、その身は全く汚れていない。
 差し述べられた手を払い、デュークは彼を睨む。
 お前は本当に俺と同じデュークか?
 そうでないなら、俺は何だよ。姿、性格。過去。どこを取ったって、デューク・ファドクのはずだぞ。
 だったら、その手は何だ?
 デュークは先程払った腕を指さし、『自分』に問う。『自分』は首を傾げると、さも当たり前のように語り出した。
 何言ってんだか。この世界にはお前は一人しかいないのに、どうしてお前と違うお前が居るって言えるんだ。俺は人格の歪んでいないお前。つまりお前の良心だ。
 その言葉に、デュークは眉を顰めた。
 なら、この地獄のような風景は何だ? お前は俺を騙る鬼で、俺は死んで地獄行き。それが真実だろ。
 それ以外には考えようも無かった。この凄惨たる光景が、自分の心の中であるはずはないし、かといって、どこかに飛ばされたという訳でもない。 
 ここは地獄で、自分は死んだ。そういう解釈が自然であり、きっと正しい。
 その言葉に、『自分』は微笑んだ。その笑顔に穢れなど一欠片も無い。
 ……まあ、無理もない発想だが、そんな小さい常識で考えて、世界を理解できると思うか? お前が今戦っている男を、お前は自分の常識で推し量り、そして間違えた。それでも尚お前は常識を信じるのか?
『自分』であるからこそ言えるだろう痛烈な言葉に、デュークは何も言い返せなかった。
 信じよう。確かにここは地獄ではない。地獄であるなら―――ここまで自分に対して痛烈な言葉は言わないだろう。
 デュークは思考を切り替え、『自分』と向かい合う。
 それで、ここはどこだ?
 ここか? ここは心の中―――じゃなくて、お前自身の人格部屋。俺とお前しかいない―――『自分の』部屋だよ。さあ、地獄じゃないと証明する為にも、お前が生き残る術を教えよう。






 デュークが動かなくなってから数分。死んでいるとは思えないが、全くと言っていいほど動きはなかった。
 まだ彼には聞きたい事があったのだが、仕方がない。先に馬車を破壊するとしよう。ウルグナはデュークを通り過ぎ、馬車へと歩いていく。途中でワドフを一瞥するが、起き上がる様子はない。デュークと同様、当分は起き上がらないだろう。
 程なくして木々の隙間から馬車が見えてくるが、そこからは黒い瘴気。紛れもなく、森から噴き出しているものだ。きっとあの中には、百鬼夜行をものともしない光景が広がっているのだろう。
 子以外は攻撃が出来ないから、危害を加えられる心配はないが……
 ウルグナだって色々なものを見てきた。女が男どもに犯される姿、年端もいかない少女が、龍にその身を喰われる姿。単純に四肢が潰れているものもあれば、間違った所に部位が突き刺さっている死体も見た。
 それはまるで、この世の悪を集めたものを見ているみたいで、最初は気分が悪かったものだ。今ではもう、何とも思わないが。
 しかしそのウルグナをもってしても、奴隷商人の馬車の中は見た事がなかった。
 どんな光景が広がっているのだろうか。きっと悍ましく、恐ろしく、そして惨い。そんな光景が広がっているのだろうか。
 馬車の目の前まで来ると、その瘴気はウルグナをも包み始めた。死臭がする。もう嗅ぎ慣れて何もいう事はないが、一般人ならばこう言うだろうし思うだろう。これ以上近づいてはいけないと。
 ウルグナは慎重に馬車へと上り―――その中を見た。
「……」
 そこには辛うじて人を保つ者達が、己の内部から異形を吐き出していた。泣いても居ないし、怒ってもいないし、きっと何も感じていない。
 それは大変惨く、恐ろしく、悍ましい―――事は確かなのだが、あまりにも予想通りだったⅯのだから、興奮はない。
 生まれた子がこちらに牙を剥いてくるが、やはり感想は無い。
 少し―――期待しすぎてしまったようだ。
 浅く息を吐いた後、ウルグナは馬車へと入っていった。




 俺は本当に勝てるのか? あいつは俺が戦った者の中でも、ぶっちぎりで最強だ。勝てるとは思えないぞ?
 でもここで負ける訳には行かない、そうだろう? 何せここでお前が死ねば、家族にも不幸が掛かるんだからな。
 ……そうだがな。なら、俺はどうするべきなんだ。本気を出しても、かすり傷一つ追わせられない奴に、どうやって挑めばいい?
 ……何か勘違いしてるな……お前は本気を出していない。お前の、つまり良心オレがいるせいで、お前の力は無意識に加減されているんだ。
 なあ……それって―――
 デュークと自分の視線が、足元の剣を介して交錯した。言いたい事は分かっていた。
 本気で言ってるのか?
 でなきゃ家族は死ぬだけだ。生まれた時からお前とは一緒に居たが―――ここでお別れだな。
『自分』の言葉であるはずなのに、その言葉は、確かにデュークの胸を貫いた。どんな言葉も通さなかった心の壁を、『自分』は突き破ったのだ。
 デュークは、剣の柄に手を掛けた。
 じゃあな。
 じゃあな。
 その時の『自分』の顔は、とても悲しそうだった。






 黒い血で全身を穢したウルグナの背後には、幾つもの肉塊と、大小様々な木材があった。果たして、ほんの数分前にはこの木材が馬車であったなど、誰が思うのか。
 馬車の中は、大変広かったが、中で生まれた子―――総計三百五十二匹が居るのでは、その馬車も窮屈であると言わざるを得なかった。勿論そのせいで思わず馬車を壊してしまったが、問題ないだろう。元々そういうつもりだったし。
 未だ動く事はないデュークを一瞥した後、ワドフの下へと歩み寄り、息を確かめる。流石に血まみれの手で、彼女に触る訳には行かないので、あくまで至近距離からの確認だが。
―――やはりデュークは危害を加えるつもりは無かったようだ。息は弱いが、それは浚われる前も同じ。変化とはとても言えない。
 とはいえ、息は弱い。急いで戻る必要があるだろう。ウルグナはワドフを抱え、森の外へと歩き出す。本当にデュークが死んでいるならデュークを『捨てた』とみなし、自分達は解放されるはずだ……
「ああ、そうですか」
 ウルグナはワドフを幹の傍に置いて、身を翻す。そして、デュークにとどめを刺さんと、ウルグナはワドフの剣を引き抜き、距離を詰めた―――
「ヴア˝ア˝ア˝ァ˝ァ˝ァ˝ア˝ァ˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ッ!」
 デュークの目が見開かれると同時に、その体から大量の魔力が解き放たれる。その量はもはや衝撃に等しく、気を抜いていたウルグナは虚をつかれ、方向のままに吹き飛んで幹に激突。
 大した怪我ではないが、初めてウルグナが喰らった攻撃だ。
 その体は藍色の魔力に包まれている。負っていた傷は癒やされていく。
 やがてデュークは左手、上体、やがては全身を動かし、ゆっくりと立ち上がった。その手に握られている剣は、両手剣のように長く大きくなっただけでなく、眩いばかりの藍色に包まれていた。
 魔力解放の究極系。その名も―――覚醒。
 壁を超えたか。
 ウルグナは立ち上がり、剣を構える。デュークはもはや正気を失っているが、それでいい。そこまで出してやっと、
「私達は対等な勝負が出来るッ」
「ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝ッ!」
 久しく騒いでいなかった血が騒ぐ。幾万人もの血を浴びた身体が戦いを欲している。
 この戦いを、待っていた。


 

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